奥出雲ラボフォーラム〜絲原家の可能性〜雑感

facebookから転載しつつ、のちほど大幅に加筆する予定です。

絲原家居宅で開催されました奥出雲ラボフォーラムからは多大な示唆を受けました。主催の方々へ感謝する次第。

参照リンク

https://www.facebook.com/hirokazu.sakuno/posts/1387363777951862?pnref=story

https://www.facebook.com/kazuyoshi.udagawa.3/posts/1456554281044173?pnref=story

さて、「森と畑と牛と」の業務でしたので詳細はそちらの会で報告するとして、私的感想をふたつ。

◉写真は会場のふすまの引手です。七宝焼が美しい大正年間のものと思いますが状態がよかったです。いいものが生きているなあと。

◉これからの観光はパッケージで買う時代になるのだという予感をひしひしと感じる内容でした。個人で旅程を組み立てること、端的にいえばサービス選択の難易化がどどっと進行するのではと。旅行業法の緩和なり特区ではじまれば、チャンスかもしれませんが、よい流れではありませんね。

そして蛇足。

宮本常一が、農村への観光に希望を見出し、絶望していったコラムを読んだときの記憶が蘇ります。だからこその希望でもあるのですが。

◉バリ島のアマンダリがアマンマジックとしてリゾート業界を震撼させてから十年あまりが経過し「魔法は消えた」というコメントを寄せる人もいます。が、そうでしょうか。バリ島「観光」は、1930年代から始まる長い蓄積・紆余曲折が土壌です。

たたら山内がそうした道を歩むのだとしたら、百年の計でのぞむことが条件でもあり、それは絲原家をはじめとした旧家ならばこそできることなのだと思います。

文字を見る脳と自然を見る脳は同じことをしている

興味ある人がおられると思うので、ウェブに転がっていた論文(有名ですが)を共有。
マイクロな生態系管理の智慧=民俗知を、どう記録・継承していくか、その手法開発の参考資料として。
”The Structures of Letters and Symbols throughout Human History Are Selected to Match Those Found
in Objects in Natural Scenes” Mark A. Changizi,Qiong Zhang,Hao Ye, and Shinsuke Shimojo
http://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/502806
これから郵便局へ寄った後、アワの脱穀と精白作業です。

Morito Hataketo Ushito

立ち上げたばかりの団体のアウトラインを英文にする必要があり、google翻訳をもとに修正中です。こなれてない感満載とはいえ、通じなくはないと思うので、まずはこれにてご勘弁。

「森と畑と牛と」です。

Group Outline

Representative secretary – Kouta Ohishi

Secretary- Masaki Omojiro

●Office location

529-1,Sajiro,Okuizumo-cho, Shimane-ken, 〒699-1434, Japan

●Activity philosophy and purpose

A small mountain village in Okuzumo has accumulated water, nurtured resources, and played a role of feeding food and energy to the town. As such a series of mountain villages and towns nurture the city or connect with the world, there is a life economic and cultural sphere today. However, in recent decades, there is no bottom in the root of creating a cycle around the area, the decline of agriculture, forestry and livestock industry supporting the sustainability of local area. Human capital is one of depletion. In addition, the culture unique to the area and using cultivated plants and trees is about to disappear. The folkloric knowledge of food, clothing, shelter and livelihood cultivated by acts over a thousand years, once lost from this world can not be regenerated again.

“To eat is to live.” While we think deeply these words, we aim to rebuild deep and expansive culture around food.

Secondly, we regard region-specific traditional knowledge that has supported the primary industry such as agriculture, forestry and livestock as the foundation, as ecological management technology, adapt and preserve to modern society, sustain harmonious coexistence between people and nature We aim to make something.

Third, we will create a place where people with disabilities, people who need nursing care, people of different cultures with different words, and many other people can coexist through eating.

And in the darkness of the transitional turmoil, in the mountain village where we can not see, each one gathering at this group wishes to hand over the beautiful Noyama to the next generation, becoming small and strongly warm light .

●Business contents

1. Project to regenerate degraded forests and abandoned areas by traditional farming practices such as slash-and-burn farmland etc.

2. Activities to develop a holistic ecosystem approach to environmental resource assessment and management for middle and mountainous areas in the decline of human resources.

3. Study on traditional crops and gatherer cultures which are in danger of disappearance in Okuizumo and related cultural areas, as well as activities to conserve and reproduce as resources.

5. Promotion of industries based on the ranch where the cattle farm-Damuno mieru bokujou and its surrounding areas and creation of employment.

