雲南地域におけるダイシコ(大師講)の断片

「ホトホトと餅とダイシコの関係」のつづきとして記します。

 今日、島根県立図書館で、『仁多町民俗調査 昭和55年度報告書』なるものが書棚にあるのを見つけて驚きました。どこから出てきたのか、もとからそこにあったのか……。なんどもその棚には目を通していたはずなのに、この日に限って背丁が目に飛び込んできたのだから、なんというか、contingency(本来的偶有性)とはこういうことなのかと、ちょっとした衝撃と喜びでありました。
 その報告書は北九州大学民俗研究会が、昭和55年7月下旬の10日間、30人あまりで行った本調査と、先行調査、文献調査をもとに編纂されたものです。町史などの中に北九州大学の調査に基づくものであることの表記を散見したことはありましたが、こうしてまとまったものとして存するとは思いませんでした。岩伏山の由緒について、これまで耳目にすることのなかった異説※1が採取されているなど、大変貴重な資料であるといえましょう。
 さて、しかしながら、大師講(太子講)について、正面切った報告はありません。それがまた不思議でもあり、興味深いのです。まず、見出し項目としては、私が現在追究している大師講ではなく、亀嵩の算盤職人が「講」として聖徳太子をまつるという太子講をあげています。まぎらわしいのですが、大師講(ダイシコ)と太子講(タイシコ)、ふたつの違いは事典の類をひけばはっきりとしています。たとえば、小学館の国語大辞典では、太子講をタイシコウとして、聖徳太子と結んだ「講」として解説しています。
聖徳太子を祖として奉讚する大工の講中。また、太子の忌日二月二二日にその講中で行なう法要と宴会》
 一方の大師講はダイシコウと読ませ、天台宗の開祖、中国の智者大師の命日を11月24日(旧暦)としてその法会を第一義としていますが、伝教大師最澄弘法大師空海、それぞれにちなんだ法会を第二、第三の義としています。そして、問題は第四義。
《旧暦一一月二三日から二四日にかけての年中行事。家々で粥や団子汁などを作って食べる。智者大師・弘法大師聖徳太子などにまつわる伝説を各地に伝えているが、お大師様は、すりこ木のような一本足の神様だとする地方が多く、また多くの子どもをもつ貧しい神で、盗みに来るその足跡をかくすために当夜必ず雪を降らせると伝えるところも多い。この二三日の雪を「すりこぎかくし」「あとかくしゆき」などという。講とはいうものの、講は作らず各家々でまつる。この夜お大師様が身なりをかえて、こっそり訪れるので、家に迎え入れ歓待するのだともいわれている》
 私が追いかけているのはこちらの「ダイシコ」であり、雲南地域で広く行われていた(らしき)ものです。その断片は、『仁多町民俗調査 昭和55年報告書』の中にもあります。これまで雲南地域の地誌では見ることのなかったものですが、おそらく見落としているのでしょう。地誌のリストに印をつけての閲覧を要します。
 さて、問題のダイシコの断片は、前布施で取材されたもの。前布施は、竹の焼畑実践地の水源の峰たる岩内山から南へ下り、八代川をはさんだ谷向こうの集落にあたる地です。
 手早く筆写したので、字句は異なるかもしれませんが、以下の記述がありました。
《前布施に弘法大師がこられた時、あるあばあさんがエンドウ豆をむいていた。大師がエンドウをくれるように頼んだが、おばあさんは与えなかったので、エンドウに虫がつくようになった》
 また、この同型パターンでトウモロコシがあり。「先の曲がったトウモロコシができるようになった」というもの。調査班は下阿井にも入っていて、他の事項ではよく出てくるのですが、下阿井で私が聞いたタイシコウのことは、出てこなかったのでしょう。おそらくやっていた家とそうでない家があったからではないかと思う。
 ここで3つの引用をもって、のちほど加筆する際の材としておきます。
 1972年刊の『木次町誌』、温泉村の項から(p.268) 《十一月二十四日 大師講・太子講 大師講は前夜大師講だんごをつくる。大判形で、平年は一二個、閏年は十三個を仏壇に供え、それをあずきで煮ていただく》
→課題:餅をつくという事象、神が家を来訪するという事象を他で見つけること。
 野本寛一,2005『栃と餅』にはこうあります。(少々長くなるが)

