ヌルデ雑想

ヌルデの紅葉は、ハゼノキやヤマウルシの鮮やかな真紅とはちがって、遠目には目立たない。緑色を残しながら、黄、赤、茶がまじったような風合いだが、近寄ってみれば存在感もあって美しい。塩木とも呼ばれる(た)所以たる、リンゴ酸カルシウムをふく実は、その塩をふいたような粉もすっかり洗い流されているようだ。今年もなめることはかなわず。
なめるには10月初旬だろうか。まだ葉が色づく前に見つけねばならぬようだ。その頃には他の木々の緑に囲まれてわかりにくいものだろう。だから、今年目星をつけておくのだという意識というか意地もあって、ヌルデが毎日のように目に飛び込んでくる。車で山の端を通るたび、中から、あ、あそこにも、ここにも、と、こんなにたくさんあったんだと驚くほどだ。

火入れフィールドで目にすることはほぼなかったと記憶しているが勘違いだろうか。見逃していただけだったのかもしれない。タラノキクサギアカメガシワなど他の先駆樹に比して成長が早くないのではないか。少なくとも奥出雲町佐白近辺ではそう見える。ただ、近隣の林縁ではしばしば3mを超えるような大きなものを目にする。

粥杖、幸い木、負い木……。民俗学からの関心から注目するようになった木ではある。見分けのつきやすいこの時節、できるだけ見ておこう。

f:id:omojiro:20211108123638j:plain

f:id:omojiro:20211108124146j:plain

フシノキという名のもとでもある五倍子(附子ふし)も多くはないが目にした気がする。竹紙が漉けるようになったら、染めてみるのもよしか。

追記1

ヌルデが辞典等で記載されているよりも大きくならないことについて。何日か前にも引いていた岡山理大植物生態研究室のサイトにも記述があった。中国地方の気候、土質によるのか?

†. ヌルデ Rhus javanica L. var. roxburghii (DC.) Rehder et Wils.…岡山理科大学植物生態研究室

†.植物民俗学的にも注目されるヌルデ…森と水の郷あきた

追記2

負い木としてヌルデを用いたことは、菅江真澄が記している。そのことをのちほど追記しようと思う。
この写真は3年前か、静岡の焼畑フォーラムで井川に宿泊したときに撮ったもの。正月のつくりもののひとつといえようが、井川ではヌルデを使うようだ。他の地方ではヤナギ、クルミノキなども。加工がしやすい、手に入りやすいといった便や理の向きから我々は考えてしまうのだが、”魔除け”に限らず、この世界を形づくるものは斯様なことだけではすまぬものである。

f:id:omojiro:20190317081825j:plain

夕陽に向かって脱穀三昧

令和3年は畑に出る時間が少なく、気候も不順で、大麦は鳥にも食べられて、ともかく作物がうまくできなかった年。安定しているアマランサスとタカキビでさえ、である。そのアマランサスの脱穀をしながら、少しずつ振り返ってみようと思う。

焼畑での初栽培は、2016年。今年で6年目となるアマランサス。収穫が少ないので、脱穀は計3〜4時間で終わると思う。斐川で脱穀し佐白で唐箕にかける。斐川(の実家車庫の軒先)は、西に向かって遮るもののない平野である。西からの風は強いが、西に見える地平の空は山がちな島根にあっては奇特なものだ。その西の空に向かってコンコン・カンカンと棒をアマランサスの穂に向かって打ち続けるのだ。1時間強なら、どうってことない。少し腕がだるくなる程度だ。もし来年、予定どおりの作付と収穫ができたなら、今年の5倍〜10倍となろう。ざっと20〜40時間か。一日5時間として4日〜8日。5日が限度かもなんて皮算用は無用なり。そううまくはいかんだろうから。

