かち栗飯が美味しかった

 1月8日は、カフェ・オリゼのお手伝い。木次チェリヴァホールで開催の演劇カーニバル&マルシェカーニバルへの出店をサポートしました。

 そのマルシェでお隣だった金山要害山保存会が出しておられたのが、戦さ勝ち栗飯。

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 これが美味しかったのであります。

 まずはこの竹皮がただものではない感があります。まさか自分たちのところで採って乾燥させてのばして、、、という皮じゃないでしょうね。それを確かめたかったのですが、気がついたら撤収されていました。さすが戦上手。

 竹皮についていえば、これ、マダケだとは思うのですが、皮が大きい。これほどのマダケの皮がまだとれるのでしょうか。手入れされた竹林でないと、これはないだろうというほどの上物です。あるいはこれだけ東アジアのどこかからの輸入物なのか。結んだ竹皮のひももいかしています。イラストもデザインも自分たちでつくったものだというアイデンティティを伝えてくれます。外面と中身が乖離したデザインが跋扈する中にあっては、信頼感・安心感があります。

 そして、なにより中身なのであります。これがよかった。

 なんといってもうまい。

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 人工甘味、旨味の類いがありません。塩が必要最低限。栗のほのかなうまみとおこわのおいしさで十分。色づけに使われている黒米のコクのようなものさえ感じられます(気のせいかもしれないが)。よかったよかった。また食べたい。そう思える久々の”新”郷土食でした。

 そう、郷土食ではないのです。新郷土食。要害山保存会らしい戦にちなんだ何かを編み出すべく、自分たちで考えてつくったのだという気概が感じられます。だから「新」。しかるに、この新こそが真の意味でも郷土性をつくりあげていく可能性をもっているのです、今の世にあっては。

 惜しむらくは、この栗、かちぐりではありません。

 勝ち栗とは元来、搗ち栗(かちぐり)をもじったものですが、私がおいしいさに感激しながら、食べたのはふつうの栗でした。冷凍保存されたものを使っておられるのだと思います。

 が、そういう私、かちぐりを食べたことはない!のです。すみません。

 かちぐりとは。。。。

 ひとことでいえば、干した栗です。干して搗いて、殻・甘皮をむいた栗のことを搗ち栗と呼ぶことは和漢三才図会にもあります。そしてこの干して熱を加えて皮をむいて保存するという方法は、古来・縄文時代から数千年にわたって、日本に住む人々が栗を食べてきた歴史とともにあったものです。

 保存・携行性にすぐれ、乾し飯とともに、かじってよし、水にひたして食べてもよし、炊飯してもよしという優れものでしたので、武士団にもよく採用され、また「勝ち」と「搗ち」の同音から武運を呼ぶものとして重宝されたものなのでしょう。

 木次駅前の狼煙(のろし)あげは観るチャンスを逸しましたが、なにかの折にまた、このかち栗飯を食べてみたいですし、搗ち栗を使った勝ち栗飯をつくれるように精進していきましょうぞ。

 

 

 

平成30年1月4日8時38分の風景

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仕事はじめの日だった。
人の世には始まりがあり、草木虫魚にはそれがない。しかし彼らには永遠があるのかもしれない。
どちらがよいとも思わぬ。人は人として人の世を生きるのみ。
人が人としてやらねばならぬことの筆頭には仕事というものがある。
1月7日の今日から、車輪がまわるようにその「仕事」がはじまっている。
朝食の後、そういえば、今年の目標をかわしてなかったね、と妻に問うた。
1分ほどでお互いの一文字を決めた。
私の今年の目標。

昨日、益田市のグラントアで開催中のエドワード・ゴーリー展を観て、記憶に残った展示がこれだった(リンク先はamazonで購入できるその書籍)。

THE POINTLESS BOOK: Or, Nature and Art.

「無意味な本 あるいは自然と芸術」
意味によって覆い尽くされようとしている世界。その源たる書物というものに無の点を打つこと。無がひらくものに期待しよう。

摘み草の記憶〜#001

 野山のものを採取し食す。この行為を促すマインドセット※1は、食文化・食習慣の変容にさらされてなお、その原基のようなものを保持するのではないか。そう推するに足るいくつかの出来事があったので、まとまりなくも綴ってみる。
 かめんがら(cf.2016年のガマズミ)について、子どもの頃にはよく山で取って食べていたと、いま60代の方々から聞くことがあった。ここでいう「子どもの頃」という時代を、現在65歳の人が10歳だった頃とすると、昭和38年(1963年)のことだ。
 昭和38年といえば、東京オリンピックの前年である。農村には牛に代わり、トラクターをはじめとした機械が入り、トラック輸送が食品流通をかえ、日清のチキンラーメンをはじめとした食のインスタント化が進行していた。「鉄腕アトム」の放映がはじまった年でもある。ちなみに当時にあっては原子力は未来の夢のエネルギーと見られており、資本主義を打倒し民衆を解放するものとして共産主義が推するものでもあった。  この時代、家庭で味噌をつくることが「恥ずかしい」「遅れた」ことだと見られる地域もあった。味噌や醤油は「買う」ことが進歩的だと。
 小さな経済循環を解体し大きな経済循環のなかで、社会を再形成することが「是」とされた時代である。「こんにちは赤ちゃん」がヒットしていた。ベビーブームの谷間の世代でもある。

