志津見で行われていた竹の焼畑

竹の焼畑メモを更新しました。

重複しての引用を以下にひっぱります。
飯南町の志津見では竹の焼畑の証言が白石昭臣『竹の民俗誌』p.26にもある。

 …前略…三瓶山の東麓にわたる神戸川上流域の山村。近年、この地区内にダムができることにより集落の再編がみられるが、かつてはハンゲ(※1)までに田植えをすませると、組ごとに管理する山を焼く。無用山ともいう竹や笹を主とする雑木山を焼くもので、サンカ(山火)ともいっている。一戸あたり1.5町歩(約150a)を焼くという。

40年ほど前(昭和35年ごろ)までみられたもので、まず共同体で竹木を伐り、飛火を防ぐ道を切ってから、火入れをする。よく焼けるという。焼いたあとまだ灰の冷めやらぬうちにソバやカブを播く。2年目にクマゴ(アワ)、三年目にナタネなどを作る。そのあと放置し牛を放牧する。クマゴは1反(約10a)あたり6俵(約430リットル)の収穫をみたという。ソバもよくできていた。かつては麻も栽培していた地区であり、ここでも田の神サンバイは3月から山から田に、ハンゲがすむと麻畑に入り、山に行くという。

昭和35年頃までみられたということは、証言を集めることは今でもできる。

読み落としていてちょっと驚いたのは、焼畑4年目以降に牛を放牧するということ。この牛は肉牛だったのだろうけれど、詳細を知りたい。また、組で管理していた無用山という存在についても。入会地の呼び方として。なぜ「無用」としたのか。

*令和4年12月17日追記
昭和35年頃までみられたのである。これ聞いてみなくては!

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