そもそも今年はもっとたくさんとれる予定だったのだし。斐川の畑で今年はじめてつくったタカキビもアマランサスも下方予想をぐっと下まわる不調であった。土は肥沃なはずなのだが、天候不順で土の生態バランスの悪さが加重されたためか。
アマランサスは葉の虫くいがひどかった。茎が太くならず、実入りも悪いままで秋を迎えた。タカキビは茎が部分的に腐敗するほどになってしまった。実もほとんどつかず、茎が細いからバタバタ倒れた。一方で黒大豆・赤名黒姫丸はその斐川のタカキビのすぐとなりの畝だが、悪くないのだ。木次のオリゼ畑の黒大豆はどうやら実の入りが極端に悪そうなのに。オリゼ畑のもうひとつの豆、さくら豆もよくない。タカキビとアマランサスもよくないとはいえ、斐川ほどではない。この違いはなんなのか。

今年の不作は豆について特に耳にする。稲は平年並のようだ。これらをどう捉えたらよかろうか。机の上に出しておこう。

ともあれ、冬に土を育ててみようと思う。来年も天候が不順であっても作物たちが踏ん張れるように。春にモチアワを蒔くために。作付は、これまでのなんでもとにかくやってみるのから少し絞り込み、雑穀は3種としよう。アマランサス、モチアワ、タカキビ。これにとうもろこしをいれるかどうか。モチアワは鳥に食べられてしまうのを網でしか防ぐことができないから中断してしまったのだが、斐川の畑なら柱もたてやすくはれるのではということ。そして、アワはつづけていきたいという希望による。交雑しなければウルチアワもやってみたいのだが、それは春焼き地で。

土を育てるためのあれこれを整理。
手元になく、買うものとしてまず、籾殻くん炭。高価ゆえあるぶんで。頓原の道の駅で出ているものが量もあってよかったと思う。
籾殻は大きな袋に入ったものが数十円と聞いたので2〜3袋か。
手間をかけてかき集めるのが落ち葉。そうこれから。

こちらは今年のオリゼ畑でいちばんのアマランサス。かなり実が細いのは毎年のものと比べてみればわかる。

f:id:omojiro:20210927134010j:plain

トロヘイ・ホトホトの現在を追う#1

頓原交流センターでトロヘイの藁馬をつくりながら聞いた話で、山口県地福との交流があるとのこと。頓原の子たちが地福へ行ったり、地福の子たちが頓原に来たりしているのだとか。山口地方で盛んであったことは柳田国男も書いていた(要確認)。なかでも地福は今でもトロヘイ儀礼(地福のトイトイ)を保持しており、国の重要無形民俗文化財指定を受けている。
頓原も申請すれば指定はおりるのだという。が、検討はしているものの「めんどうだ」と。誤解なきよう添えれば、その良否が複雑である意をもたせた言であろうし、私は指定なしでもいいではと思う。大事なのは国のお墨付きを得ることではないし、この来訪神儀礼は外に向いたものではないのだから。指定を受けようとすれば、あるいは受ければ、説明と報告をしなければならない。そういうものではないのだと私は考える。この儀礼については。

さて、本題。

現在、中国地方で確認できるトロヘイと類縁儀礼の現存地区は、広島県口羽、山口県地福、鳥取県日野町菅福(すげふく)の4箇所。これ以外にもあるかもしれず、また近年まで続いていた地区もあるだろう。それらを掘り起こしてみてはどうかということだ。
まずは引っかかったものから続々と。30くらい出揃ったところで、整理の方針をつけていきたい。

少しずつ。

†. 日野町菅福地区のホトホト行事について……鳥取県公文書館

†. 岩手県久慈市のホロロン……(wikipedia)

また、飯南町教育委員会に詳しい方がいると聞いたので、そちらの取材もいずれ。

◆備忘追記

トロヘイに今はなくて、かつてより明瞭にあったもの。そして東北のナマハゲ系、ことにその南端とされる福井のアッポッシャに見られる来訪者=鬼、被差別の民という系譜が今どこにあるのかということが問題となる。
それは、現代、まさにいま現在の「いじめ・差別」の構造をとらえておく必要がある。
まずは中井久夫の「いじめの政治学」を再読のこと。そこから現代の論考をみておくこと。

