頓原張戸のトロヘイ

来訪神がちょっとしたブームかもしれません。日本でもっとも知られているのは秋田のナマハゲですが、近年、子供への虐待なのでやめてほしいという苦情・訴えによって存続があやぶまれているとか。一方でナマハゲ含め日本の来訪神行事をユネスコの人類無形文化遺産へ「登録すべく」申請中でもあるとか。

文化庁が申請中の「来訪神:仮面・仮装の神々」にあげられているのは、以下のものです。

・甑島(こしきじま)のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)
・男鹿(おが)のナマハゲ(秋田県男鹿市)
・能登のアマメハギ(石川県輪島市・能登町)
・宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)
・遊佐(ゆざ)の小正月行事(アマハゲ)(山形県遊佐町)
・米川(よねかわ)の水かぶり(宮城県登米市)…宮城県登米市「米川の水かぶり」小考 | 文化遺産の世界
・見島(みしま)のカセドリ(佐賀県佐賀市)
・吉浜(よしはま)のスネカ(岩手県大船渡市)

のちほど、動画のリンクなどはっておきましょうぞ。

さて、トロヘイです。昨日1月7日に頓原張戸でやると聞いたので見学してきました。知る限り、県内で現存しているのは、頓原地区のみです。かつて、島根県内では、現在の雲南市、奥出雲町、飯南町、安来市、旧簸川郡、美郷町、浜田市など、ひろく行われていたものです。まとまった記録をみたことがありませんが、金城の西中国山地民具を守る会で、1988年に《古老による「トロヘイ」の復元、記録作成 (1988年2月)》を実践されています。
あるいは映像記録が一部でも残っているやもしれません。(以前「実践民俗学」の記録について隅田氏に聞いたところでは、大半が残っていないと聞きました)。
奥出雲町阿井では大正時代に風紀紊乱を理由に禁止されたトロヘイ。日本国語大辞典では簡潔にこう定義しています。《小正月に村の青年などが変装して家々を訪れ、銭や餠(もち)をもらって歩く行事を、広島県あたりでいう。》  ………
えー、のちほど加筆するとして、今日のところは写真をアップしておしまいにします。眠いのですまん。  ここでも何度かなくなり復活しを繰り返されているようです。現在は頓原の公民館活動のひとつですが、最大の理由は子供の数が少なくなってしまったから。今年の張戸地区の子供(小学生までか)は5人。

馬と水の組み合わせにいたく刺激され、帰路、いろいろと妄想いたしました。 大正2年刊の『高田郡誌』では年中行事の2月の項にあらわれている。

《前高田諸村は陰暦十三日、後高田、奥高田は十四日、トノヘイ又はトロヘイ、トトラヘイ、鳥追幣杯と稱し貧家の少年或いは奴僕等郡をなして来り、大家の門前に喧騒し、牛馬の索沓等を献ず、餅又は米銭を與えて去らしむ、古来此日には人の門に立つを恥とせざる風俗と云う、其何故たるを知らず、或は戦国武士の流落身を寄するなき者の為に貧民食を請うの遺風にて、殿への意にはあらずやと云ふ、未だ其証を得ず近年此風殆んど廃す。》

乞食原理の風に重きをおいた記載です。風紀紊乱を理由として禁止される向きにはこの風が著しくあらわれた時代においてでしょう。ただ、乞食原理というも、もとをたどれば神の訪れと軌をならべることもあり、なかなかに事情は複雑です。  柳田国男は『食物と心臓』のなかでこう記しています。

《小正月の前の宵に家々の門をたたいて、餅をもらいあるく行事は全国的で、地方によってカパカパ・チャセゴ・カセギドリ・カサトリ・ホトホト・トベトベなど、十数種の異名のあることはすでに知られているが、これにも家々の幸福を主として祝うものと、訪問者自身の必要のためにするものとがあって、その堺は犬牙交錯している。岡山県北部のコトコトは厄年の男女の心願であったといい、四国の大部分から中国へかけての粥釣りなども、名の起こりはまたこの七軒乞食であったらしいのである》

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~1月6日

 晴れました。とりわけ午後からは青空が広がるという、山陰の冬としては大変にめでたい日和でした。そんなよい日に出足が遅れ、脱穀集中日のはずが、2時間弱にとどまったのは悔しいです。本当にまったく………。さっ! 明日も快晴の予報! 気を取り直していきます!
◉今日の作業
場 所:奥出雲町三所
時 間:15:00〜17:00
参加者:1名
内 容:アマランサス脱穀。叩き方が甘かったせいだろうか、唐箕にかけた後の籾殻やゴミ等の残存率が高かった。ていねいにやらないぶんだけ、出来は悪くなるのだなあ。ちょっとの手抜きが結果に出るだけ、繊細な作業なのだろうね。今更ではあったが、赤い花をつけたものが2本たまたまそろってあったので、種まき用として外のものとはわけて選別した。