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By Mc681投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

この項、つづく(のちに加筆)。
●2017年12月の年の瀬に、とある40代女性の会話の渦にちょっと驚いたことについて。 「今の子達でも、〇〇の実をとって食べたりするから、びっくりしたのよ。いつ覚えたんだろうと」 「へえ。そうなんだ。私たちが子どものころは、△△はよくとって食べたよね〜」 「あぁ、□□は吸うと美味しかったわ〜」
 そうした行動や嗜好が発動するのは10歳前後であって、長じるに従って失せていく。ただ、いずれは消えてなくなるかもしれない。なにより、消そう消そうとする力は強く作用しているのだから。
 ここで注目したいのは3つのことである。
1.民俗文化の断片が子どもたちの「遊び」の中に残存するということ……柳田國男が「小さき者の声」で言及していたように、それらは大きな変形を起こしながらも残る。柳田はそれを「大人の行為を真似する」ということに因を求めているが、《模倣》ではない何かがそうさせるのだと考えると、ひとつの理がそこに見いだせる。
2.採集草木の利用が社会の中で失せても、子どもの「おやつ」「遊び」の中に残存するということ……よくわからない。あえて予断をはっきりさせることで、自らの認知に注意を促そう。たとえばガマズミの実を子どもが取って食べるのは、おやつとしてであって、大型の果樹の品種導入などによって食用としての利用が駆逐されていった後でも残るのだと。
3.子どもは大人よりはるかに非合理の世界に生きているということ… 子どもは「感覚の世界(養老孟司)」で生きている。子どもの存在そのものの価値を近代社会は否定しつづける。老人の存在も同様。
 こうしたことを念頭におきながら、いま40代の母にあたる人たちに残る「摘み草」の記憶をたどってみようと思う。時代でいえば、今から30年〜40年ほど前、1970年〜80年代である。
島根県雲南市在住・Aさんの言
 島根県川本町で生まれ育ち、小学生の頃に同県頓原へ移住。母は昭和20年生まれ。道の草をとって、こうやって食べるのだと教えられたり、むかごの取り方などを教わった。が、本人は山菜とりなどにあまり興味はない。
〇母のこと
・母は9人兄弟の下から2番目。上の人たちが働きに出るため、10歳頃からご飯をつくる炊事の係をしていた。まわりの人たちから、食べるものについていろんなことを教わった。
・山菜採りが好きだった。春が来るとうれしかったようだ。春になると、車にのせて連れて行ってといわれ、よく出かけた。車を運転していると、ずーっと外を見ていて、「あ、とめて」と言っては、草をとってきていた。
〇教えてもらった草のこと
・道ばたにあったイネ科っぽい、シューっとした葉がある。茎を折るようにしてしゅーっと引き抜くと白い綿みたいなものが出てきて、食べられるということを教えられた。
・味は覚えていない。おいしいとは思わなかったが、まずいとも思わなかった。
〇注:上記の草はおそらくチガヤであろう

※1私たちの脳と心はいまだに、定住農耕よりも、狩猟採集生活への適応をいまだ強く保持している。俗説のようにきこえるが、進化心理学の定見でもある(らしい)。

畑もちを搗く〜その2

 12月28日。働きに出ている豆腐屋さんで年取りの畑もちを搗いた。

 畑もちを搗く〜その1であれこれと思案したが、成り行きの末、以下のレシピとなった。

◆材料

・もち米1升……精白したものを購入

・もちアワ0.5合……焼畑2016年産。精白後、水に浸すこと2日。

・タカキビ1合強……焼畑2017年算。皮むきをミキサーで行い、3割程度が挽き割りとなったものを風選。さらに水選したものを5日ほど水に浸したもの。水換え3〜4回。とくに最初の数日は半日で換えるくらいがよいのだと思った。

※アマランサスとヒエは今回、入れなかった。それでよいと思う。もち米とタカキビだけでよいのではとも思う。もちアワをふやすのであれば、タカキビを減らしてもいい。挽き割りの度合いはもう少し増えてもいいのでは。