頓原でトロヘイをつくる#2

頓原交流センターにて、小正月行事トロヘイの藁馬をつくる機会を得たことは、前回少し述べた通り。その時、講師の方から昔はどういうつくりをしていたのかはわからないと。
はてどこかに…あったよう……な、で、あった。勝部正郊の撮影したものを酒井董美が『中国の歳時習俗』(1976,明玄書房)中、島根編のなかに入れたもの。細部は微妙に違うけど、現存する一番古い親馬のつくりに近いのかなと思う。

f:id:omojiro:20211031111157j:plain

ついでに同書にある鳥取県智頭町の記録写真をのせる。
記録用に撮影されたものなのだろうか。お行儀のよさはさておき、蓑笠が浮いて見えるのは、この時点ですでにその装束の意味が薄れ消えていく過程にあることを物語っているようだ。近年、少なくとも2000年代に入ってからの記録をみると、みな雨具を身につけている。蓑笠がかけられる水をよける用としてしかとらえられなくなっていたからだろう。
だがしかし、少なくとも縁側に座している老人の記憶には、蓑笠がまとい続けてきた、人々に与えてきた心象が、残存していたのではないか。そんな空想をめぐらせてくれる一枚の写真である。すなわち、異人・法外者・富・死であると同時に、超越的権能・正義・抵抗者・生を表象した存在。まあ複雑、複雑なんだけれど、「おそれ」がそこにあったことは確か。そう、いくつかの地誌に散見される「こわいものだった」という記録は傍証たりえるやいなや。

次に、少し変わった事例をふたつ。

f:id:omojiro:20211031110722j:plain

岡山県勝田郡奈義町……トロヘンと同じ日に、子どもたちが「今日は嫁さんの尻叩き」といいながら、正月のゴミを集め丸めて縄でくくり、新嫁さんの尻を叩いてまわり、子どもたちはそこで餅をもらう。そうして叩かれると強い子どもを産む。同系のものは梶並にもあり、こちらは多産ということと、小さな鏡餅をもらうのだという。※上掲書より

木次の村方・斐伊……若者が頬被りをして藁馬を「ほとほと」と唱えながら門口の戸をあけて投げ込む。楽しみに用意していた餅や祝儀を馬についた袋に入れる。隠れていた若者は綱をたぐって馬を引き出す。家人は桶か柄杓で水をかける。その家は一年、菜の虫がわかない。餅を牛に喰わせると牛が繁盛する。藁馬は荒神におさめる。古くはトシジイサン(歳神?)に扮した若者が白髪の老神の面をつけ、子どものいる家を訪れ、餅やお年玉を与えたもの。(木次町誌,1972)

1970年代に編まれた史誌記載の民俗は明治40年代から大正年間にあったものが多く、明治30年より前の姿が伺いしれるものは少ない。参考に現山口県錦町向峠のトロヘエについて下記をあげる。若者がやめたのは明治27、28年とあるが、中国山地のほかでもほぼ同時期にやめているところが多いように推察される。明治32年、養蚕の飼育法が安定し、全国くまなく盛んになり、入会地や山畑が桑畑に転換され、日本が世界最大の生糸輸出国になる。また、農村から都市へ若者が出ていくのもこの頃である。
《入口でトロトロというと家のものは餅を一つずつやった。貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履など持って歩いた。老人はたいてい草履を二足出した。若連中がトロヘエをやめたのは明治二十七、八年頃であり、貧しい仲間は明治三四、五年までやっていた。貧しいものは村内の者だけではなく、隣村からも随分来たもので、深須村のある女の如きは大正年代までやって来たという。》
しかし、それでもこの時代には、申年の飢饉の記憶が家々で語られていたことを想い起こしておくべし。

トロヘイの消失は農村から若者が都市へ出ていくことと軌を同じくして進行した事態である以上、その再生復活は民俗行事の保全にとどまらず、農村の再生への足がかりなのだ。だからこそ、ひろくおおくの地域で記録にも残らない復活と頓挫が繰り返されてきたのだろう。

