ケタへの播種開始

ケタ焼きしたところへ、今日は午後から種まきに行ってきた。昨日やるはずだったのだが、ナラ山整備でいっぱいいっぱいで、できなくなったゆえ。

陸稲もここに植えることにしたので、その場所をまず決めた。陸稲はネリカ。水稲のように浸水してからがよいのかどうか。そこは迷うところだれど、というより、ようわからんのだけど、そのまままいてみようかと思う。なにせ雨が降らないので気を使うのだ。大事な種だもの。

今日のところは、北側から順にこんな具合だ。高知からやってきたモロコシ、赤穂のアマランサス、モチアワ、タカキビ。

モチアワは鍬で筋をかいて、斜面上部に3筋ほど撒いたところで終わり。あとはばらまいてみた。

アマランサスは最初からばらまき。

タカキビとモロコシだけは、ていねいに一粒ずつ間隔をあけてまいた。

小屋まわりと資材そばの草刈りも少々。茅が多いところの手刈りはしんどいなあ。手首がよう動かんようにまでなる。

明日はお休み(して家の畑と庭仕事を)、明後日はナラ山の整備と阿井へ。明々後日にまた播種かな。

出雲の山墾り〜竹の焼畑sec.11

5月11日(土)。
 春焼きに向けて、火入れ地整備の日です。10:00〜15:30、山村塾1名、里山理研究会5名、最高気温28℃。
 中山は里管で、楢山は塾で。

 塾の方は実質3時間で伐採竹の積み直しと生長してきた草木の刈り取り。急斜面でからまった竹をほぐしていくのは、想定していたよりも時間がかかることが判明。また、竹は最高度に乾燥しており、手ノコでは歯がたたないレベルのものもチラホラ。チェーンソーでもきついくらい。

 どこにどう積み直し、どこから火をつけて、どのように延焼させるのを基本とするか……も考えながらなので、そこも時間がかかった要因でもある。

 スパイク足袋でも気をつけないとすべるほどの急斜面なので、足場をとるのにも気をつかう。

 では、今後の段取りを見据えつつ、目論見を。

 堆積した竹葉は活かせるところはそのままいかし、延焼に巻き込むのが手数をけずるためにもいい。春焼きならば燃えてくれることは昨日のケタ焼きの状況からも期待できる。防火帯には昨年の秋焼きで炭がのこっているエリアを最大限利用する。

……以下、今晩加筆。

 写真は楢山から中山をのぞむ図。

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ケタ焼き☓焼畑の試みとして

令和元年5月10日。ケタ焼きではあるものの、焼畑、すなわちそこで作物を栽培することを、火入れを実行した。
資料とするべく、大急ぎでざっくりと概要だけでも記しておく。

準備に3日。草刈り2時間〜3時間が2回、草寄せ(防火帯)に2時間半ほどか。下見や計画なども含めれば、8時間ほどとみていい。
もっとも、もっとていねいに準備するなら2人で5時間(1日)の作業かもしれない。
刈払機が大半だが、手刈りも必要。今回、その手刈りを「まあいいか」と略した箇所が案の定、少しあぶなかった。

さて、当日の今日。予定はしていたが確定したのは昨日。
草刈りは7日前〜3日前にわけてやっているが、3日前の箇所も十分に乾燥していた。ここ数日の気温も高く、昨日も一昨日も少々風もあったことが大きい。また寒暖差があって朝露がおりる日もあった。いったん少し濡れてから風と日にあたるとさらに乾燥度があがるものだ。木材がそうなのだが、草もそうなのだろう。

前日に草寄せをしたときに、もう十分と判断してのことなのだが、草の下の土はやや湿ったところもあって、草の浅いところが延焼・燃焼するかがわからなかった。燃えなかったら、それもいやだ、困る。煙だけ多いとかえってあぶないし、時間もかかるし、やっかいだ。
なので、草寄せはひろげるよりも、厚めに斜面上部と上部平地に少しかかるくらいにおいた。
防火帯以外は基本、草刈り時のなりゆきまま。

