死んだらどうなるの?#1

死んだらどうなるの?

子どもの質問。大人が言ってもいい。言わないだけで言いたくなるときもあるだろう。が、大人であるなら、めったに発することのない問いである。素朴にみえて暴力的。根源的な問い。問いではあるものの解答は存在しない。

暴力性は「死」というテーマ性ではなく、単純明快さを求める問いの形式にある。

テーマは、哲学でも、宗教でも、医学でも生物学でも法学でもない。

求められているのは、表現の見かけの素朴さとはおよそかけ離れたもの。求められているのは誠実さ、そして自らの責任をもってこたえるということだ。そう私は思い考える。

魂の永続性について

問をさまざまな仕方で換言してみよう。
ひとつめ。
死んだら「私」はどうなるの?

私を私たらしめているもの、これを自我と呼ぶにせよそうでないせよ、the self =自己同一性は、民族・文化を超えて共通してあるのだと、そこまではいえるのかな。

ウィキよりパーソナルアイデンティの項、J.ロックへの参照箇所を引用する。

According to Locke, personal identity (the self) “depends on consciousness, not on substance” nor on the soul. We are the same person to the extent that we are conscious of the past and future thoughts and actions in the same way as we are conscious of present thoughts and actions. If consciousness is this “thought” which “goes along with the substance […] which makes the same person”, then personal identity is only founded on the repeated act of consciousness: “This may show us wherein personal identity consists: not in the identity of substance, but […] in the identity of consciousness”. For example, one may claim to be a reincarnation of Plato, therefore having the same soul substance. However, one would be the same person as Plato only if one had the same consciousness of Plato’s thoughts and actions that he himself did. Therefore, self-identity is not based on the soul. One soul may have various personalities.

意識(conciousness)の特権化とでもいうものがここにはある。魂の意味もたとえば日本での一般通念とは異なる。

つづく…

一月四日、そういえば稗を食べていない

日がな一日、読んだり、整理したり、用意したり。
棚のファイルを整理するまでもなく、立直す程度に整えた際、大庭良美『家郷七十年』の複写ファイルが出てきた。ほんの十数ページぶんほどではある。用向きとしては食生活の項を中心に記録を集めていたときのことで、シコクビエの記載を探していた。石見部ではほぼみられないのだと、たしか、そう仮の結論を出していた。ただ、匹見では藩政時代に持ち込んだが、栽培には失敗したことが記録に残っている(町史記載)。日原町史にもみられない。それら渉猟の際、栽培雑穀について詳しいのはこの『家郷七十年』であって、残していたのだ。忘れていたのでこの際、列挙しておく。

雑穀について

・「粟はたくさんつくった。餅粟と只粟とあって只粟は飯に炊く」……精白に苦心した旨が記してあり、「粟ばかりではつるつるして搗いてもはげないから、米へ混ぜて搗いたり藁を切って入れて搗いたりした」とある。こういうところ、うまくいかないなりにやっていることだから、「そうそう、あのつるりとしたやつはなかなかむけないんだ。無理すると歩留まりがおそろしく悪くなる」という同情共感が湧き出る。と同時に、そうか藁なりをまぜるといいのかもしれないと思ったりもする。「糠が多く三通りくらいあって」というところはすぐにはわからない。二通りならわかる。糠というのも正確ではないだろうが。籾と糠と皮のようなものか。確かめておこう。

・「黍もつくった。これは水を入れて搗いたが七割くらいは残った」というこの黍はタカキビのことだと思う。いわゆる黍のことは「小黍」と言っているようだ。「餅にするには挽き割ってついたりするがそのままで餅にするとつぶれないのがあって荒しいが味はわりによい。焼いて食べると香ばしい」。この正月の餅は、餅米8割に対して、タカキビ1割5分、モチアワ5分で、「タカキビ餅」をついたのだが、昨年と比べて挽き割りの量が少なく、かなりつぶれないのがあって、少しばかり食しがたい感じがあった。