《一一月二三日は新嘗祭、じつは、民間ではこの日を大師講と呼んでいるのだが、その大師講は収穫祭なのである。この夜は、ダイシサマ、デシコガミサマ、オデシコサマなどと呼ばれる神がイエイエを訪うとされる。元三大師、智者大師といった大師だとする地もあるが弘法大師を想定する地が多い。しかし、青森県秋田県などには、デシコガミサマは女で子だくさんの神様だとする、山の神に近い神を伝承する地も少なくない。この日こうした神が来訪するという伝承を持つ地は、東北・関東北部・北陸・中部・中国山地、鹿児島県大隅地方と広域に及ぶ。そして、この日、大師粥と称して小豆粥を煮る地が多い。小豆粥のほかに小豆のボタモチ・しるこを作る地もある。さらに、大根にこだわる地もある。(中略)冬期に入る直前に、その年の収穫の様子をたしかめにくる、大師に収斂されたマレビトに、その年収穫した米と小豆で作った小豆粥やボタモチ、一部には冬期に重要な大根を加え、それらを供え、家族も食べて収穫を祝ったのである。》

 そして、また、以下にある「スリコギの先につけた餅米」を板戸に塗りつけるという所作と意味は、「大」という文字によって示されているメッセージとして表象されているようですが、雲南のカラサデ餅との対比で考えるとどうなるのか。この探求課題にとってヒントのひとつです。

静岡県遠州地方から駿河西部にかけてはこの日、小豆のボタモチを作って家族で食べる。そしてボタモチを作ったスリコギの先にボタモチのモチ米を塗りつけ、それで玄関の大戸(板戸)の目通りの位置に「大」という文字を書いた。戦前、板戸のある家はどこの家の板戸にも「大」の字の跡があった。私は育った家にもそれがあった。これは大師講の神に対するボタモチの手向けであり、この家は、お蔭で、秋の収穫を終え、収穫祭を終えることができましたというメッセージを大師講の神様に伝える表示なのである》

 野本があげる大師講の神の特性のなかで、来訪神と正月(小正月)の関係をとらえる鍵となりそうなふたつの事項があります。
・不可視であること……「足が悪い」「足跡を隠す」
・小豆の赤色……「生命の色、血の色、太陽の色とみてさしつかえなかろう」(野本)

 後者については、冬至当夜における豆腐・大根の「白」、大黒をまつる一二月九日前後の大根=白と黒豆=黒との対照考察を要すると考えます。

 最後に『尾原の民俗』 p.272の民俗行事から。ダイシコさん、さんづけになっているところに着目です。隣接する23項のカラサデは、さんがついていない。

《11月24日 ダイシコ(大師講)さん
「お大師の跡隠しの雪」といって雪が降ることが多かった(山方1)。
前夜、米粉で小判状(長径15cm×短径約8cm)のダイシコ団子を作った。閏年には13個、普通は12個作った(大原・尾白・山方1・林原1・2・前布施1)。
作ったままの団子を枡の中に井げたに組んで入れ、床の間か神棚に一晩供える(尾白・林原1・前布施1)。
この団子が寒くて凍みているほどよい(大原)、来年は豊作になる(林原1・前布施1)といった。
団子は翌朝、小豆で煮て食べた。ダイシコ団子は岩船山にある大山さんにも牛の神様だから、といって供えた(尾白)。》

「お大師の跡隠しの雪」がどう語られていたかは、ここからはわかりません。これを機会に、民話採録からたどってみようと思います。 一般に、というより柳田のまとめにより、跡隠しの雪とは、こういうものとして語られています。

《旧暦では十一月末の頃は、もうかなり寒くなります。信州や越後ではそろそろ雪が降りますが、この二十三日の晩はたとえ少しでも必ず降るものだといって、それをでんぼ隠しの雪といいます。そうしてこれにもやはりお婆さんの話がついておりました。信州などの方言では、でんぼとは足の指なしのことであります。昔信心深くて貧乏な老女が、何かお大師様に差し上げたい一心から、人の畠にはいって芋や大根を盗んで来た。その婆さんがでんぼであって、足跡を残せば誰にでも見つかるので、あんまりかわいそうだといって、大師が雪を降らせて隠して下さった。その雪が今でも降るのだという者があります(南安曇郡誌その他)》

