奥出雲の小さな山村は、水を蓄え、資源を育み、食やエネルギーをまちへ送る役を果たしてきた。山村とまちとの連なりが、都市を育み、世界と繋がり、今日の生活経済文化圏がある。
村を破らず川を荒らさず山を荒らさず真の文明を築き上げてきた先人の労苦には万感横溢するを禁じ得ない。
しかるにここ数十年来、圏域をめぐる循環を生み出す源流、山村における森の荒廃と産業の凋落には底が見えない。人的資本は減耗の一方である。
くわえて現在、地域固有の在来作物や採集草木利用ならびにそれと連なる民俗文化はまさに消滅しようとしている。
しかし……。
生命現象における死は再生と同じ地平にある。より存在する為に複雑多様化しつつ、時にはそれを捨てる。私たちは、ひとつの文明の滅びのなかから、創出の道を歩もうと思う。森は、殺したり殺されたり食べたり食べられたりしながら、複雑精妙な共存共生の場をつくる力をもっている。人は、牛を飼い畑をつくることを通して森の生命場とつながってきたのだ。
世界が向かう先は闇ではあるが、この森に集うひとりひとりが、小さくとも強く、暖かな灯りとなって、美しい野山と人の世界をつくりだす希望となろう。
投稿者: omojiro
焼畑の終わりと始まり
日本における焼畑は稲作以前、縄文時代から行われていた可能性が唱えられてきた。空間的にも北海道から八重山諸島にまで広がっている。その形態や特質は多くの変貌を時間的にも空間的にもとげながら、野山に火をいれるというその一点は近代まで連綿と続けられてきたことに間違いはない。
少なくとも数千年におよぶ焼畑という営みも、昭和三十年代に入り急速に衰退し、確実に終焉を迎えたと、野本寛一は言う。現在の80代世代が、その最期を見届けたことになり、私たちにその探求の道は閉ざされた。
一方で、平成も終わろうとするこの時代に、焼畑の火は消えそうで消えず、もはや歴史の進みの淀みとはいえないだろう。むしろ、数千年のときをへて、やっと、私たちは焼畑の真実にたどりつけるのかもしれない。黄昏に飛び立つミネルヴァの梟をとらえるがごとく。
繰り返し同じようなことを言う。焼畑のイメージはつねに焼畑そのものから遠ざかろうとする。裏切り、間違い、幻像。「灰が肥料になるのですか」「究極の循環農法ですね」「環境破壊では」……すべてイエスでありノーである。
奥出雲・佐白の地で「焼畑」を試行して三年。焼畑は農法や伝統や文化というよりは、生命現象に近いなにかであると予感する。
焼畑は通常、Slash and burnで通用するが、Shifting cultivationも捨てがたい通念だ。むしろ「移動」することが「焼く」ことよりも本質をついているだろう。通説では、焼畑が場所を移動=Shiftingするのは、地力の衰えあるいは除草の手間が増大するためだとされる。が、本当にそうなのだろうか。
別な言い方をしてみよう。焼畑が移動をその核にすえるのは、管理から逃れるためであり、定住と集団の大規模化に抗するためであると。anti-cultivation、すなわち反文化としての焼畑。
山の利用をめぐって、明治政府はまず自由放牧を、つぎに焼畑をしめだした。間接的にではあるが。抑圧する側としては、制御したいのであって、抑圧そのものが目的ではない。
反文化は、文化に抗するわけだが、それは文化の側からの視点であることをことわっておく。
野山に管理を徹底することで、結果としてなにが起こったのか。国は富を拡大できただろうか。人は豊かさを享受できただろうか。幼子を飢えや病気でなくす悲しみを総体として減らすことができただろうか。これもイエスでありノーである。
「森が荒れ」「鳥がいなくなり」「山にはもう入れない」と土地の老人たちはいう。
嘆きだろうか。いやそうではない。これは託されているのだ、まだ動ける私たちに。
もうやらなくてもいいのだと。
だが、やるなではなく、やってもいいというメッセージがそこにはある。
やるなら覚悟をもっておやりなさいよ。そうやさしくはいわないだけであって。
そう勝手に受け取って、私たちははじめたのだ。