・(粟で)主に作ったのは、赤粟と猫の手。猫の手は人足だましといって米の餅とまちがえたという。赤粟は早生でそのあとへそばをまいた。

・「左鐙や須川谷の方では稗を作っていた。稗はがしの飯米といって四〇年にもなる稗を俵へ入れて軒へあげて貯蔵している家があった」「鬼稗と坊主稗というのがあった」…興味深いのは、粉にして食していたことだろうか。粒食ではない。「稗は粉に挽いて篩って、水に入れて小さなからを浮かせる。他の物は粉を水に入れると浮くが稗は粉が沈む。飯にも炊いたが粉にして入れるので、はじめから入れると焦げるから煮え立ってから振る」

そうなのだ。稗を入れたパックが整理のときに出てきて、あぁ、これどうしようかと。挽いて粉にして食べてみようか。『家郷七十年』には、鬼稗はひげが多いからイノシシが食わないとあるが、どうなのだろう。少なくとも佐白の焼畑では、穀物でイノシシにやられたのはタカキビのみ。粟の鳥害のほうがおそろしいのだが。稗がうまく調製できて食せるのであれば、稗の栽培をふやしてみたいものだが。

家の神について

「どこの家でも床の間と神棚に神さまを祀っている。わたしの家では床の間に祀ってあるのは八幡宮と大元さまらしい。すなわち氏神様と鎮守である。神棚に祀ってあるのは大神宮と金毘羅さまと水神さまとお竈さまのようにきいている。大社もあったかもしれない」

大庭氏は明治42年生まれ。この書が刊行されたのは1985年。いま、大庭家の神棚がどうなっているかはわからないが、つい3日ほど前、年始の新年会に訪問したお宅で、何年もそのままになって黒くなった神棚の榊を思い出したのだ。あのとき、いやな気がしなかったのはなぜだろうと、その気持ちをといてみたいと思う気がこの文章にはある。

「大体朔日十五日に榊をあげ、お神酒をあげることになっていたが、近頃は正月とか節分、節句、祭りといった時にあげるほかは、何か思いついた時にあげるくらいで、はなはだ失礼なことをしている」

そう。ワタシとてそうであってというにはあまりに粗略であるのだが、そうか、朔日十五日に水をかえるくらいのことは、ことしはと、そう思った。

お日待ちについても、端的にまとめられていてその本質がわかりやすい。

「年に一回、年のはじめ頃にお日待ちをする。家に祀ってある神さまのお祭りである。それでこの日は宅神祭などといっているが本来お日待ちである」。そう年取りカブの山田さんが「あれはなんと言ったっけ」と言葉を探しておられたが、また違う名称もあったのかもしれない。

お日待ちでは家の中の神を祭り、(家の中とも外ともいえないが、場としては多く外にある)荒神を祀るのであるが、分家した家の家族も呼ばれるもののようだ。「むかしはお日待ちには神主は夕方にきて、夜どおしお祭りをして夜の明けるのを待つのであった。それでお日待ちというのである」という古態の記憶が語られている。

日=太陽として、日の出を待つからお日待ちと呼んだという呼称の由来が果たしてそうであったかどうかはわからない。確かなのは、大庭氏あるいは家郷のものたちがそう信じていたこと、その時空へもう少し歩をつめてみたい。推し量るにふたつある。ひとつ。「家の神」のことはよくわからなくなっている。お日待ちについてもそうであるし、ほかの祭事についてもそうなのだが、そのなかで夜を徹して行うことが守られ続けてきたのがお日待ちである。ひとつ。宅神祭とも言われたとおり、「家の神」をまつるものであるが、そこに集う人らは家族であり分家の一同であること、荒神の祭りに軸がおかれている様から祖先祭祀との結びつきがつよいこと、また正月の頃に行われることから、「年取り」の「年」に含まれる何かがここでは大きかったのではないか。

小学館の国語大辞典では、お日待をこう辞している。

《集落の者が集まって信仰的な集会を開き、一夜を眠らないで籠り明かすこと。「まち」は「まつり(祭)」と同語源であるが、のちに「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意にした。期日は正月の例が多い。転じて、単に仲間の飲食する機会をいうところがあり、休日の意とするところもある。》