さて、現地着が14時30分頃。軽トラに0.5㎥水タンクを積み給水。エンジンポンプやシューターを準備し、燃料補給やシューターへの水入れなどをしたあと、給水に30分はかかるとみて、現場(徒歩2分か)へ草寄せの続きに。当日やればいいとした作業を残していたのだ。
意外にあったなあと、急いでせっせと草を寄せていく。

給水は400弱までとして。荷物を確認して現場へ。
風向きをみて、予定通りに小屋のところから火を入れることにする。
風下、微風、理想的。

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エンジンポンプの始動ともっとも燃えるものがある小屋の周辺に防火放水。
シューター、レイキを配置して、15時50分頃にガストーチで着火。
勢いよく延焼がはじまり、少々あせるが、やるべき3つのことを順序よくあたっていく。

1)草の寄せ直し
2)予定ラインを超えて延焼が起こっている場所へシューターで火消し
3)1)2)が計算できる落ち着きをみせたところで、エンジンポンプ始動しての防火放水

これらが一段落し、写真を撮るくらいの余裕ができた頃合いがこれ。

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そして、終盤、そろそろ迎え火を打とうかという頃合いがこのあたり。

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そして、鎮火。17時頃。約1時間ほどか。面積などまたのちほど加筆。

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活躍した3つの道具。

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ただし、ガストーチは今回、火付けに3箇所程度と迎え火2箇所の点火用のみ。
レーキは活躍したし、シューターは必須だと実感。達人はじょうろとバケツでやっておられるが、その域は、まだまだ雲の上を見上げるような遠くにかすかにある。
また、保険として用意し、いらないかなあと頭を何度かかすめたエンジンポンプとタンクもあってよかった。いやほんとに。

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以下、ざっくりとした備忘。

●イネ科系の細い葉っぱは生でもけっこう燃えて延焼にもいたりかねない。下に燃える枯れ葉の堆積がある程度あれば。
夏の焼畑の際、緑色の生きた(はえた)草は、火が近寄ってきてもなかなか燃えず、防火帯にすらなるのかなあと捉えていたが、いやいや、間違いでした。とくに春はいかん。
同様に、茅など地際で刈ったものから緑の葉がのびているくらいのものでも、ちょっとした乾いた箇所が残っているだけで、そこから火をあげて、延焼を促す。

だからね。
まあ、まず燃え広がることはないとみていた(それでも注意と準備はしていた)隣接する草原とて、まったく燃えないとは限らんと思いました。

●3年ほどの堆積があれば、こうした焼け方はふつうにできるのでは
火を入れずに草刈りを年に1〜2回程度の地であれば、そして茅がまじってその堆積があれば、燃材としては結構な量があるのだと思う。そして、どんなに火が強かろうが、地面に草がまったくなければ(当たり前だが)そこは燃えずに火がとまる。水をかけるよりも、一筋の土の線があればよいということだ。

●煙を出さずに焼くことの重要性
完全に燃焼させることの利点もだが、管理のしやすさ。
うまく燃えたし、そういうやり方をしたため、ごくわずかしか煙がもうもうとする場面はなかったが、火が見えなくなるし、咳き込むし、まあ、いかんわ。

●燃やすことを促進させながら、消し止める
燃える勢いの強いほうが、消火はある意味しやすい。広がる方向がわかりやすいこともある。

●かといって強すぎないように、いいあんばいに、風と状況をみて、草の位置や量を変えていく
これの見極めを向上させていきたい。地形や火入れ地の形状、風向きなどの条件がよかったので、今回はうまくできたほうだと思うが、よくわからんところとわかったところと半々なり。