荒れた森を切り開き、火を入れ、畑をつくる。花が咲き、虫が集まり、鳥が少しずつふえ、荒地のキク科雑草の繁茂も二年目でずいぶんとおさまり、見ることのなかったスミレや柔らかな草、眠っていたチャノキが背をのばしはじめている。新しい森が成熟するにつれて、これらの生命はまた次第に消えていくだろう。
作物の種はあつくまき、その多くは死に、生き残りもどんどん間引いていく。それでもできたりできなかったりする。
まあ、なんとかつくりたいという一心なのだが、生と死が等価であるような生命の流れに同化することでなんとか私も生きたいと願う。
セーター、その始原性とダーニング
NHKのEテレとBSプレミアムで放映されている「美の壺」。その<File:435>なる回のテーマが「セーター」だというので、観た。
気仙沼では手編みのセーターが、伝統文化としてあった。はじめて知った。セーターといえば、明治から入ってきた洋文化だと思うだろうが、伝統を形づくる時は100年もあれば十分なのだ。それが人の暮らしに根ざしているかどうかなのだ。私たちは古くさかのぼれば、長く続いたものであれば、伝統としてありがたく頂戴しがちだ。そこではないのだ。織物・服飾に限らない、建築や技芸、食文化、どんなものであれ、人が編み出し共有していくものの育み方、そのヘリテージが伝統というものなのだと、認識を新たにした。
番組では気仙沼ニッティングが紹介されていたが、ほかにも気仙沼で編み物を扱うところがいくつがたちあがっている。
こちらの論文※1などからもわかるのだが、編み物は「階級」や年齢、職業を問わず、田舎でも都会でも人々の間に浸透していったようだ。
経済的、すなわち材料が低廉で供給されたことと、道具が少なく特別な技術を要しないこと、このふたつが初期からそなわっていたのだ。いや、隠れたもうひとつの条件があるだろうが、これはいまは深くはおわない。が、ひとつだけ。
家族の衣類は自分の家でつくるものだという理念のようなものがあったのだということだろうと思う。
つくろうことができるということがうえの3つともかかわる。番組の〆もそこにおいていた。
ほどいた毛糸で編み直すこと。
そして、ダーニング(これ、はじめて知った)。
衣服っておもしろいなあと思うことができた。
と、同時に。本の編集を見直す観点を与えてくれそうだ。
このあたり、もう少しほってみたいが、また次の機会に。
そして、もうひとつ。この本を読むこと。
「編む」は「織る」よりも、その起源を古層にまでたどれるものなのだ。
滝沢 秀一『編布(あんぎん)の発見―織物以前の衣料』を読みたくなった。
※1 森理恵,櫻井あゆみ,2012「近代日本における編物の変遷の一側面―明治後期から昭和前期の編物書 24 点の分析を通して」(日本家政学会誌 Vol. 63 No. 5 225 ~ 236)
タカキビ餅のぜんざい
うまし。
タカキビ餅と名乗っているものの、原料の8割5分ほどは餅米である。若干のモチアワも含まれている。1割2分ほどだろうかタカキビの入っている割合は。されど、しっかりとタカキビらしい味わいというか野性味というか深みというかそんなものがある。
タカキビは今年の焼畑で収穫したもの。ミキサーで軽く挽き割って使っているが、粒のままのものが6〜7割はあるだろう。つきたてのときはほんのり紅がさしたようなきれいな色を出していた。
タカキビ10割でつくのであれば、粉状にまで挽き割って、搗くといううよりはこねるのではなかろうか。以前、つくりかたは記したので繰り返しになるが、タカキビは水にひたすこと1週間、水は最初は毎日かえるのがよい。温度があがりすぎると腐敗するので、冬期なら土間など冷えたところに静置すること。
さて、小豆である。
これは、自然栽培の小豆なのだ。
じつは小豆を作らないかという話があって、種子もくれるし、栽培法も指導してくれるのだと。虫がつきやすいので駆除するための農薬はいろいろあるらしい。
新しく土地を借りるのであれば、まずは雑穀でならして、土のバランスがとれたところで豆類だろうなあと考える。放棄地であっても火はいれてスタートしたい。小さな納屋がそばにあればなおよし。竹がはびこってしまった山もあるとよい。
そんなことを、食べながら考えていたのだった。
「山をする」牛
◉「山をする」
「放牧することをわが地方では『山をする』といいました」