『家郷七十年』では、集会にも講にも日待ちという語をあててはいなかったはずだから(のちほど確認。この際購入しようか)、日原という地の履歴もあわせてみればよりことの元に近づけるかもしれない。また、国語大辞典の「待ち」が「祭り」から転化したものであるとの釈は少々短絡であろう。桜井徳太郎が執筆している国史大辞典の「日待ち」の項はこう解している。他の事典と比してももっとも要を得ていると思うので、全文をあげる。

《集落の人々や一族があらかじめ定めた宿(やど)に集まり、前の夜から忌み籠りをしながら日の出を待つ民俗行事。マチは神の降臨を迎える信仰表出の一形態を示す語で、月待・庚申待・子(ね)待など、その用例は多い。神社の例祭をお日待と称する所が少なくないので、マツリの転訛とする説(『桂林漫録』)もあるが、定かでない。その起源は、天照大神の天岩屋の故事に由縁するとしたり、嵯峨天皇のとき天照大神の神託をうけて卜部氏の祖が始めた(『古今神学類編』)などと説くけれど、いずれも確証はない。この種の待行事は、庚申待が『入唐求法巡礼行記』に記載されるところから、中国道教の伝来によって起ったとされる。しかし古風を守る神社や民間の日待講に、精進潔斎して夜を明かし、太陽の来迎を仰いで解散する方式を執っているのをうかがうと、古代の祭式の面影を目のあたりにみる思いがする。日待に宴遊や娯楽、賭けごとが盛んになったのは後世の変化である。》

令和元年、年取りのタカキビ餅とタカキビと

昨年同様の塩梅でタカキビ餅をついた。昨年のほうが美味しかったという印象を持っている。硬い粒が残っているのと風味がいまひとつ。主に3つの要因があると思う。

1. 昨年よりもしっかり熟したものを使っていること
2. その割には水につける期間が短かったこと
3. ひき割りにした量がかなり少なかったこと

それから、昨年は入れていないモチアワを1合〜2合ぶんほどではあるが入れている。しかも半分弱は薄皮をかぶったままのものであって、あるいはこれが風味を損ねたかもしれない。

来年への引き継ぎ事項としては、水につける期間を長めにとることと、ひき割りの量をふやすこと、そして挽き割る際に出た粉も追加して加えること。

昨年、仕込みのときに感じた「この感じ」は忘れてしまっていた。そう、すりこぎでは埒が明かないとみて、家庭用精米機で殻をとっていたのだ、このときは。

年取りのタカキビ餅

タカキビ餅の仕込み〜平成30年12月

ルソーと音楽と社会

主よその憐れみもて我が罪を拭い去り給え BWV1083

https://youtu.be/DXeBdDc8jsg

ペルゴレージの楽曲「スターバト・マーテルStabat mater」から編曲されたJ.S.バッハのモテット「主よその憐れみもて我が罪を拭い去り給え」BWV1083。
深夜まで聴きながら、J.J.ルソーを想う。
それはまた、北欧のみまわり小人トムティと日本のトシガミをつなぐ道を想像することでもある。
お互いに分け隔てられ、ひとりでいる状態を、人間の”自然”として位置づけたルソーの「ワタシ」から、大晦日の夜にトシをもらっていた日本の「ワタシ」へ至る道を、あるのかないのかわからないままに、ここなんじゃないかと進みはじめた夜の曲として。

本の記録〜2019年11月20日

県立図書館

†. 1 高取正男,昭和47『民俗のこころ』(朝日新聞社
†. 2 阿部謹也,1995『「世間」とは何か』(講談社現代新書
†. 3 香月洋一郎,2002『記憶すること・記録すること―聞き書き論ノート』(吉川弘文館