合計1升2合程度

◆手順

1. 蒸す水(熱湯)を用意する。今回は餅つき機を使った。杵で搗く場合、こねの工程に時間をかけないと、雑穀が飛び散る。

 蒸す機械にもよるのだろうが、もち米100%の水の量と同じにした。

2. 蒸し器(今回は餅つき機)の下からもち米8割、その上にタカキビその上からモチアワをのせ、もち米2割ぶんをのせる。

3. 蒸す。(機械まかせ)

4. 搗く・こねる。(機械まかせ)

5. 搗きあがったらすぐに丸餅にして保存。

 搗きたての餅を味見がてらほおぼったが、想像を超える美味しさ! 来年はもっとたくさん搗きたい。ほんのりピンクがかった色であり、白いもちをあわせて紅白にもみえるので、よいのではなかろうか。

 このレシピ(雑穀の配分)は、結果としては匹見(島根県益田市)のたかきびもちに近い。

 『聞き書島根の食事』に、たかきびもちとしてこうあるものだ。

《精白したタカキビを二、三割、もち米と一緒に蒸してもちを搗く。たかきびのつぶつぶと香ばしさは、また変わったもちの味である》

 匹見といえば、とち餅が有名であり、栃の実の味わいに対する嗜好が、ここにひいたタカキビモチにも表れているのではなかろうか。つぶのまま搗くということ、そして材料としてはもち米があくまで主ということ。他の山間地域で大正後半から昭和はじめにつくられていたタカキビモチが、粉にひいたり、あるいはいったん搗き潰したものを加えたりするのとは違う。

 過疎地の典型のようにいわれるが、このタカキビモチからうかがえるのは、もち米をふんだんに使えるような産業の進展が大正期の匹見にあったのだと推し量れる。

 モチのねばりは、いまでこそ、もち米を使って簡易に得られるわけだが、かつて、タカキビだけからもねばりを得ようとしたその苦労を思うと気が遠くなる。

 さて、食し方としてはシンプルな雑煮があいそうな気もするし、焼き餅も捨てがたいと思われるが、それについては、次回。

 

ホトホトと餅とダイシコの関係〜その2

 年の瀬に畑もちを搗くことと、正月のもちを考えることは、並行している。

 なぜ人は正月に餅を食べるのかということだ。

 つい数日前に、ホトホトと餅とダイシコの関係といってみているものの、関係を説いてはいない。関係とはほどとおく連想のかけらみたいなものしかない。さて、どうしたものか。

 きょうは年賀状に添える短文をのせつつ、雑想として記したい。

【クマゴ雑想】

 失われた穀物、クマゴを追いかけて二年。どこかで散見した資料に、熊子(クマゴ)とは広く雑穀でアワの代わりに用いたものを呼んだとあったのだが、典拠を失念し思い出せない。供物としての粟、その代理たる穀物の総称ということだ。邑智では神に供える米を「くましろ」といい、和名類聚抄には「神稲 久末之呂」とある。

 年取りの餅を搗く前に、乞食の古態を思った。食を乞うものへ正月、餅を差し出す民俗には、クマゴに通じるものがある。食べることをわかちあうことの尊さを、せめて小さなところから確かなものとしていきたい。

 柳田國男『食物と心臓』を百回読めば、もう少しうまく記せると思う。

 そう自分にいいわけしつつ、いくつかの引用をお許しいただきたい。

「モノモラヒの話」〜

《只の憫みを乞う窮民以外に、正月の始めにどこからとも知れず、春田打ちなどの祝言を唱えて、米や餅を受けてあるく者も貰い人であった。(中略)此点は美作備中等の正月のコトコト、奥州仙台付近のチャセンゴ等、全国にわたって例の多い風習であって、(中略) 出雲能義郡でも旧十月の亥子の夜、むこ神さまという神を祭るのに、米を多家から貰ってあるき、それで小豆飯を炊いて供え、又自分たちも食べる(広瀬町誌)》

「身の上餅のことなど」〜

《餅の私有が他の多くの食物とちがって、現実消費の時よりも可なり久しい前から、開始せられ得たということが、是をめでたいものとした原因の一つではなかったろうか。少なくとも今日もなほ活きて行われているモツという二つの動詞が、この餅という日本語と関連のあることだけは想像してもよくはないか。単なる祝いの日の共同の食物としてでなく、是が神様先祖様は申すに及ばず、二親  を初め、特に敬意を捧ぐべき人々の前にそえられ、正月になると囲炉裏の鈎、臼鉈苧桶鍬鎌その他の農具から、牛馬犬猫鼠にまでそれぞれの餅を供え、大小精粗の差こそあれ、門に来て立つ物もらいにまで、与うべき餅が用意せられてあったといふことは、大げさな語でいえば、人格の承認、即ち彼らもまた活き且つ養われなければならぬといふ法則の徹底だと云いうる》

