今年の秋であったか、三刀屋町内、国道沿いで、高黍畑を見つけたときには、驚いた。えー、こんなに身近なところで「まだ」栽培しているんだ〜と。3年ばかり前に聞いたり見たりした限り、奥出雲町では一箇所をのぞいて皆無だった。昔はつくって食べていたという話はよく聞いたことがあるのみ。だから、車窓越しにみえ、そばに近寄り、車から降りてしげしげとながめてみるまでは心躍った。
あぁ、しかし、飼料用であることは明白。短稈である。アメリカで品種改良されたものだろう。その後、斐川町でも小規模ながら見かけたので、種とセットで栽培奨励もされているのだろう。ゆかよろこびであった。
タカキビ、タカキビと私は呼んでいるが、モロコシという呼び名が一般的だろう。モロコシ(蜀黍、唐黍、学名 Sorghum bicolor)である。スーダン・エチオピアといった東アフリカが原産地であり、BC3,000年頃から栽培の証がある。私がぬかよろこびした種は、ソルゴーといえば畜産農家筋にはとおりがいいと思う。
さて、なぜタカキビなのか。
アワ、ヒエ、キビ、(昔の)トウモロコシ、雑穀を栽培していた記憶は遠い過去のものとして、ここ出雲地方では人の記憶や体験から消え去ろうとしている。奥出雲地方ではそうしたなかで最後まで栽培されていたのがタカキビではないかと、そう仮説づけていろいろと試行錯誤しているからにほかならない。焼畑でできたタカキビとモチ米で正月モチをついたりと。
寺領のSさんは、小さいこどもの頃に食べたタカキビモチをもう一度食べてみたい、だから種をわけてもらえないかと、そうおっしゃられた。縁側で昔話しを聞いていたときのことだ。その後、Sさんの畑にタカキビの姿が見えた。どう召し上がられたのだろう。昨年はいつもみる畑では見かけなかった。おいしく食べられただろうか。
三沢で2年前までタカキビを育てて、モチ米といっしょにしたタカキビ粉を産直市で販売しておられた方からは、在来の種をわけていただいた。その種を継いでいま、焼畑でつづけている。三沢のおばさん方にきいても、昔はつくっていたこともあったと、モチがおいしかったと。
そして、3年ほどか栽培してみてわかるのが、タカキビは鳥に食われないということ。西東京では食われるという栽培者の言葉をウェブでみたのだから、まったく食べないわけでもないだろう。しかしながら、キビやアワは大群でやってきて食べ尽くさんばかりにやられるともいうのに比べれば皆無に等しい。そして、これが奥出雲地方で最後の雑穀栽培としてタカキビがつくられていた大きな理由ではないかと思う。
昭和9年刊行の「三成村誌」(国会図書館デジタルライブラリーにあり)。 島根県仁多郡三成村尋常高等小学校で編纂されたものだ。そこにこういう一文がある。
《時代の推移と共に自給自足は急激に廃されて行き斯くして畑作物の種類は多様性から単一へと変化し古い時代の作物は桑に依って置き換えられて其の姿を没した》
大正から昭和のはじめにかけて、産物調査や農村調査が全国的に行われている。出雲地方のそれらを概観するに、米食が「下等」においても常食となっていることがうかがわれる。昭和30年代の食生活を聞き書き調査した農文協のシリーズ、『聞き書き島根の食事』を他の都道府県のそれと比べてみても、雑穀食の割合が低いことがわかる。とくに東部出雲地方だとそうだ。
そうした背景もあり、早くから雑穀が「没していった」地方である。生産という面だけをみれば。ただ、食は経済や効率だけに拠って立つものではない。なにかもったいない気がする。惜しい気がする。なにか物足りない気がする。そんな「気がする」思いが細々とでもつくり続ける家を残してはいたのだろう。
が、そうした思いをくじくのは、鳥や獣に負けてしまうということだ。アワはかっこうの餌食だ。いっせいにある程度の面積でつくれば食べつくされることはない。が、細々とつくった場合、全滅に近いことになる。実際私も昨年も今年もそれを経験した。
そうしたなかで、タカキビだけは、20稈ほどもあればそこそこに食えるし、被害にあわない。畑の隅でもかまわない。
が、50年もたてば世代がふたつはとぶだろう。
「子どもの頃に食べた味をもう一度」と語ったおじいさんももう70代後半ではなかったか。
いや、いいのだ。愛惜ではない。そうではないのだが、なかなか言葉をつづれない。
……というわけで、つづきはまた。