出雲市立中央図書館

†. 4 レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(2018訳;奥野克巳,近藤祉秋,古川不可/亜紀書房
†. 5 小川真, 『「マツタケ」の生物学・補訂版』(1978初版,1991補訂版/築地書館
†. 6 木嶋利男,『伝承農法を活かす家庭菜園の科学―自然のしくみを利用した栽培術』(講談社ブルーバックス
†. 7 角田公正ほか,1998『栽培環境入門』(実教出版
†. 8 木嶋シャルル・フレジェ,2013『WILDER MANN 欧州の獣人ー仮装する原始の名残』(青幻社)

†. 1は再読。繰り返し読みこむものとして。
第4章神をみる場所から「食器に結びつけられる霊的関係」をみてみる。

《私たちは古くから、食器とか食糧分配の用具には、異常といってよいほどの関心と執着心を示してきた。「固めの盃」といった言葉があるとおり、人間の信頼関係は、酒盃の献酬の習慣に代表されるように、食器を共用し、同席しておなじものを食べることで確認されてきた。このことは、家族員がめいめい個人用の食器を持ち、たがいにそれを尊重しあうことで所持者の「ワタクシ」を確認しあってきた習俗と、対応関係にある。》

 富の分配は社会的関係に基づいたルールに基づいて執行される。ルールが順調に機能している限り、霊とのかかわりは薄いように、今の私たちは思ってしまう。そこ、どうだろうか。引用した高取の記述中にも、霊性の出番はないかのようだ。

暦日雑想

(下書き中にて支離滅裂な点、多々あり、御免)
数日前のこと。年末の餅つきを一緒にする会の、打ち合わせの席でした。
冒頭、世話役の方から、今年は12月28日でいかがでしょうか、土曜日ではあるのですが、との発言。みなさん異論なく、しばし沈黙の後、それぞれに都合の摺合せや、餅米は何升用意するのかやら、わやわやと場は賑わったのですが、28日となったワケが興味深かった。
「29日はついちゃいけない日ということなので(29日の日曜日がみなさん都合がつけやすいのでしょうけれど)

そうだったかもしれないな、と思うと同時に、これ、迷信ではなくどこまで現在進行形の禁忌なのだろうかと思ったわけで、問題意識の備忘を含めて少し記しておくことにしました。
備忘…29日につく場所や家はあるのか。とりわけ加工場はこの日つくのかいなか。

まず、いくつかの脇道から。

聖性をおびた道具としての杵と臼

その席にいたほとんどの家には柿の木があります。つまりは、およそ8割が農家か元農家なのですが、いまでも、年末に家庭単位で餅をついている家はありませんでした。餅つき機はあるが、おばあちゃんがしなくなってからは買っているなどの理由によるものです。少なくとも杵と臼はどこかにしまってあるがはてどこだろうかという案配かすでに廃棄されたかであって、しばらく使われたことはないようです。
杵と臼について機会があればあちこちで改めて聞いてみたいこと。残っているのか捨てたのか。廃棄するとなるとそれなりにやっかいなものだということと、神聖な道具でもあり、そう簡単にゴミにはできないものだろうと思うからです。
飯島吉晴平凡社,世界大百科事典の臼の項でこうまとめています。

《臼はくぼみをもち,食物調製具として穀霊とも深い関係があるため,神霊を宿し生み出す道具として神聖視されてきた。新築の際には臼を最初に家に入れ,火災の時にはまずはじめに持ち出すこととされ,古臼の処分には近隣7軒に分けてたいてもらったり,石臼の破片は屋根に投げ上げて火事除けとした。年末には〈臼寝せ〉といって,臼に餅を入れて箕で覆っておき,正月の仕事始めにその臼の箕を取り除き杵で軽くたたいて〈臼起し〉を行う所もある。小正月には石臼に餅花の木を結わいつけたり,8月の十五夜には臼に箕をのせて供物を供えるなど神の祭壇とされ,また神のお旅所を選定するのに臼を川に流して決めるなど,卜占にも用いられた。農神は餅搗きの臼の音で春秋に去来するといわれ,ふだん空臼を搗くことは忌まれている。臼は年神や田の神の神座のほか,神輿の休息台にもされ,また人生儀礼にも多く登場する。初宮参りの帰りに生児を臼に入れて搗くまねをしたり,また難産の際には産婦に臼を抱かせたり,夫が臼を背負って家の周囲を3回まわったりする風もみられた。穀物が臼で食物に調製されるように,生児が社会的に誕生したり,子どもがこの世に生まれる上でも,臼は象徴的に同じ役割を果たすのである。》