畑もちを搗く〜その1

 働きに出ているお豆腐やさんで、28日にモチをつく。仕事で使っている餅つき機を使って、みんなでそれぞれの家のぶんをつくのだが、私はせっかくなので、畑餅(畑でとれる雑穀のもち)をついてみようと思う。

 畑もちという言葉を最初に目にしたのは、『聞き書山口の食事』の中であり。雑穀の餅のつき方

で引用した箇所にあたる。今度県立図書館に行く機会に索引でひいてみようと思うのだが、山口のこの山代地方だけである可能性は高い。

「畑もちは、あわ、きび、たかきびが主で、もち米に余裕のある家は一割くらいのもち米を入れ」とあるように、もち米を混ぜる場合もあるが、主役は雑穀。

 購入するにはもち米のほうが入手しやすいため、今年の年越しはもち米を8割、2割を雑穀でと、あらかたの筋をたてている。そして、来年は陸稲(おかぼ)を8割としたものを導入しようかと目論んでいるのでその予行でもある。すなわち来年春焼きをやるのであれば、陸稲に挑戦ということだ。

 さて、もち米と雑穀とをあわせたヒントとしたいのは、『聞き書山口の食事』にある北浦海岸(萩市)の食の中にある。

あわもち せいろに、水に十分浸したもち米七合を平らに入れ、その上に同様に一晩水に浸したもちあわ二升三合を平らに入れて、蒸して搗く。搗くときはあわがぱらぱら飛ぶので、先に手でもち米とよくこねてから搗きあげる。

 香ばしく、野菜と一緒に味噌雑炊にしたり、焼いたりして食べる。》

きびもち もち米七合、きび二升三合の割合で搗く。きびは皮をとって一週間ぐらい水にかしたものを使う。渋をとるために、水をときどきかえる。

 せいろに、水に浸しておいた米を入れ、上にきびをのせて蒸す。蒸しあがったら杵で搗くが、このとききびが飛びちらないように、杵を静かに押しながら米と混ぜるようにする》

 ここのあわはモチアワ。もちあわの場合、文字どおり糯性なので、もち米との比率はあまり気にせずともよいだろうと思われる。水に浸す時間はこの箇所ではもち米と同様一晩としているが、たしか他の箇所で2日という記述もあった。いずれにしても、キビのように1週間近くつけるのではない。

 ただ、重要なのは蒸すのは一緒にするということ。

 もち米の上にキビなりアワなりを「平らに入れて」蒸すのだ。

 

 第一仮定で以下の配合を考えてみた。

・もち米7合

・もちアワ2合

・タカキビ2合

・アマランサス1合

・ヒエ1合

合計1升4合

どうだろう。ヒエとアマランサスは今回パスしようか、どうか。とりわけヒエが一手間かかりそうなので。ともかくも準備をすすめよう。というより、タカキビはもう水に浸さねば!なのである。

冬至当夜の日に〜豆腐をつくる・食べる文化の奥にあるもの

「いまでもあそこでは草刈りの後の直会ではひとり豆腐一丁は必ず出すんだそうよ」

「あー、うちもつい最近まではそうだったみたいだよ。さすがに夏の暑い時期に、豆腐一丁はようたべんということでやめになったらしいけど」

 今日の茶飲話より。

 豆腐はハレの日の食であったことを知らない人もふえてきました。私自身、小さな頃から豆腐は日常の食事でありました。ここ島根県雲南地域に越してきてから、ハレの日の食として豆腐があったことを知ったのです、遅ればせながら。そして、とりわけこの地域では豆腐をよく食べるし、木綿豆腐の割合が大変に高い。かつてそれぞれの家でつくっていた豆腐の名残が、そういうことをしなくなってからも色濃く残っているからなのでしょう。

 そういえばこんな話も80歳を超えたおばあちゃんから聞いたのでした。

「味噌も醤油もつくらんし、こんにゃくもつくらん。豆腐くらいは今でもつくるけど」

 全国的にみれば……、どうだろう、味噌をつくる家庭よりははるかに少ないと思いますが。こんにゃくとはいい勝負なくらいでしょうか。一度、可能であれば、悉皆調査をしてみたいものです。漬物や梅干しなどとあわせて。

 

 そして、冒頭にあげた話がでたときに、漂っていた疑問にひとつにちょっとした仮説を出してみたので、今日、はなはだ不備不完全ながら備忘的にあげてみるのです。

《木次ではなぜ豆腐をハレの食とする文化が今に至るまで残存しているのか》

  豆腐づくり必要なものを3つあげてみます。

・大豆
・にがり
・石臼(碾き臼)