さて、明日から種をまいていく。考え、集中して、楽しもうではないか。もう、寝る。

2019年5月8日の山畑

カフェオリゼの庭では、ナニワイバラの白い花が塀に鈴なり(とでも言うのだろうか)。ようやく春らしい暖かく過ごしやすい日が続いている。遅れている種まきやら草刈りやらを毎日少しずつこなすのにいい日和だ。

今日に限らず、気がついたこと、やっておくべきことなどを徒然に記しておく。

牧場の山畑にて

昨年春焼地の北東斜面を草刈り。草というよりは笹と竹なのだが、昨年刈った枝の堆積もあって、これは持ち上げて燃やしてしまうことにした。葉に覆われてはいるものの、下層にはオオアレチノギクが低い芽をひろげており、あぁ、2年目はこうなるのだなあということをつくづくも感じた。これはフラットな平地も同様。ただし、だ。里芋を掘り出した箇所については、その掘り返した地面だけは草ひとつはえていない。また、麦の周辺にも少ない。

さて、斜面にはアマランサスを播種する予定なのだが、タカキビでもいいのかもしれない。斜面での作業のしやすさからいうと、モチアワなどは選択肢からはずれる。中背という点でモロコシか。

スペルト小麦も裸麦もいまひとつ成育がよくない。スペルト小麦については、水はけのよくない粘土質土壌がよくないのだろうと思う。あるいはこの場所は、冬春秋の日照がよくないのだから、その影響も大か。土の問題と日照の問題、あとは播種が少し遅かったことか。同じ時期に播種した家の畑の小麦・大麦はよく育っているが、標高差は200mばかりあるのだから、そこらも加味して今後をかんがえねば。

案件としては、そう、この昨年春焼地には大豆を主に播種する予定なのだが、考え直したほうがいいのかもしらん。思い切って斜面ぎわにキクイモを植えてみたりもしているが、うむ。

枝豆としてもいける白大豆を中心に早めの播種でいってみるか、どうか、というところか。

パープルサルシファイの発芽を確認した。あまりに雨が降らないので、先端が枯れているものもあったが、発芽率は9割以上だと思われる。

道が倒木で塞がれているところが3箇所。来週チェーンソーで片付けよう。

昨年の春焼地、焼いたところにはアレチノギクがびっしりなのだが、焼いてないところにはそんなことはなく他の雑草が優越している。なんで? ざっくり説明できるようにはしておくべし。

牧場のケタ地にて

刈った草はよく乾いていて、明日にでも燃やせそう。量も乾燥してみれば、これっぽっちかという印象。明日、整えて、金曜日には焼いてしまうことにする。広がるほどの燃料はないから、シューターのみでよいだろう。念のため、タンクも用意するにせよ。よって、明日はポンプの始動確認と草寄せ、時間があれば、茅草の抜き取り。

キクイモはこの日は植えず。寒暖差がある日当たりのよい場所といえば、このケタ地のほうだろうから、ここを中心に。来週草刈りに行く阿井には少しだけお試し的に。そのぶんは少し土に戻しておいたほうがよいのかもしらん。

その他

ウツギはまだ花を見ない。下旬かな。

鹿沼土を用意したので、挿し木の準備を。カメンガラ(ガマズミ)が中心だが、ジューンベリーやダメ元でいろいろやってみよう。

本の記録〜2019年3月22日

島根県立中央図書館にて
いくつかの市町村誌を複写。また、年取りカブ(正月カブ)についてリファレンスを願う。3日後であったか、電話で連絡があり、やはり見当たらないとのことだった。

◆借りたもの
†. 野本寛一,1989『軒端の民俗学』(白水社)
読むたびに示唆を受けるものだし、資料としても常に手元においておきたいし、読むのが心地よい書。ゆえに古書を求めて注文済み。「浜焼き」については、木次の焼き鯖のルーツを探るうえで、もっておきたいもの。わずか数行とはいえ。
†. 『聞書き 山形の食事』(農文協)
†. 『現代思想2017年12月号 特集 人新世ー地質年代が示す人類と地球の未来』(青土社)
「解体者」の概念をめぐって藤原辰史氏の連載をひろっておきたく。