餅つき機につかせることでも餅つきと呼ぶ私たちのなかには、杵と臼でつく餅つきのイメージと記憶がたしかにあります。いつの時代か後世、杵と臼での餅つきも遠いものとなっていくのかもしれませんが、餅つきという言葉そのものはしばらく消えることはありますまい。そして、令和元年の私たちの共通了解としての杵は、横杵です。が、将来残存するとしたら儀礼で多く用いられる縦杵を使ったものではなかろうか。横杵とはなにか。

《竪というのは、丸太の中ほどを手で握れるくらいの太さに削り、ここを持って上下に動かして臼の中のものを搗く。この型のは銅鐸に描かれたり、奈良県唐古(からこ)遺跡、静岡県登呂遺跡からも出土しており、横より古いものである。竪は、のちに横にかわり、使用が少なくなったが、みそ豆搗きや焼米搗き、餅の搗き始めには、最近まで丸棒状の竪が使われた。》(小学館,日本大百科事典:小川直之

  臼と杵から聖性が次第に薄れていく過程で、竪杵から横杵への転換が起こったのではないかと想像します。ここには複数の流れがあるのです。変化というものは、つねに複数の力動から、あるベクトルが生じるときに、流れとして方向性をもつものです。

さて。

大雑把には、それが便利だからとか忙しいからだとかいう理由がこうした変化には添えられるものでしょうが、渦中にある身としては、いやそれは第一の理由ではないだろうと、最近とくに強く思います。あるいは、効率性は単一の要因として変化を生じさせるものではありえない、とも。

結論めいたものを言ってみれば、これは、一人ひとりの内的感覚の変化なのです。味覚嗜好の変化であり、時の感覚の変化。
一人ひとりにその理由を問えば、こうした理由は出てきません。
なぜならそれは「個人」の感覚からくるものだから。
そうしたものは理由理屈をもって語られる言葉には出てこないのです。
しいて出るとしたら、「そのほうがうまいから」という理由です。
はで干し米をつくりつづけて、今年からはやめたという人から聞いたことがあります。「じいさんが、頼むから家で食べるぶんははで干しでと言われてきたが、もう勘弁してくれと、納得してもらった」と、そういうのです。あわせて「(自家用の)野菜もたくさんつくっているが、家を出た息子夫婦たちもよう受け取らん。つくる時間がないそうだ」。
スーパーは惣菜売り場が充実しているほうへ人は流れ、冷凍食品はスーパーよりもドラッグストアで買う時代であり、外食産業はそのほとんどがセントラルキッチンでつくられたものを使っているような時代。
なにが変わったのでしょう。
便利だから?
時間がないから?
いや、それは違うのではなかろうかと思うのです。

さて、下の写真は2017年12月30日に、とある農家へ伺っての餅つき風景。

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ついた餅を大根をおろした汁につけていただきました。なぜ大根なのかとたずねたところ、特に由来があるわけでもないとおっしゃいましたが、昔からこうしてきたものだと。大根に含まれるジアスターゼなどの酵素の働きで消化が促進されることをもって、理にかなった習いだといえましょうが、それだけではないように思いました。
さて、このような機会は地方山間部においてもまれになったとはいえ、残っている家には自然な形で残っているものです。