6. Planning and development of experiential program utilizing Satoyama nature in Okuizumo.

7. To contribute to social welfare and to promote the above project Practical study of various initiatives.

8. Other necessary activities to achieve the purpose of our group named Morito hataketo ushito.

スリランカの焼畑〜メモ

奥出雲山村塾のfacebookにあげていたものを再掲。
スリランカの焼畑メモ……です。一番最後に記していますが、スリランカの焼畑は水田耕作、そしてアグロフォレストリーと並行・連動してあるもので、奥出雲でやろうとしていることへの多大な示唆を有していると思いました。はい。いずれもう少しまとめたいと思いますが、記憶が薄れる前に、ぱぱっとメモしておくものです。(やや長文)
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スリランカは急激な人口増加局面にあり、焼畑農法は休閑期間の短縮によって持続可能ではなくなったと言われています。が一部、樹園ではなく常畑へと転換し肥料の投入を始めるところで、土壌流亡が生じているところもあり、それを焼畑の責に帰しているところもあり、なんともです。シンハラ語?でChenaと呼ばれる焼畑は、内戦の影響が大きかった東部地域で残っているところがあるようにも聞きましたが、ほとんどのエリアで1970年代から80年代にかけて禁止されてきました。
◆興味深いのは、Chenaは混作で穀物を中央に植え、周縁部に野菜類、外周は野生動物をブロックするために燃え残った枝や蔓などでフェンスを築く方法。
◆そしてChenaの主要穀物が、Finger millet(シコクビエ:ローカルネームはKurakkan)であったこと。シコクビエの利用は激減したものの、いまでも市場・食堂にあるということ(食べてみたかったし、どういう形で供されているのか興味あり。昔はダンゴにしたりしていたらしいが)。健康食品として重要視されていること。
◆森林だけでなく、叢林、牧草地など植生によって異なるChenaがあり、それぞれ名称が違います。主に4つに分類され、中には溜池をつくるものもあるらしい。
◆Chenaはあくまでも多用な土地利用のひとつに過ぎず、基本は数千年に及ぶ灌漑による水田耕作、(いまでは)ホームガーデンと呼ばれる5畝から2町に及ぶアグロフォレストリー、そしてChena。この3つをうまくまわす営みがあり、それはイギリス支配下のプランテーション時代であっても持続可能性を有していたが、戦後の農業近代化の過程で大きく複雑な問題をかかえるようになっている。
◆Chenaの役割として、食料供給のみにとどまらないという点が、水田耕作やホームガーデンと共存していることからも注目すべき。
たとえば、獣害の緩衝地帯として意識されている。
この視点は着目されづらいが、我々のねらいとしてはきわめて重要。
◆ホームガーデンとあわせ、植生のモザイク化をはかることで、生物多様性とリスクヘッジをはかっていること。獣もだが、鳥や昆虫(蜂をはじめとして)、コウモリなど、生物の有用意識がかなり高い。「鳥に食べさせる木」という呼称などはその典型か。


竹の焼畑2017〜火入れ地の検討

ダムの見える牧場での焼畑は、今年で3年目です。1月にNPO布勢の郷による竹林整備が終わりました。昨年の春焼き地の西側に位置しています。計画を聞いた段階から、急斜面であることと、日あたりがよくないことから、見送るか、6月〜7月頃にまいて、8月後半か9月上旬には収獲できるものであればと思っていましたが……。
今日現場をしげしげと見るに、想像以上の急傾斜でした。これじゃあ、火が入りませんね。まず既存竹林との距離がなさすぎること。延焼リスクが高すぎます。こりゃ、全部引きずり出して下で焼くしかないんじゃないかなあ。
斜面には燃やささずになにか播くことを考えたほうがいいですね、春の早い時期に。ヒエかなあ。
するってえと、置いてある竹は早晩下に引きずりおろすか。
考えることが多くて楽しいですね、はい。

今日の焼畑地

雪がつもりましたね。一昨日から融雪が進んだようですが、まだ膝上まであります。4月からの打合せを島大生と2時間あまり協議しました。やるぞい!
とりわけ、この春からは一般社会人の「入塾」ならぬ参加をおおいに募ります!
テーマは「趣味としての焼畑」です。
「ご趣味は?」
焼畑を少々嗜んおります。荒れた薮や山を切り開いて、火を入れる、そしてアワや蕎麦やカブができる。なかなかよいものですよ」

……てな具合なのかなあ。
よくわからんけど、そこに必要な「達成感」や「満足感」「爽快感」が、個の楽しみでもあり、群れとしての楽しみでもあるような舞台をつくっていければと思っています。