◆複写したもの・閲覧したもの等

松江市立図書館にて
◆借りたもの
†. 張憲生,2002『岡熊臣 転換期を生きた郷村知識人ー一幕末国学者の兵制論と「淫祀」観』(三元社)
†. 白石昭臣,1998『農耕文化の民俗学的研究』(岩田書院)
†. 古川貞雄,2003『増補 村の遊び日ー自治の源流を探る』(農文協)

三沢の要害山山頂における大仙権現

大正8年刊行の仁多郡誌に要害山について記載があります。
ひと月ほど前のこと、三沢のMさん宅でお話を伺っていた折のこと。このあたりは牛馬信仰は縄久利さんで、ダイセンさんじゃないよという流れの中で、「確か要害山にダイセンさんがありますよね」と質問したところ、「? 聞いたことないけどね〜」という反応でした。

三沢ではほかにKさんに聞いただけですが、縄久利さんの祭りはあるが、ダイセンさんもあるということで、その場所も教えてもらい、確認したこともあります。が、要害山にあったという記録を見た記憶があり、確かめてみたところ、仁多郡誌にあったというわけです。あとで、原文を引用しておこうと思いますが、図面と記述があり、石像があると記されています。

ところが、です。Mさんもおっしゃっておられたように、私も記憶にありません。何度か山頂にはあがり、そこにあるものは写真におさめたりしているのですが、記憶にも写真の記録にも、ないのです。

山城祭のときにでも、現地を確認してみようとは思うのですが、もしないのだとしたら、誰が、なぜ、それを移したのか。そして移したものはいまどこにあるのか、ということ。

少なくとも大正年間にはそこにあったのですから。また、ここで行われていた祭祀、すなわちダイセンさん=山あがりがどのようなものであったのかということ。

そして、山頂にある「古井」の由来についても、単に放牧してあった牛が落ちたから埋めたのではない可能性がでてくるのではないか。山あがりの祭祀のときに、牛を連れてあがるということは、平成の今でも昔の思い出としてお年寄りから聞くことができます。その牛が落ちたのか、あるいはもともと井戸などなく、牛が落ちて死んだための塚としてあったものではないのか。
このような山頂に井戸がある意味として、山城跡であったためだと合点しがちであるが、山城の山頂部分には井戸があるものなのか、どうか。

ほか確かめたいことは多々あるが、まずはとりかかりの緒として、備忘に記すものです。

 

飢饉の記憶とカブの儀礼と

年取りカブを中心としたカブの民俗について整理してみる。

◆正月カブ(地カブ)が供物として捧げられるとき。

1. 歳神さんを迎えるに際して「吊るす」形態で→「吊るす」形での供物は、獣のそれが原型ではなかったか。神殺しとも言われるもの。

2. 稲こぎのあと、千歯こぎあるいはこぎ箸に捧げるものとして、一升枡にカブを逆さにおき、精白した米で満たして捧げる。→一升枡に入れる供物は歳神さんに供えるものとして下の写真にある形態があるほか、節分の豆を入れて供えるものとしてある。

後者について、奥出雲町横田の大呂か竹崎の郷土史に節分の豆まきを正月に行なうということが記されていたことを思い出す。
※写真については後ほど掲載。静岡県水窪のもので、

◆地カブ(正月カブ)を年中行事の中で食するとき

1. 年取り
・大晦日の夜、年取りの晩、節のとき、これすなわち、終わりと始まりが交錯するとき。
・蕪汁である。
・「カブがあがるから」などというが、もとは唱えごとがあったのではないか。カキなどと同様に。