閑話休題
話は、年末の餅つきの日取りのことです。
「29日はついちゃいけない日ということなので」というやつ。

まず基本的なことから。

忌み日について

〜〜してはいけないという日がいくつかあり、民俗学あるいは今は使わない語彙ではあるが総じて「忌み日(いみび、きのひ、ことのひ)」と称されます。簡潔な整理としては、消失してしまった祭礼の残滓的形態。祭礼を構成する多種の要素が抜け落ち、あるいは変容する長いときの流れのなかで、祭礼そのものがなくなった後にまで残ったもの、それが忌み日という捉え方です。
祭礼の前段において、精進潔斎する間をもって忌み日となっており、それは原形(古態)においては、数日にわたるものでした。食べてはならないもの、行ってはならない場所、そうした「してはならないこと」、すなわち禁止事項はむしろ付随することがらであって、たとえば、一番鶏がなく前までに誰にもみられることなく、海につかり身を洗うこと30日、というような「すべきこと」が定まっていました。多く神をまつる日であるのですが、餅つきについていえば、神を迎える準備のひとつとして供物を整えることがあります。餅はそのひとつであったのでしょうが、餅をつく前に、そこに携わる人は身を清めのぞんだのであれば、忌み日はついてはいけないというよりはつく準備をする日(期間)としてあったものでしょう。

特定の暦日が忌み日となること
時間とはなにか。掘り下げればおそろしい問ではあるのにもかかわらず、安易に時計のことだといってみることもできる。だが、時間は時計がかかわるものであって、時間そのものではないだろうとは、これまた安易には思う。
さて、時計は時間ではなく時刻をあらわすもののひとつである。同じことは、暦(こよみ)とカレンダーにもいえる。カレンダーは暦をあらわすひとつのものである。

……長くなったので、つづきはまた。

本の記録〜2019年9月14日

県立図書館にて借りる。
†1. 宮田登ほか 『日本民俗文化大系第9巻 暦と祭事―日本人の季節感覚』(昭和59,小学館)
†2. 高取正男,昭和47『民俗のこころ』(朝日新聞社)
†3. 藤木久志,2008『戦う村の民俗を行く』(朝日新聞出版)
†4. 赤江達也,2017『矢内原忠雄ー戦争と知識人の運命』(岩波新書)
†5. 塚本学,福田アジオ編,平成5『日本歴史民俗論集第4巻 村の生活文化』(吉川弘文館)
†6. 山折哲雄,宮田登編,平成6『日本歴史民俗論集第8巻 漂白の民俗文化』(吉川弘文館)

†2.†4.をのぞき、すべて年取りカブの参考文献として。

正月とカブ

正月にカブを供する儀礼といえば、七草粥があるのだが、その起源をたどろうとすると、途端に錯綜した渦に翻弄されることになる。

まあ、いろいろとね、諸説あるんだけどね、と言いたく(まとめたく)なるのをこらえつつ、あらためてとらえてみようと思ったときに、『丹波の話』に出てくる「若菜迎え」が鍵になるのではと直感したことが、この書を取り寄せるきっかけである。

磯貝勇『丹波の話』、昭和31年刊行。

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読んだことはなかったが、その名は何度も見ていた。小学館の国語大辞典、そして方言大辞典の項に「若菜迎え」があるのだが、そこに典拠として、丹波・丹後のいくつかの文献、そして島根県方言辞典とが並びあげられている。「若菜迎え」自体は、丹後、山陰以外の地にもあったのだろうとは思う。が、もしかしたら、このふたつの地域にのみ、伝わってきたものなのかもしれない。
ともあれ、失われた習俗として、若菜迎えの姿をとらえていくための入口が、この『丹波の話』なのである。

さて、この書は6つの章からなるが、若菜迎えが出てくるのは「由良川風土記」においてのみであり、その記述もきわめて少ない。

地域は由良川上流部の何鹿郡(いかるがぐん)、船井郡天田郡といった郡部と綾部市であり、現在ほとんど綾部市内に入っている。

1950(昭和25)年の筆記である「正月の行事など」という一節は、「正月にまつられる神様は、由良川沿いの村里でもトシトクサン、あるいはオトシサンなどと呼ばれている」という一文からはじまる。穀物の霊、農耕神の性格をもつ神であることは一般に知られていることだがとして、その特徴がはっきりあらわれているものとして、まつる”場”について一見とりとめもなくあげている。私のほうで整理しなおした箇条書きを以下に記す。