 大豆は日本の食にとってなくてはならないものですし、どこでも栽培できるものですが、牛を飼っていたこの地域では、かなりの量を生産していたのではないかと思います。そう。ここで第1仮説です。

牛の放牧地で栽培するものとして、最後まで残っていたのが大豆なのではないか仮説

 わかりますでしょうか?ひとつの長い引用をもって、つづきは、またあらためて加筆します。(なんと、今日は冬至だった! 出雲から伯耆にかけて冬至当夜(トージトヤ)と呼ぶ習俗があります)

 石田寛1960,「放牧と垣内」(人文地理12巻2号)より

仁多郡鳥上地区では垣内すなわち放牧場内に畑(牧畑)があり、夏まや期間中のみに大小豆をつくり、それ以外のときは放牧場となる。

(中略)

 「藩政時代には、この一帯の奥山山地を鉄山と呼び、人家に近い山野を腰林といって、2つを区分して利用していたのである。鉄山は鉄山師の支配する山であり、腰林は農民の私的支配下に置かれた柴草山であった。田付山による採草、薪炭諸資材の採取などが自由になされていたのだる。この口鉄山では鉄師の支配権と農民の支配権とが重畳していた。

(中略)

鉄山は林間放牧地であり、それゆえにそれ(畑)は口鉄山でのみ行われるのである。牧野の中にある畑は1年1作であるわけであるが、作物は大豆または小豆に限られる。作付期間は放牧牛のこない時期に限られている。地盤所有者は自己の畑に耕作しながら、その所有権行使は放牧権を侵害しない限りでのみ許されるにすぎない》

(つづく)

 詳細ははぶきますが、大豆をつくる山(の畑)だけはたくさんあったということです。

 なぜ大豆・小豆に限られるか。

 それは牛が夏の暑い間、まや(小屋)にひきあげられるとき(約2ヶ月)をのぞいて栽培できるという条件にみあうものです。それが大豆であったということです。

 いや、大豆は60日じゃ無理だろうと。そうなのですが、それなるがゆえに仮説なのですが、牛は大豆が実をつければ口をつけないのです、おそらく。

 下の写真は冬至をむかえた我が家の夕食メイン。揚げ出し豆腐でござる。

 

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雑穀の餅のつき方

 農文協から刊行されている『聞き書き山口の食事』を購入した。これで中国地方五県ぶんが手元にそろったことになる。全国47都道府県のシリーズ「日本の食生活全集」の中の5冊ぶんである。残り42冊、全巻そろえてみたい誘惑にかられる。と同時に、日本は広いなあと改めて思う。中国五県、すなわち、広島、岡山、山口、鳥取、そして私が住んでいる島根も含めて、ずいぶん広く大きなエリアだとふだんは感じているが、日本のなかでは小さな一地方に過ぎないのだ。索引等の別巻も含めて全50巻というその大きさをにわかには捉えがたい気にもなる。ただ物理空間的に占めるものはそれほどでもない。図書館でそろえているところも多いので、一冊一冊はいつでも読もう思えば読める。ただ、私が全巻そろえたいと欲するのは、他の文献を参照しながら、ときには料理をつくったりしてみながら、何度も繰り返し読むものだから、手元においておきたいという事情による。一方でそれは、このシリーズの不完全さ、というよりは、食文化を書にまとめるというときにつきまとってしまう欠落に由来するもののためである。

 なにはともあれ、まずは中国五県分について、そらんじれるほどには読み込んでいくつもり。

 さて、本題。

 「日本の食生活全集」において、餅は必ずどの地域にも出てくるのだが、山間部において、餅をつく量が尋常ではないのだ。「冬の間はきらさないようにする」だとか……。ここで言及されちる餅とは、我々、平成の時代に暮らすものが想定する餅とは異なるものが入っているのだろうが、明確に言及している地域は、これまで読んだものの中にはなかった。

 山口県山代地方(錦町府谷)の聞き書きでは、他(の中国地方)では記録されていない、その、餅の異同について、記されている。しかも、つきかたまで書かれているので、これを参考に、我が家の年取りの餅をついてみようと、身を乗り出したほどである。

 少々長いが、そのまま引用する。

《田が少ないので、もち米は二、三畝くらいしかつくれない。もち米は祝いのごとのためにのけておく(しまっておく)。ふだん食べもちはほとんど畑もち(雑穀もち)である。

 白もちは、正月の鏡もちと雑煮用の丸もち少々と春のお彼岸に少し、秋祭りに二、三升搗くだけである。

 畑もちは、あわ、きび、たかきびが主で、もち米に余裕のある家は一割くらいのもち米を入れ、正月前に白もちを搗くときに一緒に搗いて、水もちにして保存する。》

 そして、畑もちの雑穀であるあわ、きび、たかきびについて、「寒もちを搗く」のが調理のほとんどであり、とがんにまぜて炊くことは「麦の備えがないとき以外、ほとんどない」としている。まことに興味深い。そして、餅としてつく際にこうして仕込むだという。