(「日本の伝説」より) 柳田はこの話がのちに「間違った」という言い方をしていますが、方便であって、跡隠しの雪は山の神の示現であると、そう見ていたのではないかと、言いたげです。同じ「日本の伝説」にこうああります。

《それからこの晩雪が降ると跡隠しの雪といって、大師が里から里へあるかれる御足の跡を、人に見せぬように隠すのだといい伝えておりました。(越後風俗問状答) そうするとだんだんに大師が、弘法大師でも智者大師でもなかったことがわかって来ます。今でも山の神様は片足神であるように、思っていた人は日本には多いのであります。それで大きな草履を片方だけ造って、山の神様に上げる風習などもありました。冬のま中に山から里へ、おりおりは下りて来られることもあるといって、雪は却ってその足跡を見せたものでありました。後に仏教がはいってからこれを信ずる者が少くなり、ただ子供たちのおそろしがる神になった末に、だんだんにおちぶれてお化けの中に算えられるようになりましたが、もとはギリシャやスカンジナビヤの、古い尊い神々も同じように、われわれの山の神も足一つで、また眼一つであったのであります。》

 なお、『志津見の民俗』には大師講さんとして12月21日に、「この日はオハギを作る」とだけ記載されています。

※1)素戔嗚尊が船にのって天下ったという類ではない。採取地は尾白で、素戔嗚尊に紐付けるパターンをbとして、aの項に以下の説をあてている。《昔津波があって、岩伏山の頂上に流れ着いた舟が岩になってしまったという。そこでこの山を舟山、または岩舟山というようになった》。

【雑感と備忘】2017年12月10日〜山を生かす竹林整備研修

2017年12月10日(日)曇りのち雨/10時の気温5℃ 一般1名、学生3名の参加でした。講師は響繁則さん。

◉伐倒講習について
●チェーンソーの目立て

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今回あくまで1時間強ほどの簡易なものです。通常の講習ならば午前いっぱいはかかるといいますから、3時間ほどは要するということ。参加人数が少ないこともあり、私自分少し受けてみて、修正の仕方をひとつ覚えられたかと思います。もう使えないだろうなあと見ていたチェーンも、「まだまだ使えるよ」と言われて直す気になりました。ただ、「1時間はかかるんじゃないか」ということ。こんど、じっくり向き合って直します。今週日曜に柵をつくるときにでも。
このような実習を人が出入りするところでやっていると、のぞきにくる人がいます。大変よいことです。チェーンソーを使ったことがある人、使いたい人がのぞきにくるわけです。
1〜2分ほどでも、「ここをこうするんですよ」「昔はこう斜めにと言われていたけど、いまは水平で」「〜〜になっているから」。  こうしたやりとりがあるのはなによりです。

●伐倒実習

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チェーンソーもノコギリも基本は同じです。
とくに、斜面では受け口、追い口をつくり、倒す方向を斜面に対して斜めにもっていくこと。そうすることで、危険を回避することと、もうひとつ。その後の作業、すなわち玉切りや移動にかける手数が少なくなります。
やってみてわかるのは、口をつくるときに、重力に対して水平にもっていくことは、ノコギリの場合、とくに難しいということ。この日は用意していませんでしたが、チョークなりで線をひくのがいいということです。こりゃ早速導入です。
口をつくる方向と同時に、つるの幅を左右で変えることでさらに向きをコントロールすることも教わりました。これも加減であって、差がつきすぎると裂けを生じてしまう。

●ロープを使った伐倒
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ロープワークはあくまで補助であり、保険であって、ロープの力だけで向きを変えるのではないということが肝要です。

◉雑話について
むしろ、ここのところが、時間をさいて足を運ぶ最大の価値があるところなのですよ、みなさん。
モチキビの話をしたらば、響さんが、いまでもつくっている人を知っていると。  な、な、なんと!
今度おしえてくださいとお願いしました。

野山と山あがり雑感

コモンズというものの向かうべき方向について、70年ほど前を振り返ることの大切さを思い知る。

「森林整備、地方へ数百億円 新税に先行、19年度から」https://t.co/9oBIHVt82なる新聞記事を見ながら鬱々とする気を払いのけるために、まとまらない断片を記す。