佐藤忠吉は『自主独立農民という仕事』(森まゆみ著・バジリコ刊)のなかでそういう。昔というのがいつのころからなのかはわからない。皇国地誌に残る牛馬の頭数や昭和30年代まではいくばくかの古態を残していたであろう民俗の記録などから、少なくとも江戸時代中期からの姿であるならば大変おぼろなものではあるが想定はできる。つい60年ほど前まで、「山をする」という言葉は生きていた。
また区域を出雲にとどまらず同類の地勢や集落形態、経済圏ともいえる鳥取県・岡山県・広島県の中国山地地帯にひろげれば、奈良時代からつづく牛馬放牧地帯であることは確かである。日本における牛馬を飼養した起源については考古学的知見がわずかにあるばかりであり、定説らしきものも不確かなようである。
そもそもが、これ、牛馬放牧に対する国民的「無関心」に起因するようだ。稲作の起源、あるいは縄文・弥生の土器などわかりやすい形のみえるものについては、その時代を証するごく一部の断片であるのにもかかわらず、その断片から全体像をむやみに描こうとするがゆえのゆがみがあるように、このごろ思えてならない。
同じ轍をふむことをおそれつつ、わからなくなった「牛をする」ことについて、想起をめぐらしてみよう。
牛を山に放つことは、私たちがイメージする放牧とは違うなにかであったことは、言葉そのものからもうかがえる。
私たちの頭は、牛を飼うことを、目的別にわけて分類して事足りることに、あまりにもなれすぎてしまった。
牛乳(生乳)生産のための乳牛。肉にするための肉牛。このふたつのいずれかであって、古来日本の和牛は食用ではなく乳をしぼることもなかったがゆえに「役牛」と一括されていることにもよくあらわれている。
死んだ牛はすべてではないにせよ、肉として食されていた。建前として禁じられていたがために記録に残っていないだけである。また乳を飲むこともあったらしいが、基本は小牛のためのものであった。あたりまえといえばあたりまえだが。
そして、つい数十年あるいは現在でも牛を飼う家々のその「目的」を私たちは忘れている。いわゆるペットである。とりわけ江戸時代後期から昭和の戦後まもなくのころまでにおいて、ここ奥出雲をはじめ、鳥取、岡山、広島の山間部において牛の放牧頭数は全国屈指のものであった。しかもどの農家も一頭から数頭までの小規模でありながら、共有山野での放牧や平地への貸出(鞍下牛とこの地方では呼んでいた)といったリースもあれば、権利のやりとり、保険・金融機能との融合、市場取引などの重層的利用もからんだ、文字通りの資本財(cattle〜capital)であったのだが。。。
だが。個々の家々の動機は、使役とともに糞の堆肥利用という合理的目的はあったにしても、女性や子供の「愛玩動物」としての価値と効果を低く見積もりすぎてはいなかったろうか。
民俗資料ではない、老人倶楽部がまとめた「言い伝え」のような文集のなかにあらわれる、牛を飼っていたときの綴りには、牛といかに情を交わしていたか、その気持がにじみでているのだ。鞍下に出すときには、からだをきれいにふき、藁をあんだ沓をはかせ、前の日からごちそう(おからや大豆をしぼった呉汁)をとらせ、見えなくなるまで手をふって見送る。
帰ってきたら必ず痩せていてかわいそうだったというその心はやはりこの国ならではのものであったことだろう。
少なくとも多頭飼育をし、肉を食べる国の牛飼いの話を伝えきくに、情が移らないような飼い方をするのだという。裏をかえせば、日本においては情が移ってもよいとしていたしその利点のほうをたかくみていた可能性は高い。
寡頭飼育であるがゆえの必然でもあろうが、「山をする」といったときのような、他のあり方とのインタラクションのよさがあったのではなかろうか。具体的にはまだみえない。
生ける神としての荒神
神は死んだ
そう叫ぶものがいた
私たちはそれをいくどか耳にした
二千年前に
五百年前に
百五十年前に
つい五十年ほど前に
神は死んだ
そうささやくものがいた
私たちはそのささやきを耳にする
森神をまつる大きな木の下で
稲穂たなびく平原のただなかで
道をつくり川の流れを変えるその橋のたもとで
ふたりの男がいた
ひとりはこういった