2. 粥
七草粥として残存しているが、古くは晩秋の行事であったはず。秋の七草が古形である。

◆大根の年取り

平凡社「世界大百科事典」より

《東日本では,十日夜(とおかんや)を〈大根の年取り〉といい,この日に餅をつく音やわら鉄砲の音で大根は太るといい,大根の太る音を聞くと死ぬといって大根畑へ行くことや大根を食べるのを禁じている所もある。西日本では10月の亥子(いのこ)に同様の伝承があり,この日に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができる,疫病神がつくといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬともいう。…》

伊藤若冲・果蔬涅槃図に描かれたカブについて

粗々〜カブとクマゴの時間

標題の件、図書館での資料渉猟の折、メモすらしていないことをも含めて、まず書き残しつつ後ほどの整理に委ねる。
◆島根県出雲地方においては近世以降、水田を有しない耕作地帯はきわめて稀である(この件、要精査)。畑作なり漁撈なり、その比重の軽重こそあれ、水田稲作を基軸とした農耕文化がこの地域の特徴である、ように見える。が、しかし、である。大局的にはそう見えたとしても、個々の集落、ひとつひとつの儀礼、年中行事、それらを丁寧にみていくと、稲の儀礼にみえて、その基底に畑作があるのではないかとうかがわせたりするものがある(白石昭臣の論考との差異など補足)
◆地カブを供物とした儀礼がそうである。年取りカブ(正月カブ)と呼ばれる地カブは、文字通り、大晦日には欠かせぬものとされ、歳神さんを迎えるトシトコの飾りにはジンバソウなどと並んでこのカブをぶら下げる。また、この年取りカブは稲こぎにも米とならんで主役となる。
すなわち、稲こぎが終わったのちに、千歯こぎなど道具にお供えをするのだが、その供物とはカブと精米した米である。カブを一升枡に逆さに(尻が上に)おき、枡にはこぎおわった稲籾を精米した白米をなみなみと満たす。これを供えるものだ。
なぜカブなのか。なぜ米とカブなのか。
◆現在、森と畑と牛と、島根大学里山管理研究会が中心となって行っている「竹の焼畑」のフィールドは、旧奥出雲町の山方地区にあたるが、その山方と斐伊川をはさんでの隣地である林原、そして岩伏山をはさんだ向かいにあたる下布施地区は、かつての畑作優先地帯であり、焼畑をふくめた畑作文化がかつて濃厚にあった土地だった。尾原ダム建設(2011年:平成23年竣工)による集落移転によって、現在は無住地帯である。
◆白石昭臣は何度か調査に訪れ、その断片が論文・資料には残されている。白石の集大成的遺作ともいえる『農耕文化の民俗学的研究』(岩田書院)、集落移転を契機とした民俗調査報告書、島根県教育委員会, 1996『尾原の民俗 : 尾原ダム民俗文化財調査報告書』。  とりわけ「年取りカブ」に関するものとしては、前者のp.328にある一文は、後者より微妙に詳しい。ご本人にうかがえないことがくやまれる。

《〔事例11〕島根県仁多郡仁多町・大原郡木次町下布施一帯の山村では、大晦日に「トシトリのカミさん」と称して、ヒゲ(根)のついた地カブ(蕪)と二叉大根を、オモテの床の間の年棚に上方から吊す。これに大根ナマス、カブの味噌汁、ソバを供える。》

先の山方地域について2,3、気になることを記しておく。

ダム建設の残土置き場となったため、山中に点在していたものをここに合祀したときく。 伝承にも山の信仰の色がこい。※1
タイシコの雪隠し。馬にのってやってくる毘沙門天。尼寺の跡(姥石とも)。などなど。