昨日の取材で聞いたいくつもの言葉が頭の中をめぐっているが、とりわけこのふたつ。

《「野山(のやま)」※1には、町からも芝木を拾いに来た人がいたが、だれもそれをとがめはしなかった。おおらかというか、そういうものというか……》

《山あがり(大山さん)には、牛をもっていない人、それは農家じゃない人もおられたから、そういう人もみんな家族であがった。祭りの場所の木は切らないものだった。大きな木があるものだった。まわりの草はきれいに刈ったが。草といっても木みたいなもの※2》

山とはなんであったのか。

かつて「野山」と呼ばれていた山林には不法投棄禁止の看板、さもなくば、山菜採取禁止の看板かを見ることができる。

いま、山はどうなっていくのか。

思いは千々に乱れる。

※1)野山:出雲地方、旧松江藩領では共有地を野山(ヤサン、ノヤマ)と称していた。出雲地方では早くから消失していったが、残るところには残っていて、このお話を聞いたところでは、戦後まで存在し、小学⑤年生の時に終戦を迎えたこの話者(役人でも学者でもないごくふつうの市井のひとり)から、あたりまえのように「ノヤマ」という言葉を耳にしたときには、驚いた。父の記憶がほとんどないままに戦争で失い、明治4年生まれの祖父に育てられた経歴によるのかもしれない。

※2)草という言葉のなかには、鎌・鉈でとれるような低木・灌木も含まれるのだということは、今後気をつけて検分していきたい。

●追記

田中淳夫氏のblogに「東京新聞に森林環境税のコメント」なる記事。

二重課税も無駄遣いもいい、無駄遣いと言い切れるものは実はそれほど多くはないのだし。

森林をどう管理・保全していくかの定見もなにもないままに、お金だけつっこめばどうなるか。自明であろうと誰しも思うだろうに。山も森も川も海も、関心のうすい分野になってしまった。いまにしておもえばもとからそうだったのかもしれない。

あぁ。

カラサデさんがくるよ〜カラサデさんの「実際の言い伝え」その2

「カラサデさんがくるぞ」という子供への脅しが効果的であるのは、カラサデさんが「さん」づけで呼ばれる「神的」存在であること、そして子供を連れ去る場所(異界)があることが想像の中であれ、具体的な地であれ、生きてあることが前提としてある。

平成29年の冬。昭和20年代に生まれた現在60代の世代にとって、カラサデさんがなんであったかという記憶はすでにない。しかしその母や父、すなわち大正から昭和にかけて生まれた世代は、「カラサデさんがくるぞ」という言葉を発していた。それが届く(効果を有した)か、届かないかは、境界線上にあり、カラサデさんという存在のアイデンティティは失われていも、異界の存在する空間はまだいきていた時代である。時期も旧暦10月末とは限らない。年中いつでも「カラサデさん」は来るべきものとして想像の中にあった。

一方で、浮遊するカラサデさんのアイデンティティは、婆さん・爺さんと結合することで時代の流れに多少なりとも抗ってみせた。神であるカラサデさんはカラサデ婆さんという妖怪へと身をやつしてしまっている。吉賀町のごんごんじー※2)と同様、幼児・児童に対する世界でのみ生きるものとして。そして、おもしろいのは、かような妖怪の話は、世代をひとつまたいで伝えられるものであったということだ。「カラサデさんがくるよ」と戒めの言葉を発するのは、親であるよりは祖父や祖母であることが多かった。

子どもにとって、カラサデさんは怖いものではあったが、それは旧暦10月の末にあるカラサデ餅をつく日に限定されていることであった。実は、家でカラサデ餅をついたことの記憶をもつ人に、今日はじめて話をきけたので、それを記すためにこれを書いているのである。

その方は昭和9年生まれである。カラサデ餅をついて、杵についた餅で戸をふさぐようにしたものだという。戸を叩くのだという民俗記録を読むことはあるが、意味としてはふさぐものであったのだろう。この日の夜だけは、便所に行くのがこわく、祖父についてきてもらったということをきいた。また、子どもがうたうようなものがあったというが、どうしても節回しも思い出せないということだった。

(カラサデ餅の話へつづく)

※1)大黒さん、恵比寿さん、お伊勢さん、などの用例に連なるものとしての「カラサデさん」。この用例のなかでの「さん」がそうであるように、対象そのものの明示をさける婉曲的な使い方でもある。

※2)吉賀町のごんごんじーは行政のゆるキャラとしてマスコット化している。出身者(40代)に聞いたところでも、それがなんなのかはわからないが、ごんごんじーがくるといわれると、なにかおそろしいものであるやに感じられたという。