あたりまえのことではないか
死んだのでなければ、もともとなかったのだ
神がいるのならば、神がいたというのならば、教えてほしい
もうひとりの男はこういった
なにをばかなことをいうのか
神は死んだのではない、立ち去ったのだ
もう一度神の声を聞きたい
神が今どこにいるのか教えてほしい
職場のお茶の時間に、こんな話を聞いた。
「立原といえば、道の真ん中に大きな木があるよね」
「あぁ、あれ。道がふたつにわかれているところ。夏にはよく木陰で休んでいるよ。風も通って気持いいんだろうね。ベンチもあって。小さな憩いの場にもなっているけど、不思議だよね」
「あぁ。あの木はね。切るとたたるといって、誰もさわれないんよ。地元の人も業者の人も。だから、役場の人も枝を切るのを頼むのは、遠くから呼んできて切るらしいよ」
「それ聞いたことある。あらがみさん?」
「昔、道路の計画で切ろうとしたら、その人が亡くなって。それ以来だれも切らないしどかせないから、道の真ん中にあるままなんだって」
「子どもが、頭ぶつけたり、怪我したりが続くと、まさかあんたあの木にいたずらしたりしとらんかねって、いまでも言うよ〜」
「お祭りの日も決まってるって聞いたよ。いつも掃除してきれいにしておられるし。〇〇と〇〇を供えるんだっけ」
まさか、である。
職場をお昼であがり、いてもたってもいられず、場所を確かめ、カメラを手にして行こうとしたそのとき、急にみぞれが降り始めた。はやる気持をおさえる。今日はもう少し周辺をおさえてみよう。地図を年代順に丹念にみなおし、古地図のデータベースから古道との照合をはかってみたり。立原は通ったことすらない地域である。旧加茂町と旧大東町の町境でもある。
立原(たちばら)は応仁の乱の頃には、所領として文書に表れている。立原氏に由来すると地名辞典の類にあるが、たちばらの地名が先行し、在地の武力団の長が名乗ったものだろうと、推する。
件の荒神が宿る木は、グーグルでみるとマテバシイのようにみえるが、タブノキにも見えなくはない。常緑広葉樹であることは確かで、1970年代の航空写真をみるといまよりも少し小さな樹影がみえる。それほど古い木ではなさそうだ。
そして、この木は立原の地とは川をはさんで東岸にある。旧養賀村との境界域である。
川を渡す橋のたもとでもある。
橋は昭和9年の地図にはみえる。
江戸時代にはどうであったかというと、板橋のようなものはあったかもしれない。が、宝永7年・元禄の出雲国絵図からはうかがいしれない。
南に里山、北に水田が開ける地。
奈良時代から一帯の開拓がすすんでいたことは、郡家の推定地である仁和寺は北に1キロほどいったところからもうかがいしれる。
あぁ、もう少し調べてからと思いつつ、まずは記しておくのみ。
そう。
木の精は苦しんでいるのかもしれない。
荒神の木は弱っているようにみえる。そうなる要因はいくつも推することができる。いずれ枯れてしまかもしれないし、そうなるだろう。近い将来、その木を切らねばならないときがくる。その前に、そこに宿る木の精を山に返してあげられたらいいと思ったのだ。
そう。この荒神の木は養賀村そのものでもあった小さな森の西北の端にある。養賀の鎮守の神※は、千年以上前に、神殺しが在地を蹂躙していった出雲の地にあっては珍しい神である。東国の地では多く見ることができるその神の名はククノチ。
まさか、出雲の雲南でククノチの名を見つけるとは思ってもみなかった。
久久能智神:くくのちのかみ
句句廼馳神:くくのちのかみ
屋船久久廼遅命:やふねのくくのちのみこと
屋船神:やふねのかみ
くくは茎。まっすぐにたつものの意であり、天と地を結ぶものとしての世界樹信仰へとつながる、神というよりは精霊と呼ぶべきものだろうが、古事記以前にその根をもつ、古い古い神であることは否定しがたい。
記紀神学からしても興味深い存在で、古事記では、風の神の次、山や野の神の前に生まれた神であるが、書記ではその関係が変わっている。自然哲学・生態学の観点からも、少しばかり掘り下げてみたい。
屋船、すなわち御殿の神とされるのは、木の精霊である久久能智神と、野の神である草野比売神を総称して屋船神としたことによる。(この呼称の場合の「智」は男神。「比売」の女神と対するためのご都合だけは言い切れないものがある)。