◆令和4年1月1日追記

【はしゃぐ】
日本国語大辞典をひけば、第一義は「

相模原施設殺傷事件にどう向かうかは日本社会の重大な節目となる

 相模原施設殺傷事件から半年が経過した。

 私は新聞・テレビ・ネットを含めたメディアのニュースをほとんど見聞しない。理由は種々あれど、流れるニュースの大半はニュースとしての価値のない、たとえばいえば「今日はいい天気ですね」と同水準のもの、すなわち挨拶程度のものとしか受け取れないからである。私にとっては。

 そんな私が昨年最大の「ニュース」として今もその経過が気になるものが、この事件である。

 ネットから3つの記事をひろってみた。

 

NHKニュースウェブ「殺傷事件から半年 元職員は障害者冒とくの供述続ける」1月26日 4時05分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170126/k10010853161000.html

 この記事がオブラートに包んでいるかもしれないことに、いや、妄想であってくれと思いたいのだが、私は戦慄を覚えざるを得ない。それというのも10日前には、こんな記事が出ているからだ。

朝日新聞デジタル「植松容疑者の鑑定留置、4週間延長 相模原殺傷事件」2017年1月17日19時58分

http://www.asahi.com/articles/ASK1K5RMDK1KULOB02K.html

 植松容疑者は、責任能力を有しているのだ。精神鑑定の延長はそれを徹底して確かめるためだと思われる。記事では取り調べの状況をこう記している。

《植松容疑者は、調べに対し、こうした主張(障害者やその家族を冒とくし、みずからの行動を正当化する内容:編注,記事前半より)を一貫して供述しているということで、捜査関係者によりますと、取り調べの中でその考えは問題があると指摘されると「わかっていない」などと反論していたということです》

 専門家による鑑定は、来月20日までの予定で、検察は鑑定結果などを踏まえて起訴について判断する見通しです。

 そして、昨日のシンポジウムの開催は京都ローカルの記事らしい。こんな小さな扱いでよいのだろうか。

朝日新聞デジタル「京都)相模原殺傷事件半年でシンポ 優生思想根深さ指摘」大村治郎,2017年1月28日03時00分

http://digital.asahi.com/articles/ASK1W3F5GK1WPLZB002.html?rm=381

 私の戦慄は、植松容疑者は優生思想というわかりやすく断罪されやすいものではない、古い型をもちながらも、21世紀に現出した新しい思想を宿しているという予感だ。

 共感し同調する人間が少なからずいるし、今後どんどん増えていくだろう。その場その場の損得だけで動く社会がとまらなくなってしまったのだ。

 だとしたら、私は戦わねばならない。思想を学ぶもの、知を愛するもの、人間を信じるものとして。思想と戦えるのは、法でも裁判でも戦車でもない。これは、正しさをめぐる思想と思想の戦いなのだ。

 生きるに値しない命などない。

 

2016年のガマズミ

 がまずみについて、記事に書いた記憶がありますが、見当たりませんので、これまでの概略を記します。
1. 2015年秋、さくらおろち湖周辺でガマズミを発見。荒廃竹林山林の再利用活動のなかで、低木で材の用途も広く、子どものおやつとしても、大人の滋養食としても、こりゃいいなあと思い、再生に取り組むことにした。ジャムはカフェオリゼで好評。「これはなんですか?」「おいしい」「好き」という声多数であった。
2. 2016年春、種の保存法が雑であったため、発芽は0となるものの、挿し木は何本かが成功。育成に向けての第一歩となる。出雲国の産物帳などにより、出雲地方での方言名は「かめがら」「かめんがら」であることなど文献で確認できたことなども多々。
 寒中見舞に記載の一文をひいておく。
【ガマズミの実】
 ガマズミは別名ヨソゾメ、ヨツズミ、また、方言名としてムシカリ、ズミ、ソゾミなどが知られているものの、奥出雲でどう呼ばれていたかは未だわからない。幹は鍬の柄に、枝は結束の縄として使ったという。果実は晩秋から初冬に甘くなり、疲労回復・利尿の効能があるようだ。染色にも使った。さて、その諸能も存在も忘れ去られようとしているが、この春、種からふやしてみようと思い立った。園芸ではなく、荒廃した山の道を切り開き点々と。うまくいけば五年後には実を結ぶだろう。
3. 2016年晩秋。諸事多忙につき、採集したものを黴びさせてしまったりもするが、小瓶3つ4つぶんのジャムはできた。実を干してドライにしたものは、おやつにはよいが人には出せないねなどと話す。
 昨年、妻につくってもらったジャムですが、「コツがわかった」とのこと。再度聞いて後ほど加筆しておきます。