ヌルデのこと
春といえば、美保神社(美保関)の青柴垣神事。 春は生命が芽吹くはじまりの季節。
◆青柴垣神事ではトコロイモ・里芋が重要な供物……4月1日には海でトコロイモ(野老)を洗うという神事あり。いまでは他の地方からもってこられるらしいですが、かつては山の畑でつくられていました。そう、焼畑で里芋をつくっていたエリアなのです。海の色彩とともに山の神信仰の色が濃い。
◆山村塾が焼畑をしている土地(旧仁多町山方)では、かつて関講があり、御札と稲魂のやどった種籾を美保神社に詣でて受け、各家々で札は水口に祭り、種籾は用意した種籾とまぜて苗をつくったものです。
◆そして、神事に用いられる負棒。かつては「もり木」であったと。もり木は消失した民俗儀礼に多出します。花嫁を背負う木でもあり婚姻時に用いたのち大事に保管し、その嫁が死する時にともに弔うあるいは骨を拾うときに使う箸にするなど。これはおそらくアイヌの神送りにまで連なるものですが、焼畑実践者であれば、おなじみ、ヌルデの木が材として使われます。椎葉でも、そして先に焼畑フォーラムが開催された井川でもありました。焼畑のあと、最初にはえてくる木、それがヌルデです。奥出雲の佐白でもそうであることは、焼畑地の草刈り参加者にはおなじみでしょう。
◆海とヌルデの関係は「塩」ということからも ヌルデといえば、椎葉のクニ子おばばとこんな話をしたのを思い出します。 クニ子「山にはなんでもあるから」 私「あ、でも、塩はないでしょう」 クニ子「ヌルデの実があるわね。塩の代わりになる」 ヌルデの実が白い粉をふいているのをなめると塩辛いです。粉はリンゴ酸カルシウム。塩(塩化ナトリウム)とは違うのだけれど、昔から山での塩分補給になっていました。
◆なぜ、ヌルデの木なのでしょう。生命の根源にある塩をふき、焼畑で最初に芽生える森の先導者。小正月では占いの木でもあり、魔除けの木でもある。 そう、焼畑の民にとってヌルデとは死と再生に深くかかわる木なのです。

クマゴのこと
◆クマゴの記載のみられる町史等をみるに、こらまで島根県内で確認できたのは次のもの。広島県北部をまだあたっていない。三好市の図書館にいけばある程度そろうだろうか。 赤来町史 勝部正郊氏が取材執筆されており、聞き取りの要約であっても信頼がおける。 そのままひく

《さて明治から大正にかけての食事の概況を記すと次のようになる。この記録は昭和四十四年の夏、来島地区、赤名地区、谷地区における六十才以上の老婦人が語った若き日の食生活をまとめたものである。  主食といえば、米三分にクマゴ七分のものだった。朝はたいていが茶粥に漬物。昼は飯に漬物。ハシマには飯に漬物。夜も飯に漬物それに煮しめ。そして自家製の味噌でつくった味噌汁があった。味噌汁の中身はそれぞれ時節のものが入れられ、タカナ、ネギ、タケノコ、ナスビ、大根など……(中略)……主食の過半を占めたクマゴはこの昭和の初めまで用い、特に谷地区ではクマゴこなしの共同作業までみられた。》

大和村誌 p.638(第三章民俗慣習ー第ニ節食物) (江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。 羽須美村誌(下) p494

《第五項 くまご(こあわ) 麻畑の後作として、「くまご」を栽培した、これは麦と共に米の補給物として重要なものであった。  麻刈りした畑に、ほとんどがバラ蒔きをしていたので、水田の除草や、養蚕の合い間を縫って、手入れをするのだ。手入れといっても主に、間引きと除草である。(中略)反収二石も獲れれば上作である。  この「くまご」も年々減少して昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。  昭和の初期までは、常食として米に混ぜて、ご飯に炊いていた極めて重要な食糧であった。御飯一升について二合ー四合(二割ー四割)を混ぜて食した。炊きたての温かいうちは、黄色で香りもよく、たべ易く味も悪くはなかったが一旦冷えると、香りもなくボロボロして食べ難いものであったように記憶している。》