ごんごんじーのルーツは、奈良の元興寺である。世界遺産ともなっている奈良の元興寺を訪れれば、そこかしこに小さな鬼の石像を見ることができる。かつてこの寺の鐘楼に鬼が住んでいたという伝説から、がんごうじを縮めた「がごじ」が室町時代後期以降全国に流布するなかで、さまざまなバリアントを生み、現在にまで至っている。

方言辞典などをみると、西日本に多いようだが、北陸や北関東にもある。東北では確認できないが、これは他に代わる存在があったからなのかどうか。

島根県では、隠岐で両目の大きな化物として「ががまじ」、簸川郡で「ががも」となる。

これが石見では「ごんごんじ」となり、山口県玖珂郡では「がんごー」、広島県高田郡では「ごんごじー」、同じ石見でも那賀郡では「こんごんじー」「こんとんじー」となる。

注目すべきは、益田市(美濃郡)の用例であり、こじきをあらわした「ごんごーじー」「こんこんじー」である。乞食がかつて聖性をおびたもの、来訪する神の一形態であったこととともに、妖怪・化物となった「ごんごんじー」がなぜここまで広く分布しているのかということのこたえをしてしているようだ。

また、出雲地方では頭髪がもじゃもじゃとしていて汚いことを「ががま」と呼ぶことから、吉賀のゆるキャラの像はつくられているのではと思われる。

竹の焼畑2017-sec.36

12月3日(日)晴れのち曇り 最低気温0℃ 最高気温10℃  竹の焼畑2017も、なんと、今日で36回目の活動日です。島大里山理研究会から3名、教員1名+OB1名(午後より)、そして地元の私1名(11時30分〜15時)、計6名での作業でした。
これくらいの気温がいちばん動きやすいので、夏にやるよりははるかにはかどります。今年は雨の日が多い11月でしたが、それでも雨天で中止にする日はありませんでした(小雨の中、やや強行という日はあったにせよ)。それもこれも12月までか。1月に入ると雪で動けなくなる日が出てきますのでね。
◉次年度火入れ地の伐開作業  伐採は進んでいますが、竹の置き方(倒し方・進め方)に難ありで、やはりこの後苦労しそうです。今日の作業ではその点徹底して、成り行きで斜面下に倒すのではなく、横に倒して並べていくという方法で進めています。

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この日ははじめてくる3回生が2名いました。来年に向けての希望です。
◉中山の状況その1  さて、私の方では中山の柵づくりと脱穀などを進めました。伐倒した竹を木にかけたりしたために、ひっぱりだすのに息切れ。。。3本ほどを倒して、整理するので1時間ほどかかってしまい、柵の杭をたてるところまでもいたらず。あがった息を整えながら、1月いっぱいにはひとつめの囲いをしあげておきたいなあと、斜面を眺めていました。
温海カブのほうですが、この時期はほんとに日があたらない場所です。とはいえ、2〜3時間ほどは光が入るのではないかと。昨年までの成長ぶりとは趣がことなります。12月に入ったくらいには大きなものができていたのにと。要因は多々ありますが、発芽の悪さが大きい。この場所のカブは火入れ直後にまいていません。蕎麦のために火入れして蕎麦をまいたあと、まったく発芽しなかったところにカブの種をまいているところです。
発芽が悪かったので、なんどか追いまきしています。
くわえて、発芽したものは、かなり虫に葉をくわれています。それも発育の遅さにつながっているでしょう。虫については、9月に火入れしてカブをまいたところでは、さほどみられなかったため、火入れによるなんらかの防虫効果があったのかもしれません。この写真の箇所も火入れをしてはいますが、播種の時期が火入れから数週間たっている。今年のものでいま写真にみえているところは、12月下旬に間引き的にぬいたあとは、すべて種取り用に残す予定です。1年目、2年目がたまたまうまくいったので、気を抜いていましたが、ゆるめてはいかんですね。