※県神社庁への届け出には、祭神は、和加男賀姫命(わかおがひめのみこと)のみあり、この神の名はない。下記由緒に残るものと、雲陽誌にあるものなどから「角川地名辞典」が採ったものだろう。いや、消えゆくものは丹念にみていかねばならぬ。
《創立年代不詳、抑々当社は和加男賀姫命、相殿神屋船句句廼智命、屋船豊受姫命、合祭神(摂神社)大己貴命之儀従来村社境内に有之侯得共格別の社祭神に付明治八年十月二十七日氏子一統協議之上村社へ合祭仕候。》
加藤歓一郎の国家主義とはなんだったのか
「灯台もとくらし。加藤歓一郎は日中戦争頃より強烈な国家主義者となり戦時教育の第一線にたっていた。図書館で見つけたこの記述でようやく見えなかったものが見えてきた。霧の中から。宮澤賢治と加藤をつなぐ線を探してみよう。政治と宗教と文学と農学がひとつものであったその時代に」
そうつぶやいた2017年の夏だったが、なかなかすすまぬ。ともかく「魂の点火者」を図書館で借りてくることからか、などと思っていた矢先のことだった。
一昨日、森まゆみの『自主独立農民という仕事』の中に、加藤歓一郎の記載をみつけ、あぁと思ったことがある。はたからは「強力な国家主義者」とみえたそれは、外面でしかない。「日中戦争頃より」というのもあやしい。少なくとも森まゆみは、おそらく『魂の点火者者』を頼りにこう記している。
《大正十五(一九二六)年、屋裏小学校に赴任。教育勅語と国家教科書(原文ママ:国定教科書)でがんじがらめになっている現場に、「白樺」「赤い鳥」などに影響を受けた自由主義教育運動を紹介していく。
加藤は『死線を越えて』の著者賀川豊彦に共鳴し、彼がキリスト教の社会運動家として、その舞台となった神戸の貧民窟で着ていたと同じ「賀川服」を着、小作人の子たちと同様、素足で四里の道を歩いて学校に通い、校長に注意される。
(中略)
加藤歓一郎は上久野小学校の児童を引率して村の氏神様に参拝して皇軍の無事を祈ることを拒否し、西日登小学校に左遷された。さらに昭和八(一九三三)年、大原郡教会全総会の席上、郡の教育を批判したことから、特別高等警察が西日登小に来るなどの思想調査が行われた。神社参拝にしたがわず、キリスト教の伝道をするなら教師をやめてもらいたいという。これに対し、加藤は憲法二十八条「日本臣民に安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りに於て信教の自由を有す」を示して断固ゆずらなかった。》
加藤は、日中戦争の端緒たる昭和12年(1937)・盧溝橋事件の四年前には、特高の調査を受けている。太平洋戦争の激化を昭和16年(1941)からとするならば、8年で「転向」したのか、それとも加藤の国家主義と彼の信仰とは矛盾せず同居していのか。
そこらは、『魂の点火者』を読むところからの話となるだろう。
ここで、論点ではないが注意を向けておくべきは、日本戦時下の思想統制のありようだろう。昭和六年といえば、満州事変が起こり、治安維持法をもって思想統制がきびしくなっていく時代であったと、思われている。あくまでイメージとして、だが。
しかるにその昭和六年の木次において、キリスト教の伝道、神社参拝の拒絶、政治批判、これらをもってしても、加藤は「注意」や「指導」を受けたのみ。検挙もされてはいない。
ただ、戦争が激化する前のことではあるが、私たちがドラマや映画などでイメージをすり込まれている戦時下の思想統制の姿はかなりのゆがみがあることはいくつかの書が明らかにしている。たとえば、佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)。
さて、つづきは必ず書く予定だが、いつになるかはわからない。
「感性は宮沢賢治に。行動は田中正造に学べ」というのが加藤の口癖だったというが、その二人から、加藤自身は何を感得・会得していたのだろうか。
(つづく)
牛乳からバターをつくる
When was the last time you made your own butter?
あなたが、最後に自分でバターをつくったのはいつのことですか?