ここで特筆すべきことはいくつかあるが、なんといってもくまごを「こあわ」としていること。
◆桜江町誌、旭町史にクマゴの記載はなし
どちらも食生活の項目に雑穀の記載はあって、その比重の大小は地域内の差はあれど、それなりに大きい。桜江町については粟食も濃厚でウルチ粟の飯を食していた記録もあるが、その粟をクマゴとは呼んでいない。旧石見町も山間部はそうであろうから(未確認)、クマゴの境界はちょうど瑞穂町のあたりとなろうか。
おそらくもっとも近年までくまごを食していたと思われる都賀行をあわせてみると、地カブをよく食していた地域と重なるのではなかろうか。
さらに西の地域を資料の渉猟と、森神、大元神、地神の残存、祖霊信仰とあわせて探っていきたい。
◆クマゴ、地カブについて大浦周辺で聞いてみるも、年寄りはみんなおらんようになった。とのこと。ただ、地カブと思しきカブはそこここに点在している。

 

※1…山中に点在していたのではなく、尾白峠周辺にあったものだろう。写真右に草に隠れて見えない石仏がある。双体の才ノ神で、『尾原の民俗』など参照。2022/02/06追記

灰小屋雑考

邑南町へ在来作物調査へ行く道すがら、灰小屋の「遺構」をみる。灰小屋といっても、岡山県から広島県にかけての高原地帯、山間部から島根県石見地方東部に多くみられるものは、田畑に近いところにもうけられ、そこで土を「焼く」小屋としてある。地域によって呼称の異動はあれど、このあたりだとハンヤと呼ぶことが多いようだ。
関心がありながらも放置してあるテーマであって、テーマは5つばかり。
1. 小屋の建築として…農夫がつくる建物という点、住ではなく機能性に特化したものとして。しかしながら中では火を扱うという点から納屋とは異なり、住に近いなにかを有するのではないか。すなわち住居の原型としてとらえてみたときに、何か大きな発見がある気がしている。
2. 再生を試みる実践…少なくとも3つの観点がある。ひとつめは焼土をつくる技法とその効果について。農学的アプローチがベースにありながら、環境民俗学をもちいねばとけぬ問題がある。どのような林野利用と農事の循環、作物栽培、複数の要因のからみあいのなかで醸成されてきたものであろうから。そして、多くは茅葺きであったことから、茅葺きの技術を小さくとも身につけることとリンクしている。安藤邦廣先生にご助言いただく予定。
3. 灰利用の文化…草木から繊維を取り出し、糸をつくる、あるいは紙をつくる、そのとき灰は書かせぬものである。麹菌を培養する際にも特定の樹種の灰が使われた。ほか、山菜の灰汁抜きに、焼き物の釉薬に、衣類の洗浄に、あげればきりがないほど。化学でどうのこうのという面をこえた感覚にせまってみたい。
4. 灰小屋の風景と環境と…田畑の中に煙がそこここからたちのぼっている風景。夢のなかであってもそれを見てみたい。灰小屋ひとつひとつは、その配置のバランスもさることながら、芝木を山から持ち運ぶ便、土を運びこむ便、できた焼土を田畑に戻す便、うまく燃焼させるための季節による風向きと強さ、などなど、多くの要因を計算にいれて合理的に設置されるものだが、それらが谷に散居しているさまは、その理ゆえに美しいものであったろうと思う。
5. 焼畑との関係はありやなしや…あっただろうと連想のまま書かれた記事はみかけるが、どうなんだろう。容易な結びつきはちょっと得られそうにないのだが。
むしろ、建築面からみるに、たたら小屋からの連続性をみるほうが得るところが多いのでは。
日本ではじめて、弥生時代の竪穴式住居が復元されたとき、参考にしたのが出雲地方のたたら小屋の構造であったと聞く。火を扱いながら、茅等の草葺であること、地面を掘り下げた構造であること……。ハンヤは掘っ建て柱は使わないが、その基本設計は系統を同じくするものではないか。

●関連過去記事
尊い家とは何か~今和次郎とB.タウトと
粗朶ってなあに?