1. 俵の上にまつる(綾部市和木)

2. 一升枡、斗升、升掛など枡を司る神様で枡にまつるものだといっている(綾部市星原)

3. 歳徳神の軸を床にかけ、その前に種モミの俵をおいて祭る(天田郡川合村)

4. 米俵の上に松をさし、ヘヤの中で祭る。松は三段五段のもので松かさの多いものを選ぶ(船井郡和知地方)

◆追記1

七草粥に供される七つの草とはなにか。現代においては、口承も習俗もほぼなくなりながら、買い求め食するものとしてむしろ根強く残る正月の行事として存在感をむしろましている感すらある。そのせいか依拠するところ、三次的孫引き的テキスト、単純複製されたテキストによって七草の種類が定まっているように思う。つまりは全国共通した種類となっているということ。そのルーツを求めていけば、『河海抄(かかいしょう)室町時代初期に成立した『源氏物語』の注釈書にたどりつく。

(せり) なづな 御行(おぎょう) はくべら 仏座ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七種

まとめとして、以下が簡便ゆえ参照のこと。

ja.wikipedia.org

www.benricho.org

chusan.info

上記「七草の歌・作者はだれ?」にはこうある。

《和歌を中心とする文化も貴族階級のものになってしまって、萬葉集のころの庶民性は失われ、題材も花鳥風月や恋愛に型が決まり、野菜などの食べ物を描写するのは卑しめられたようです。そのせいか、このころに書かれた竹取物語伊勢物語には野菜はひとつも登場しません。

しかしこの時代でも、若菜だけはめでたいものとして歌に詠まれ物語に現われます。若菜はお正月だけではなく、四十歳からの長寿の祝などにも「若菜まゐる」という祝賀行事が行われました。

この行事の記述はいくつもの古典文学に見られます。源氏物語の「若菜」上下巻はその代表でしょう。でもこの大和物語のお話はそんなお祝い事ではありません》

若菜まゐるとは?

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2074/1/0050_014_001.pdf

中秋節に火を入れて

今日は仲秋節。月に願いを。地には平和を。…というわけで焼畑の近況をば。
・今日のお昼すぎに、昨年春に残った竹積み箇所を焼きました。カブを蒔く予定。
・春焼き地のホンリー、アワ、ツル小豆等混植区はそれぞれ色づいてきました。収穫準備。鳥たちも虎視眈々と狙っているようですが、ホンリーのカラフルな色が迷彩のように効果を発揮しますかどうか。
・大豆はまあまあの出来具合。枝豆が楽しみです。
陸稲はようやく出穂。実が入ってくれるかな。
・ナスはわずかですが、ぼちぼちとっています。
・トマトは収穫に入ってます(加工食向きですが、生でも甘み酸味ともにいい感じ)。量は少ないですが、美味。
・サツマイモは茎とって喰うべし。猪に先を越される前に、と思っていますがどうなりますか。

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9月8日の草刈り雑感

この日の最高気温は35℃ほど。日差しの強さは8月のそれと比べればやわらかで、また時折雲がさえぎることもあり、「やってできなくはないか」と、草刈りをはじめたのでした。
はじめて数十分で、汗の流れが尋常でないことに気づきます。なぜだろう。体調の問題なのか。いつもより休みの頻度も長さもとって、水分補給もこまめにしたものの、消耗ははげしく、2時間弱で切り上げることになりました。刈った場所はここと、2年畑を少々。

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写真中ほどに残っているクズのからんだ竹は、このあと、ばっさりと切り倒しています。
さて、作物の様子です。 ホンリーは穂が鮮やかに色づいてきました。

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オカボはいまだ出穂みられず。菜園畑ではではじめているので、来週にはみられると思います。出穂から収穫まで60日として、11月上旬の刈り入れかあと。

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トマトはようやく勢いづいてきました。実は小さくとも真っ赤になるほどに熟したものだと酸味がしっかりあって、加工食用として「使える」ものになってます。

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タカキビは10月初旬から収穫できるかなあと。柵を補修しておかねば。

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