金木犀かおる10月の終わり

遅咲きだった今年の金木犀

菟原の駐車場から家まで歩いていると、鼻をくすぐるよい香りがする。はてどこの金木犀だろうと思うに、うちのだった。数日前の香り、蕾からわずかにこぼれ落ちるような若いそれとは異なるもので、すぐにはわからなかったのだ。熟したとろりと甘い香りとなった10月29日。覚えておこう。
木次町里方のこの家に暮らし始めてからこんなに遅い開花ははじめてのことだ。もともと開花時期の変動に幅があるのが金木犀らしい。これから霜がおり、冬がきて雪がつもり、春の桜を楽しみ、夏の暑さにおろおろしてる間に秋がきたら、また同じように香りを届けてくれることを願う。
  さて、キンモクセイはギンモクセイの変種であり、日本には江戸時代に雄株が渡来、挿し木で国内にひろがっていったものだ。だから自然分布はないということなどは、辻井達一,1995『日本の樹木』〈中公新書〉に詳しいらしいが、未読。二度咲きもあるらしいが、その生態も含めてもう少していねいに見ていこうと思う。つまり今年の遅咲きは二度目の開花だった可能性をいれつつ。

ウルシ属の紅葉とヌルデ備忘

時速60kmで走っている車の運転席からも、ウルシ属の真っ赤な紅葉が目につくようになってきた。多いのはヤマハゼだろうか。ほんの数日前からだ。まだ緑の濃い葉のなかに点々と、そこにいたのねとばかり名乗りをあげてくれている。ヌルデの実を今年こそ見つけてなめてみたいぞ。
ヌルデは焼畑民俗とのかかわりも深い。種子の休眠期間が長いことや地方名の多さなど下のサイトを参照されたし。

†. ヌルデ Rhus javanica L. var. roxburghii (DC.) Rehder et Wils.…岡山理科大学植物生態研究室

†.植物民俗学的にも注目されるヌルデ…森と水の郷あきた

小学館の全日本大百科には湯浅浩史が《ヌルデの果実はカリウム塩を含み、かつては塩の代用にされた。台湾のツオウ族などでは戦前まで利用していた》と記載している。台湾のツオウ族のことについて、他に知りたいのだが、鳥居龍蔵の著作集にあるだろうか。……ということから見つけたサイトを見ながら探してみたい。 

鳥居龍蔵著書・論文目録 | 民族学フィールドワークの先覚者 鳥居龍蔵とその世界

スリランカカリー3days初日。ポークカリーうまし。ただしすべて味見のみ。明日には食す。

頓原で藁馬をつくる#1

10月28日。午後より頓原交流センターでトロヘイの藁馬づくりを教わる。講師は、現在、張戸地区の小正月行事・トロヘイにおいて、藁馬づくりを子どもたちに教えておられる方だ。最初に公民館長の石川さんから当該地区トロヘイの概要を教えていただく。”生徒”は私含めて3人ほどのプライベートレッスン的なもの。

正直最初は、つくるほうより聞くほうに専念しようかと思っていたくらいだが、やってみていろいろ思うところあった。藁をしつける上手い下手ってあきらかに才能だなあとか。私は下手。だからわかるのだ。たぶん自分が持っている空間認識の欠陥があって、ふつうの人ならふつうにできる藁細工のあることが決定的にできないのだと思われる。

挨拶をしてセンターの玄関を出る際に、これ(藁馬)いいよねえ。かわいいよねえとは女性2人の言。藁草履のほうが実用性もあるしいいじゃないかという趣旨のことを言ってみたら、どうせ使わないのだから、こっちがいいのだと返されたのには、そうなんだと蒙を啓かれた。

私はむしろ、わら草履をつくってみたいと今回思った。そんな時間ができることを願って。

f:id:omojiro:20211028150541j:plain

こちら(上写真)が、講師の先生のお手本。きれいだねえ。私のような初心者は、藁たたきをより入念にしっかりやって水分もしっかりもたせてやること。手がおそいので、やりすぎぐらいにやわらかくないとうまくできないものだ。繊維が切断されてはもともこうもないけど。

f:id:omojiro:20211028141651j:plain

こちらが。いつのものかはわからないけれど、親馬で現存するもの。親馬に袋を結びつけて、子馬といっしょに縁側に置く。親馬は餅やおやつの入った袋といっしょに持ち帰り、子馬はその家に残す。残された子馬は神棚に。かつては厩の棚におかれていたという。