《たかきびは、五日から一週間水にかして、大ぞうけに上げて水を切り、だいがらで搗いて粉にする。たかきび粉を水でこね、湯気の通りをよくするために大きなだんごにして蒸す。よくうみたら(蒸し上がったら)、もう一度だいがらで搗いてもちにする》

 ここで、もう少し掘り下げてみたいことがある。ホウコ餅のこと。

 中国地方の他の山間地域の餅では、ホウコ餅がとりあげられてる。ホウコは山ぼうこにしろ田ぼうこにしろ、もちのつなぎとしての役割が大であった(と思われる)。しかるに、ここ山代において雑穀の餅は果たしてつなぎなしでいけたのかどうか。ホウコ以外でつなぎとなる草木があり、それを使っていたのかもしれないし。

 この件については記事を改めて。

金継ぎ、はじめます(かな)

一昨日、全6回の金継ワークショップ受講を終えました。
金継ぎ師guu.仲秋の金継教室」として雲南市木次町のカフェ・オリゼで開かれていたもの。9月の残暑きびしい日から寒さで凍えるような年の瀬まで、終わってしまえばあっという間でした。漆がかたまるのをまって次の工程にはいるので、3〜4ヶ月はかかるのですね。段ボールを使った簡易な室で「お世話」することも、手間だなあ面倒だなあという気持ちとは裏腹に、手をかけることに漆がこたえてくれているようで、楽しい時間でした。湿度と気温をみながら、霧吹きで段ボールの中をしめらせておくのですが、季節のうつろいとともにかわきかたもなにもかわっていきます。漆は生きている。そう思わずにはいられません。それやこれやもふくめて、昨今ぱぱっと終えるワークショップが隆盛するなかでは息の長い教室だといえましょう。
1回のワークショップは2時間程度なのですが、筆やへらの使い方やら練り方やら、ひとつひとつが「微妙」な加減を会得するのが骨折りでした。いや骨折りというのは言葉が違う。ほんの一瞬なので、つかまえようがありませんし、なんとなくわかった気になっているだけです毎回。よって次回にはすっかりといっていいほど忘れている。メモをとっていてもさして役に立ちません(が、メモがないと完全に忘却)。そういう具合だったので、6回の受講をおえてまず思い立ったのは、忘れぬうちに実践せねば!ということ。これから、自家(カフェ含む)の器を少しずつ手入れしていきます。
下の写真は最終回の様子。ガラス板にのっているのは絵漆です。

最終回を終えてのguu.さんの言葉から。

《金継ぎをやっていると、どの工程もすごく大切なのがよくわかります。 (きっと生徒さんたちにもわかっていただけたはず!) 粉蒔きを美しく仕上げるには、中塗りや下塗りから美しくしておかないといけなくて、中塗りや下塗りを美しくするには、錆漆等の下地から美しくしておかないといけなくて… 「丁寧な仕事」の積み重ねが最後の仕上げに全て表れるのと同時に、「まあいっか」の積み重ねも最後の仕上げに全て表れます。 「ものを直す」ということを、少しでも身近に、気軽に考えていただきたいのとともに、職人さんや作家さんの漆器が、いかに「丁寧な仕事」の積み重ねであるか、感じていただけたら嬉しいです。》

丁寧な仕事の積み重ね。工芸にはそれが出るものですし、伝わる、ときには数千年をへだてても。景観にもあるのではないかと思う、あるいは思いたくなっている、今日このごろ。美しい風景には、人が手をかけただけの積み重ねがあるのだと。ね。