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◉中山の状況その2  草刈りが入りました。みつけた(復活した)茶の木がばっさり切られていたのは少し残念ですが、下部は残っていて、蕾を新しくつけていました。来年以降、残してふやし、茶摘みをしてみたいものです。冬イチゴもかなり刈り取られましたが、まだ残っており、とっては食べとっては食べして、昼食がわりにしました。
◉蕎麦の脱穀  残りをようやく終えました。結局収量はいくらだっけ? メモが紛失したようで不確かな記憶ですが、1.4kgほどになるのではないかな。1kgはこえているはずで、2kgはありません。さて、蒔いたのはいくらだったのか。量だけでみると蕎麦をつくる意欲をそがれます。
なぜ、焼畑には蕎麦なのか。曖昧なものとはいえ、明治以降の日本の焼畑における作物として、蕎麦はその筆頭にあったことはほぼ確実。出雲地方にあってもそうでありましょうし、出雲蕎麦のルーツにかかわることでもあるので、ここは意欲を駆り立てるものを見つけていきたいものです。

熊子(クマゴ)のこと〜その2

森と土と水と火の記憶を探す旅。

2016年3月17日のこと。以下はウェブの記録から発掘し整理し直して記すものです。

西へ南へ、そして県境にほど近いとある山村へ。

奥出雲町の三沢から、車を飛ばして1時間半ほどして着いたその家では、「だいたい家にいるよ」と紹介していただいたお年寄りの方が不在。しょうがないなと、周辺の家々を飛び込みで訪問してみるも、どこもお留守。犬も歩けば何かにあたるかと散策開始です。家の跡に残る扉の壊れた小さな小屋と雨水のたまった鍋と狂い咲きの芳香を放つ椿に頭をくらくらさせながら1時間ほどもうろついていました。そうして、やっと見つけたトラクターをいじるおじさんひとり。

訳を話すと、「あぁ、何某さんならあそこのゲートボール場だよ」。あぁなんという好機。十数人の爺さん婆さんが揃っておられる。

お茶とぜんざいをいただきながら、聞き取りをはじめると、知っている人と知らない人が半々くらい。そして、また、記憶を呼び戻すのは、なかなか大儀なところもあって、思い出そうにも思い出しづらそうなところもある。

「……だっと思う」「……じゃなかったかな」「ほら、このくらいの太さで、穂が垂れてる……」

そんな、言葉が行き交うなかで、私のとなりでずーっと黙って聞いていた婆ちゃんが、突然こうおっしゃいました。

「私、見たことある。○×谷で」
ただひとつの断言。
それはいつ頃のことですか?とたずねると、ぽつりと一言。
「……乙女の頃」

みなさん、爆笑で、わいわいと場が盛り上がります。しかし、隣にいた私には、わかりました。一生懸命に記憶をたどっていたそのお婆ちゃんの心は確かに乙女の時までをさかのぼっていた。戦後間もない頃、その谷で風にゆれる、失われた穀物「熊子」の姿が、瞼にあったのだと。確かに。
その谷はさらに川の上へさかのぼったところにあるといいます。
4月に入ったらまた出かけようと思います。※2

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※1. 写真は話を聞いた場所から5分ほども歩いたところにある石組み。

※2. この後一度出かけはしたものの、通り過ぎる程度であって、取材はすすめておらず。2018年か2019年の春、地カブが黄色い花をいっせいに咲かせるころには何軒か飛び込みで聞いてもみ、道行く人や草刈りをしている人などに聞いてみるが、わからなかった。古くから住んでおられる方は少ないようであり、「知らないなあ」というくらいには問いを受けてくださった方も遠くから墓の掃除にいらしていた方であった。

◉追記1

文字に記されたものを追いながらですが、「もうその人は認知で施設に入られているから」「あぁ、半年前になくなったよ」というような言葉を、この地でたくさん聞きました。跡形もなく消え去ってしまう前に、継いでいけるものがあればと、それだけです。

さて熊子が「アワ」らしきものかどうかですか。
お婆ちゃんもですし、みなさん記憶に異同があります。
が、聞くところからはモチアワのことを単にアワと呼び、ウルチアワのことを熊子と呼んでいたのではないかと推定できます。

・アワとクマゴはちがう→これはかなり強く言う人が1名と同意する人が過半。「アワはモチで食べるでしょ。クマゴは違う」「アワは白い。クマゴは黄色い。クマゴはアワより粒が大きかったような気がする」