今回、久しぶりにトロヘイの世界にふれて、やっておくべきことを再認識。石見についてもふりかえりつつ、知らなかった山口のそれともくらべてみたい。

日原のといとい

日原聞書のp367 に、といといのことが記されており、そこでは草履と餅を交換する儀礼としてある。要素としてこちら(日原)にないのは「水かけ」と「馬」である。以下に引く。

 といとい

といといの晩(一月一四日)になると子供たちはといといといって餅をもらって廻りました。学校ではあんなことをしてはいけんと先生から止められたが、一四日の日には遊びに行くと今日はといといじゃけえというて、餅を紙に包んでくれる家もありました。餅はどこの家にもありましたが、もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました。

「もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました」
日本の餅の本質として、食は共有する慣習が支配的な中、正月の餅だけは個のものであったという柳田国男以来の見立てを証するものがここにもある。
また、その日は遊びに行くだけでも餅をもらったということから、「子どもへの贈与」ということがといといの本質であるともいえよう。これだけではなんともいえないが。

 といといは子供や若い者がしましたが難儀なものは大人でもしました。伊勢十さァは婆さァと二人でおりましたが、とても藁仕事が上手で、草履も上手につくると「伊勢十さァの草履のような」と人がいいよりました。伊勢十さァはといといの日にはおいのこをもって心易い家を廻りました。そしてこれを姉さんにあげてつかあされえなどといって置きました。そうすると米の一升もあげよりました。薄原(畑から一里半)の方からも来て、草履を二、三足も配って廻りました。これにも米の一合も出してやりました。

…つづく

畑の柿を食す

裏の畑にある柿。もう枯れてもかまわないとばかり、強剪定してきたものだから、ここ数年実をつけはしなかった。今年、数年ぶりに数個の実をつけている。渋柿と甘柿、それぞれに。渋柿は3つ、甘柿は4つ。今日、甘柿のひとつを食した。渋みはなかった。固く、本当に固く、うまかった。甘みはさほどないがそれがいいのだ私には。むしろかすかなその香りとカリッとした食感を楽しみたい。
そして、柿は小さいほうがいい。大きく甘い柿はもはや好まれないのではないかとさえ思うのだが、どうだろう。市場に並んでいるものをみると、えぇ!というほど大きいものが多い。我がオリゼ畑にあって数年ぶりに実をつけた甘柿たちは小さい。柿の実はいつごろから大きくなってきたのか、それを確かめる術は多くなさそうだが、いつか詳しく知る人がいればたずねてみたい。

渋柿はもう少し熟したら干し柿にしようと思っている。葉の陰にかくれたひとつは完熟しゼリー状になっているのを確認した。干し柿といえば、高開でよばれたあの白い粉をふいた固く美味い干し柿が忘れられない。死ぬまでにあれをもう一度食べてみたい。つくってみたい。

2017年11月18日撮影。いちばん左がわからないが、真ん中と右は半自生の野柿。

f:id:omojiro:20171118085633j:plain

徒然なるままに、ダーウィンと土と小麦

小麦の種子をまかんとして、畑を整えるところまで。今日のところは。つづきは明日。
畝を整えんとして、畝間の土を掘り起こした。その際、ミミズを何匹かやってしまったと思う。小さなものが多かった。大きなやつ一匹については、頭をのぞかせたくらいだったので生きていると思う。深いところの土はネバマサ?ってやつか。深く掘り下げていけばマサが出てくるはずなのだが……いつかやってみたい。