大変興味深い台詞なのだ、これは。
”バターづくり体験”は、日本でもありふれたものになりつつあって、子供あるいは親子で体験するものとして、ひろく知られてもいる。そのルーツが知りたいと思い、調べてみたのだが、いまひとつわからないのだ。
どうしたもんじゃろのおー、と投げやり気分でぼんやりとウェブの画面をながめていたら、冒頭の英文が飛び込んできて、はたと何かがひらめいたのだ。
おそらくという括弧づきではあるが、いえるのはこういうことだろう。
◉バターづくり体験はどこからきたのか
1. ありがちな話であるが、欧米からの輸入。ウェブの検索に限るがアメリカ生まれかと思われる。冒頭の英文も、幼稚園の頃、先生からミルクをわけられて、みんなで瓶を振った記憶が……と続く。また、アメリカの民俗資料動画のなかに、チャーンでバターをつくっている子供の姿があった。
2. ヨーロッパにはない文化かもしらん。バターをホームメイドでつくるというのは。乳製品の代表はバターではなくチーズ。しかもアルプス以北に限られる。むしろバターをよく使うのはインドの食文化ではないか、と。
3. 牛乳をたくさん飲むというのはアメリカの食文化では(だと思う)? ガロン単位で売られていて、添加されるものも含めていくつもの種類があり、大きな冷蔵庫があり、という土台があってこそか。
そもそも。
こうしたことを考えてみたのは、去る半年ほど前に、サンデーマーケット・チーボで、このバターづくり体験をやったことに由来することだ。
そもそも。
参加者のひとりが言われた。
「クリームからつくるものだと思っていた。牛乳からとあるので変だなあとは思ったが」。
そう。ふつうは生クリームからつくる。理由は「それがふつう。工場でつくる場合の手順も、手作りの場合でもそう」ということと、「そのほうが早くてかんたん。牛乳からつくることに比べたら」という2点。
じゃあ、なぜ生クリームを使わなかったのか。その理由は3つだ。
理由1)ダムの見える牧場での活動をプレゼンする場でもあるのに、大山蒜山高原のクリームは使えないだろう。ただ自前の生クリームはない。集荷され他の牧場の乳も入ったものも可だろうとした場合には、木次乳業で販売されている生クリームが12月限定であることから、それは不可能。
理由2)以下にも記載するが、木次乳業のノンホモ牛乳から生クリームに近いものを取り出すことはそれほど難しくはない。しかし、気温もまだ高い9月の時期に、開封した牛乳をもとに原材料をつくり、それを持ち込むというのは、注意を払ったとしても少々こわい。マーケットという場ではなく、たとえばカフェ・オリゼでやるのなら、理由2がクリアーできて、やれただろう。
理由3)上記のふたつが消極的理由であるが、3つめは積極的理由だ。
牛乳からバターをつくるということ。それは手間のかかること。手間がかかるということはなんなのか。食べることに手間をかけないでどうするんだという、そういう主張を込めたかったのだ。
ホームメイドDIY方式で、牛乳からクリームを取り出すのに手間はいらない。冷蔵庫に1〜2日静置するのみ。なにが起こっているのかを時の経過とともに見て知って感じなければ、この意味はない。
まあ、それくらいはやろうよということでもある。さらに一歩進むのなら、牛の乳を搾って飲むというのもいいだろうし、その絞った乳を原料にバターをつくるのならさらにいい。
乳搾りは体験として実践するならば、一瞬でしかない。
そういうものは体験とはなりえない。
(つづく)
醤油の歴史雑考〜旧松江藩領・温泉村の安永十年(1781)
温泉村(現雲南市)の安永10年(1781)の検地に際して、村三役が役人を接待した記録の一部をみるに、「大根牛蒡など、醤油にて煮〆をつくりもてなしたる」とある。「醤油にて」つくる煮しめがもてなし料理であるなら、醤油をつかわない煮しめがあったということだろうか。
瀬川清子『食生活の歴史』には、「醤油の自家製造は非常に新しい流行で、味噌のたまりをとって使用した時代を入れても、ここ二、三世紀をさかのぼれない」とある。
藩政時代から醤油の自家製造は許可制だったというのだが、そこで制限されている「醤油」と、タマリ、スマシと呼ばれた、味噌からとるものやなんやとはちがうわけだろうし、どうもいろいろごっちゃになっててようわからん。
とはいえ、明治はじめの島根県の場合、醤油の自家製造の制限とは「1年一人につき七升ずつであった」というから、けっこうな量である。
こんなことを思い出し、記してみたのにはわけがある。
「醤油絞り機、いりませんか?」
先日、そんな電話がかかってきた。解体する家から出てきたという。古いものらしいが、100年はたっていないだろうと思われる。
……
もらって、どうする?
そりゃ、つくるさ、醤油を。
えええ、どうやって?
つくりたい人が現れたのさ、これは何かの縁だよ。
……
さて、どうなりますか。
下のは、2年前、とある醤油屋さんの蔵を特別に(本当に)見学させていただいた折の写真です。
多種の膨大な菌が共生したある種の平衡状態、プラトーとでも呼ぶべき状態にあるらしい。
少々の雑菌、たとえば大腸菌が入ってきたとしても、殲滅されてしまうのだという。
近代以降の滅菌・殺菌の方法とは異なるやり方、というよりも思想ではないか。生命の思想ともいえよう。そうした話をふまえて、社長さんは、ここはひとつの宇宙だと言っておられた。
醤油蔵はひとつの宇宙。
しかし、ここ数十年の間、目の前で次々と消滅していくのをみてきたという。
なんともやるせない。