・クマゴの味をはっきり覚えて語る方はなしでした。どうだったかなあ。と。粟餅はクマゴを食べなくなってからもかなり長く食されていたようで、甘くておいしかったと。

・形状は「粟」のそれですが、人によって曖昧です。確かなのは、、キビとは違うという認識。

・電話で聞いたこの村(旧村)の66歳男性は5歳頃の記憶で「クマゴめし(クマゴとただ米(うるち米)をまぜたご飯)」を食べた記憶があると。昭和30年代頃までつくっていたのだと思うと。

また、これらの証言を得た地域では、山裾の草地・藪を焼いてカブをつくったという聞き書きがあります。『聞き書き島根の食事』農文協

◉追記2(2020/09/06)
初稿の際は地名を載せなかった。その後4年が経過するが、取材も重ねられず残せるものは残すべきと考え、出しておく。現美郷町の都賀行である。

◉石組追記

大和村誌編纂委員会,昭和56『大和村誌(下巻)』には、「村のそここに残っている石垣にも古人の汗と血のにじむ苦難のあとを偲ぶことが出来る」という一文ではじまる石垣の項がある。積み方を3つに大別し、野面(のづら)積、打込ハギ積、切込ハギ積をあげている。写真の石垣は小なれど打込ハギ積である。

つづく。。

熊子(クマゴ)のこと〜その3

前進していないわけではない。
ここ1〜2ヶ月の間に拾った資料としては2つ。
ひとつは、「出雲民俗」の第24号(昭和27年7月)に掲載された「熊子のからはたぎ」記事。

昭和27年当時は、熊子を粳の粟だと断ずるには至っていないことがわかる。
なにより、この時代において、すでに「熊子」がなんであるか、出雲地方ではまったくわからなくなっていることが驚きである。
少なくとも幕末・明治初頭には、誰もが知っていたことであろうに。
もうひとつは、神米に比するものとしてのクマゴ。
奠をクマと訓じ、供米と同じく、神への供物としての米を「クマ」としたことに由来する用語が山陰地方にある。
邑智郡には神に供える米を「くましろ」と呼ぶ方言があった。この場合のしろは土地を意味し、くましろを供米をつくる田とする用例は古い。和名類聚抄には「神稲 久末之呂」とある。
ここでピンとくるのが、出雲国産物帳名疏における熊子のひとつ、「坊主熊子」が寺に供するアワであった可能性である。坊主正月は昭和30年代にはまだ生きていた。言葉のみならず習俗としても。
熊子=粳アワであるとはいえないのではないか。
どこかで散見した資料には、熊子とはアワだけではなく広く雑穀でアワの代わりに用いたものも呼んだという一文が確かにあったのだが、思い出せない。県立図書館であると思う。それほど重要だとは捉えなかったのは、典拠不明なものであったのかもしらん。
これまでブログで書いた記事をまとめつつ、少しずつ整理していこう。

●備前國備中國にも熊子はあった

●クマゴ、地カブ、キビ

●みざわの館前の「地カブ」

●熊子(クマゴ)のこと~その1

●熊子(クマゴ)のこと〜その2

◆追記

†. 白石昭臣は、邑智の地名を次のように解く。
「地名の邑(おお)は、青(アオ・オオと発音、記述)と同じで稲魂信仰にかかわる名称。青、邑の付く地名は一般に初期稲作文化渡来の地であるが、この邑智もこれに該当する。それ故に神稲(くましね)と稲の付く郷も存在したのであろう。智はその聖なる範囲を示す語で、地にも通じよう」(白石昭臣『島根の地名辞典―あなたのまちの地名考」2001,ワンライン)
2023年9月21日

 

【案内】山を生かす竹林整備研修〜はじめて編

 12月10日(日)開催です。

 案内文は下段におくとして。なぜやるのかということのメモを自身にあてて置いておくものです。

1. 竹の焼畑事業における伐採技術の向上

 大事なことは3つあると思っています。

・道具を大事にする心……手入れを通じて道具を知ること〜モノの特性を知ること〜竹の特性・木それぞれの特性を知ること

・技術を向上させる意思……早く・楽に・なにかのために〜できることがひろがる〜数字(も)大事〜面積・本数

・頭に働いてもらう条件づけ……頭を使わない社会の中、山を生かすのは人を生かすこと〜「頭使って!」といっても使ってもらえない〜自分と家族(仲間)に対してどう言葉を発するか