種の起源』で知られるチャールズ・ダーウィンは地質学者を名乗っていた。借りてきた本を読みながら、どこか千葉徳爾を連想させるものがあって、あぁ、そうかもしれないとも思う。「方法」というものに意識的であったという点。大きくは科学と呼ばれるもの、であるだろうけれど。

f:id:omojiro:20211026224916j:plain

ユクスキュルの『生物から見た世界』、ダーウィンの『ミミズと土』、伊澤加恵の『おすそわけ』。ここに戻って、また思考を編んでいくのだ。小麦の種子をまきながら。

f:id:omojiro:20210504143703j:plain

『土中環境』の著者、高田宏臣氏はウェブの日記中で、こう記しておられる。
《無理な手入れを施せば、このモミジたちも暴れ出し、そしてあっという間に健康も美観も損なってしまうのです。無理をせずにコントロールすること、木々との対話が手入れの極意です。》

そう。無理をしいれば、樹々は暴れ弱って死んでいく。ここ数年、あれこれと思い当たることを反芻しつつ、木と土に向かっていこう。
拾ってきたドングリは数個なのだが、もっと拾ってたくさん育ててみよう。籾殻をもらい、わらをもらい、落ち葉をひろい、と、いろいろすることはあるが、これは楽しく人を募ってやっていこう。まず、ひとりでできるところから。
高田氏がいうようにコナラの力は大きいと思う。

《なぜ、私がコナラを主木に用い続けてきたか、それは、一般的な庭で扱いやすい樹種の中でとびぬけて環境改善効果が高いことが、主木として扱い続けてきた大きな要因の一つです。
環境改善効果が高いということは、夏場の生命活動が盛んで、生育が早いということでもあります。
しかも、この木はモミジなどと違い、日陰で扱うことができないため、成長スピードのコントロールは常に人為的な手入れ作業に委ねるしかないのです。》

《最大9m程度の樹高を想定しなければならない》かあ。オリゼの庭では無理があるが、斐川の家なら可能だろう。まして牧場ならOK。
さて、コナラの生命感を彼は感じているのだが、それがどこからくるものなのか。もっと感じとっててみようと思う。まず、ドングリをひろうところから。

小麦の種子を撒くのに、小さな畑なので、もちろん手まきなのだが、岡本よりたか氏がおもしろいことをfacebookに記しておられた。

《皮膚常在菌、腸内細菌、土壌菌。この三つは密接に繋がってる。腸内細菌は土壌菌と似ていて、土壌で作り出される野菜や穀物を食べることで腸内細菌が増えていく。そして、その腸内細菌が増えていく人ほど皮膚常在菌も増えていく。だから、種に皮膚常在菌を纏(まと)わせてみようと思って。
種を健康に芽吹かせようとすると、この三つの菌の連携が必要になる。信じられないかもしれないけど、子供のように皮膚常在菌の多い人が蒔くと、野菜は健康に育つ。しかし、腸の調子が悪い人、基礎疾患のある人が蒔くと種が病気になることがある。これ、事実なんだよね。経験則として。》

そんな微細なものがほんとに? と思う人が大半だろうし私も一瞬そう思いかけた。あぁ、ただそれはあるか、と。たとえば、アマランサスのあの小さなごま粒のような種子は数ヶ月で人の背をこえるほどに成長するのだ。いま世界を席巻しているるcovid19だって、最初はひとりかふたりの人間からひろがったものだ。

ドングリをひろうときに、苗床をつくり、それをうえるときに、それを感じてみよう。

金木犀がようやく花を咲かせる頃に小麦の種をまく令和3年10月25日

金木犀の蕾がいまにも開かんとして微香を漂わせている日。例年ならば9月の半ばにその香りを開花とともに芬々とさせているものである。気温、降雨、日照、気象の種々が平年とは異なる年であるとともに、ここのところ毎年のようにそんな異常が続いている。それでも花が咲くことは嬉しいことだ。ことに自分の家の裏、勝手口を出た目の前にある木であるのだから。

そんな日、スペルト小麦の種子を温水につけ冷蔵庫にしまった。明日播種の予定である。アマランサスの脱穀も少々。明日は斐川の分も脱穀か。水曜日は松江、木曜日は頓原、金曜日からはスリランカカリーの3日間である。慌ただしい。