雲南地域におけるダイシコ(大師講)の断片

「ホトホトと餅とダイシコの関係」のつづきとして記します。

 今日、島根県立図書館で、『仁多町民俗調査 昭和55年度報告書』なるものが書棚にあるのを見つけて驚きました。どこから出てきたのか、もとからそこにあったのか……。なんどもその棚には目を通していたはずなのに、この日に限って背丁が目に飛び込んできたのだから、なんというか、contingency(本来的偶有性)とはこういうことなのかと、ちょっとした衝撃と喜びでありました。
 その報告書は北九州大学民俗研究会が、昭和55年7月下旬の10日間、30人あまりで行った本調査と、先行調査、文献調査をもとに編纂されたものです。町史などの中に北九州大学の調査に基づくものであることの表記を散見したことはありましたが、こうしてまとまったものとして存するとは思いませんでした。岩伏山の由緒について、これまで耳目にすることのなかった異説※1が採取されているなど、大変貴重な資料であるといえましょう。
 さて、しかしながら、大師講(太子講)について、正面切った報告はありません。それがまた不思議でもあり、興味深いのです。まず、見出し項目としては、私が現在追究している大師講ではなく、亀嵩の算盤職人が「講」として聖徳太子をまつるという太子講をあげています。まぎらわしいのですが、大師講(ダイシコ)と太子講(タイシコ)、ふたつの違いは事典の類をひけばはっきりとしています。たとえば、小学館の国語大辞典では、太子講をタイシコウとして、聖徳太子と結んだ「講」として解説しています。
聖徳太子を祖として奉讚する大工の講中。また、太子の忌日二月二二日にその講中で行なう法要と宴会》
 一方の大師講はダイシコウと読ませ、天台宗の開祖、中国の智者大師の命日を11月24日(旧暦)としてその法会を第一義としていますが、伝教大師最澄弘法大師空海、それぞれにちなんだ法会を第二、第三の義としています。そして、問題は第四義。
《旧暦一一月二三日から二四日にかけての年中行事。家々で粥や団子汁などを作って食べる。智者大師・弘法大師聖徳太子などにまつわる伝説を各地に伝えているが、お大師様は、すりこ木のような一本足の神様だとする地方が多く、また多くの子どもをもつ貧しい神で、盗みに来るその足跡をかくすために当夜必ず雪を降らせると伝えるところも多い。この二三日の雪を「すりこぎかくし」「あとかくしゆき」などという。講とはいうものの、講は作らず各家々でまつる。この夜お大師様が身なりをかえて、こっそり訪れるので、家に迎え入れ歓待するのだともいわれている》
 私が追いかけているのはこちらの「ダイシコ」であり、雲南地域で広く行われていた(らしき)ものです。その断片は、『仁多町民俗調査 昭和55年報告書』の中にもあります。これまで雲南地域の地誌では見ることのなかったものですが、おそらく見落としているのでしょう。地誌のリストに印をつけての閲覧を要します。
 さて、問題のダイシコの断片は、前布施で取材されたもの。前布施は、竹の焼畑実践地の水源の峰たる岩内山から南へ下り、八代川をはさんだ谷向こうの集落にあたる地です。
 手早く筆写したので、字句は異なるかもしれませんが、以下の記述がありました。
《前布施に弘法大師がこられた時、あるあばあさんがエンドウ豆をむいていた。大師がエンドウをくれるように頼んだが、おばあさんは与えなかったので、エンドウに虫がつくようになった》
 また、この同型パターンでトウモロコシがあり。「先の曲がったトウモロコシができるようになった」というもの。調査班は下阿井にも入っていて、他の事項ではよく出てくるのですが、下阿井で私が聞いたタイシコウのことは、出てこなかったのでしょう。おそらくやっていた家とそうでない家があったからではないかと思う。
 ここで3つの引用をもって、のちほど加筆する際の材としておきます。
 1972年刊の『木次町誌』、温泉村の項から(p.268) 《十一月二十四日 大師講・太子講 大師講は前夜大師講だんごをつくる。大判形で、平年は一二個、閏年は十三個を仏壇に供え、それをあずきで煮ていただく》
→課題:餅をつくという事象、神が家を来訪するという事象を他で見つけること。
 野本寛一,2005『栃と餅』にはこうあります。(少々長くなるが)

《一一月二三日は新嘗祭、じつは、民間ではこの日を大師講と呼んでいるのだが、その大師講は収穫祭なのである。この夜は、ダイシサマ、デシコガミサマ、オデシコサマなどと呼ばれる神がイエイエを訪うとされる。元三大師、智者大師といった大師だとする地もあるが弘法大師を想定する地が多い。しかし、青森県秋田県などには、デシコガミサマは女で子だくさんの神様だとする、山の神に近い神を伝承する地も少なくない。この日こうした神が来訪するという伝承を持つ地は、東北・関東北部・北陸・中部・中国山地、鹿児島県大隅地方と広域に及ぶ。そして、この日、大師粥と称して小豆粥を煮る地が多い。小豆粥のほかに小豆のボタモチ・しるこを作る地もある。さらに、大根にこだわる地もある。(中略)冬期に入る直前に、その年の収穫の様子をたしかめにくる、大師に収斂されたマレビトに、その年収穫した米と小豆で作った小豆粥やボタモチ、一部には冬期に重要な大根を加え、それらを供え、家族も食べて収穫を祝ったのである。》