2. 竹の焼畑事業における賛同者・協力者・自分の山でやってみたい人を募る

【案内〜山を生かす竹林整備研修_2017年12月10日】

これからはじめたい! どうしたらいいの? そんな初心者向けの実践的研修会です。響繁則さん(国土緑化推進機構選定 森の名手・名人)を講師に、荒廃竹林整備の基本的な考え方と注意点。伐倒講習・搬出等作業の実際を行います。また、チェーンソー使用者には別途講習を行います(※注1)。天候や参加人数の状況に応じて消し炭づくりなどもあり。

はじめての理論編は希望者あれば1月に開催予定。

◉お申込・お問い合わせ先

 面代真樹

 森と畑と牛とホームページのフォームをご利用ください。

【要項】

◉日時

12月12日(日)

9:00〜14:30

※午前のみ参加も可

※遠方からこられる方、チェーンソーを使わない方は、10時からの参加でも可(9時〜10時はチェーンソー講習か、のこぎり・鉈の使い方講習等を実施)

◉実施場所:奥出雲町布勢地区内竹林

 ダムの見える牧場の牛舎前に9:00集合

◉定員:15名までを予定

◉参加費:700円(保険・資料代として)

 ※島根大学学生は無料(ただし条件があります。お問合せください)

◉持ち物

・のこぎりとなた(お貸しすることもできます)

・作業用手袋(革手袋推奨。厚手の軍手等でも可)

・山に入れる服装と靴で(斜面ですべらないスパイクかミゾのある作業靴等)

・防寒のための服装

・昼食弁当、飲み物

※注1. チェーンソー使用者はチャップス(お持ちでない場合はお問い合わせください)

◉荒天(大雪等)の場合中止とします。

◉以下3団体の共催です

島根大学里山理研究会

奥出雲山村塾

森と畑と牛と

竹の焼畑2017―sec.35

11月25日(土)曇り 気温10℃(11時頃)
島根大学里山理研究会。停滞していた竹林伐開活動が10月に入ってから活発化しています。この日は5名が参加。複数回参加するメンバーが少なく、熟練がすすまないのが、変わらぬ悩みです。
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人海パワーで突破ということですね。
伐倒する人は、これを斜面に並べて積む人とは別な人になります。無駄とはいえないまでも、これでは切ったものを下に移動した後に玉切りし、また上にあげるしかありません。
1〜3本切るごとに積むようにしたほうが、数倍効率的であるはず。あるいはこうして切り倒すのであれば、斜面では焼かずに下ろした竹材は下で焼いて炭にしてしまうというのも一計か。
ここは口出し無用と心得、中山での柵作りを少しでも前に進めておきましょうぞ。  とはいえ、この日は麦踏みだけして引き上げました。
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山を下りる途中、なんと、茶の木を発見。
栽培していたものから、種がこぼれて、ここで生き続けいたのか。種をとってひろげてみるのも一興と思いついた次第。
次回の活動日は、12月3日(日)です。

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政治思想としての「出雲」〜雑考#001

 まとまりがつかないまま、数年が過ぎ、忘却の波に洗われることで、跡形もなく消え失せるよりは、意味のない小石くらいのものを置いておくようなつもりで、書き記してみようと思う。

●PI-z001

テーゼ:「出雲」は神話の国ではない。

1. 記紀出雲神話は出雲という地理的実在とは無関係なものとして読まねばならない。出雲という土地を牽強付会することで、記紀を「読む」ことが大きく損なわれてしまうことを恐れるべき。

2. 出雲大社の壮大な神殿はどうなんだといわれよう。そう、そこに錯綜しもつれたものをとく鍵があるのだ。cf.西郷信綱古事記注釈』第3巻(ちくま文庫: p285〜294)

2-1. 順序の転倒がある。現実があり神話として残されたわけではないことに注目すべきであるのに、なぜそう考えないのか。記紀が書かれ、記紀に書かれているのだから、そこになくてはならない。この論理はあやうい。

2-2. 出雲大社本殿は現在のもの以上に高く壮大なものであったことがほぼ明らかとなっているが、まさにこれこそが、出雲神話における天日隅宮の捏造性を物語っている。

2-3. ※出雲の式内社の多さについて後述

3. 出雲がきわめて政治的土地と意味を付与され続けた場であること。ここを再び掘り出すことで、日本の政治思想を、宗教思想・宗教哲学の視座から見直すこと。これが、この雑考の意図する方向だる。

(つづく)