 さて、本題です。本日、「飯南町の植物ガイドブック」平成25年刊を見ておりましたら、ガマズミの項に気になる記述を発見。以下に引用しておきます。

 p19〜
 ガマズミ
 この地方では「カメガラ」と呼んでいました。細く真っ直ぐ伸びた木を、太鼓のバチに用いました。お宮の神事、神楽などの太鼓のバチはほとんどガマズミでした。
 真っ赤な実は甘酸っぱく、かつは子どもが食べました。また、噛みながら皮と種を除いて、わずかに残る果肉をチューインガムのように噛んで遊びました。

 ガムのように噛んで遊ぶということがわかりません。どういうことなんだ。「わずかに残る果肉」とは種にこびりついた果肉のことなのだろうか。はてさて。

家庭用精米機を使ったモチアワの脱っぷ

 1月8日の作業の結果だけを備忘に書きとめ。
 山本電気のRC-23(製造中止だが市場在庫がまだ豊富)を使った雑穀の脱っぷを実行に移しました。五穀用スクリーンの在庫がメーカーにあり2つ注文したことは以前に記したかもしれません。網目が小さいため、アワはすり抜けますね。

 デフォルト(雑穀向きに推奨されている基本設定)で4回まわしたのが、この上の写真の状態。そして、掬って拡大したのが下の写真です。これならきれい、使える。
 
 しかーし。写真には撮っていませんが、同じ量ほどが網からすり抜けて粉(米でいうなら糠)とともに受皿にたまっているのです。放置しておりまして、本日風選する予定でしたが、やり損ねました。明日、で、き、る、か、な、です。曇ならなんとか。
 そして、同じく写真には撮っていませんが、蕎麦を試してみました。黒皮は剥けず、剥けたものの大半は砕けて次々と粉になってしまうようです。蕎麦粉のよい香りを堪能するはめになりましたが、さて、どうしたもんじゃろのお。ちなみに2年前の玄そばに3年前の玄そばも4割程度混ざったものですが、これだけよい香りがすれば、まだまだ使えるなあと思いました。挽きたてにまさるものはなしということですかな。

ホトホトと鳥追い

島根県雲南市木次でのとんどさんは、あらたか先週末の7日か8日に行われ、元来の小正月である十五日に執り行うところはごくわずかだ。先週行ってきた頓原のトロヘイも、もともとは十五日の前夜にやるものであったのを、諸事情、すなわち人間の側の都合で土日にずらして行っている。神事であるよりは人事(イベント)なのだから、致し方ないことであるし、それが道理でもあろう。60年か70年ばかり前の時代に柳田國男が嘆いたのは、それがもともとなんであったのかを覚えているものもいなくなるという事態であった。それすらも過去のことになってどれほどがたつのだろう。この帰結がどうなるのか。嘆きとともにあったのは、まだ手をのばせば取り戻せるのにという無念であった。今の時代、その痕跡さえも失われてひさしい。だがしかしそれでも、追ってみたいものはある。僅かな残り香のようなものを頼りに。無為多忙なるに流されながら、せめてメモのような箇条書きを今日は記しておく。

柳田国男の「小さきものたちへ」に所収されている「神に依りてきたる」。そこには、トロヘイ、ホトホト、トベトベ、と、地方地方でさまざまに呼ばれ、豊富なヴァリアントをもつ小正月の行事が羅列されている。そのもっとも深い本質は何か。柳田が標題にしたように、それは

《われわれは久しい間、少なくとも年に一度ずつ、神に扮して出る役目を持っていました。》

ということとして、整理してみるのがよい。  およその概略は伯耆・出雲の「ホトホト」が公約的なものであったのか、こう延べられている。

伯耆・出雲辺ではホトホトとよんでいました。正月十四日の夜、村内の若者が藁で作った馬・牛の綱、あるいは銭緡の類を以て人家の戸口に立ち、小さな作り声をしてホトホト、ホトホトというのです。そうすると家では盆に餅や銭を載せて、出て来てこれをくれるのですが、同時に作り声のだれであるかを見現そうとし、一方はあてられないようにするのをてがらとします。通例は、そっと水を汲んで来て不意に打ち掛け、びっくりする地声を聞こうとしました。》

これが東北・東日本では「鳥追い」として伝わっているものが多い。その意味付けはホトホトとは異なるが、家々を尋ね、餅や銭をもらうという点は同質であり、何より「子ども=神の代理」であることは変わらない。

ここに「とんど行事」と子供組、あるいは若者組の仮設小屋がどう関係してきたのかが、この小正月の神事の変遷を夢想してみる鍵となるだろう。

産屋が新たな生命を得る場として、日常世界から切り離された場に設けられたように、とんどの前に藁でかけられる小屋は、あらたな歳=たまを得るための忌み籠もる場であったのだと思われるし、それを仮説として、より奥へとわけいってみたい。  ……つづく。