 そして、また、以下にある「スリコギの先につけた餅米」を板戸に塗りつけるという所作と意味は、「大」という文字によって示されているメッセージとして表象されているようですが、雲南のカラサデ餅との対比で考えるとどうなるのか。この探求課題にとってヒントのひとつです。

静岡県遠州地方から駿河西部にかけてはこの日、小豆のボタモチを作って家族で食べる。そしてボタモチを作ったスリコギの先にボタモチのモチ米を塗りつけ、それで玄関の大戸(板戸)の目通りの位置に「大」という文字を書いた。戦前、板戸のある家はどこの家の板戸にも「大」の字の跡があった。私は育った家にもそれがあった。これは大師講の神に対するボタモチの手向けであり、この家は、お蔭で、秋の収穫を終え、収穫祭を終えることができましたというメッセージを大師講の神様に伝える表示なのである》

 野本があげる大師講の神の特性のなかで、来訪神と正月(小正月)の関係をとらえる鍵となりそうなふたつの事項があります。
・不可視であること……「足が悪い」「足跡を隠す」
・小豆の赤色……「生命の色、血の色、太陽の色とみてさしつかえなかろう」(野本)

 後者については、冬至当夜における豆腐・大根の「白」、大黒をまつる一二月九日前後の大根=白と黒豆=黒との対照考察を要すると考えます。

 最後に『尾原の民俗』 p.272の民俗行事から。ダイシコさん、さんづけになっているところに着目です。隣接する23項のカラサデは、さんがついていない。

《11月24日 ダイシコ(大師講)さん
「お大師の跡隠しの雪」といって雪が降ることが多かった(山方1)。
前夜、米粉で小判状(長径15cm×短径約8cm)のダイシコ団子を作った。閏年には13個、普通は12個作った(大原・尾白・山方1・林原1・2・前布施1)。
作ったままの団子を枡の中に井げたに組んで入れ、床の間か神棚に一晩供える(尾白・林原1・前布施1)。
この団子が寒くて凍みているほどよい(大原)、来年は豊作になる(林原1・前布施1)といった。
団子は翌朝、小豆で煮て食べた。ダイシコ団子は岩船山にある大山さんにも牛の神様だから、といって供えた(尾白)。》

「お大師の跡隠しの雪」がどう語られていたかは、ここからはわかりません。これを機会に、民話採録からたどってみようと思います。 一般に、というより柳田のまとめにより、跡隠しの雪とは、こういうものとして語られています。

《旧暦では十一月末の頃は、もうかなり寒くなります。信州や越後ではそろそろ雪が降りますが、この二十三日の晩はたとえ少しでも必ず降るものだといって、それをでんぼ隠しの雪といいます。そうしてこれにもやはりお婆さんの話がついておりました。信州などの方言では、でんぼとは足の指なしのことであります。昔信心深くて貧乏な老女が、何かお大師様に差し上げたい一心から、人の畠にはいって芋や大根を盗んで来た。その婆さんがでんぼであって、足跡を残せば誰にでも見つかるので、あんまりかわいそうだといって、大師が雪を降らせて隠して下さった。その雪が今でも降るのだという者があります(南安曇郡誌その他)》

(「日本の伝説」より) 柳田はこの話がのちに「間違った」という言い方をしていますが、方便であって、跡隠しの雪は山の神の示現であると、そう見ていたのではないかと、言いたげです。同じ「日本の伝説」にこうああります。

《それからこの晩雪が降ると跡隠しの雪といって、大師が里から里へあるかれる御足の跡を、人に見せぬように隠すのだといい伝えておりました。(越後風俗問状答) そうするとだんだんに大師が、弘法大師でも智者大師でもなかったことがわかって来ます。今でも山の神様は片足神であるように、思っていた人は日本には多いのであります。それで大きな草履を片方だけ造って、山の神様に上げる風習などもありました。冬のま中に山から里へ、おりおりは下りて来られることもあるといって、雪は却ってその足跡を見せたものでありました。後に仏教がはいってからこれを信ずる者が少くなり、ただ子供たちのおそろしがる神になった末に、だんだんにおちぶれてお化けの中に算えられるようになりましたが、もとはギリシャやスカンジナビヤの、古い尊い神々も同じように、われわれの山の神も足一つで、また眼一つであったのであります。》

 なお、『志津見の民俗』には大師講さんとして12月21日に、「この日はオハギを作る」とだけ記載されています。

※1)素戔嗚尊が船にのって天下ったという類ではない。採取地は尾白で、素戔嗚尊に紐付けるパターンをbとして、aの項に以下の説をあてている。《昔津波があって、岩伏山の頂上に流れ着いた舟が岩になってしまったという。そこでこの山を舟山、または岩舟山というようになった》。