 夕方になると雲もけっこう広がってきたが、午後5時前には夕陽がまだ西に見え、ものの姿かたちをよく見ることができる。黄昏時よりは少しばかり前の、何はともあれ、仕事の終わりの安楽感を胸に軽トラで道に出ようとしたときのこと、ひょこひょこと近づいてくる者あり。
 警戒心が薄い。カメラを取り出し、おさえておきましたとさ。
 どうやらイタチのようです。

チドメグサとよく似たものたち

 チドメグサ、ツボクサを探しはじめた。
 地方名がわかればそれもみておきたい。薬草として、ツボクサの利用がかつての山野にあったのかなかったのか。などなど。
 昨日、そらやま団地の山にある一畑さんを確かめに行った際に、山の入口で見つけたのがこれ。

 チドメグサだと思うのだけど。はて。さて。
 松江花図鑑などを参照しながら、よく見てみよう。
●チドメグサに似た仲間
http://matsue-hana.com/yasou/kubetu/tidomegusa.html
●ツボクサ
http://matsue-hana.com/hana/tubokusa.html
●チドメグサ
http://matsue-hana.com/hana/tidomegusa.html
 ツボクサの利用について、世界大百科事典(平凡社)ではこう記述。

《マレーでは野菜の代用として食用にされ,東南アジア方面では葉をもんで傷口や皮膚のただれにはったり,下痢の薬として用いられることがある。》

 そして、薬用で一項を設けて、

《全草を積雪草(せきせつそう),連銭草(れんぜんそう)(日本ではこれらはふつうカキドオシをさすことが多いが誤りである)という。サポニンを含み,単独でまたは他の生薬と配合して下痢腹痛,黄疸,吐血,外傷の出血,食中毒などの際に煎服し,また搗(つ)き汁を外傷,疥癬(かいせん)などに外用する。》

と。
日本大百科事典(小学館)では、チドメグサとツボクサとの違いを簡潔にこう記述している。

《(ツボクサは)チドメグサ属に似るが、ツボクサ属は果実に網目状の脈があり、葉柄の基部が鞘(さや)となり、托葉(たくよう)がないので、チドメグサ属とは異なる。南アフリカを中心に世界に40種あり、日本には1種のみが分布する。》

 そうか、日本には1種のみか。
 さて、ツボクサの説明をみると、道ばたや林内でみられるという記述が多い。あたりまえに見られるものであるはずのものだが、あたりまえがあたりまえでなくなっていく時代だ。要因のひとつは除草剤の多用。ホームセンターでも農協でも取扱がすごい勢いでふえている。とある地域で、営農組合でタンクごと買って、各家庭で大量に撒いていることをきいた。
「外の家は、きれいに草一本なく枯れているから、もっとたくさん使わないとダメだと言われる。私は撒きたくないんだけどね」
「ここらでは、ヨモギもツクシも、とにかく野草はこわくてとらないし食べられないよ」
「野草を知ってる人は、もういない。80歳越えて元気な人ならともかくね。70歳代はそんなことはぜんぜん知らないよ」
 はい。民俗知の喪失は、単なる知の喪失にはとどまらないのです。

12月31日人間の条件(本の話#s001)

https://www.facebook.com/events/366693750334384/

「片つかぬことを抱えし年の瀬は月の晦日とさして変わらず」髙山宗東

 本日、快晴となった大晦日です。今晩の準備をしています。机に向かって。

 役に立つこと、必要なこと……古代ギリシアが軽蔑した概念は、侮蔑から称揚へと駆け上がり、いまや世界を覆い尽くさんとしています。なので、堂々と胸を張って「この話はなんの役にも立ちませんから!」とは言いません。誰も来ないであろう晦日の夜にひっそりと行われるのです。

 アーレント「人間の条件」は、本とスパイスの特別編として、来年各章ごとに読み進んでいく予定です。今回はそのさわりとしての開催です。

 さて、内容ですが、「役に立たないことこそが人間の人間たる条件」なのだ!ということを明らかにしていきます。

 アイヒマン問題(凡庸なる悪=知識・思考の奴隷化=役にたつ知識など糞だ問題)、カール・シュミット(自分の存在をおびやかすものを存在論敵に殲滅するのが政治)、キリスト教の愛(愛は最強の反政治性)、近代の最終形としてのひきこもり、動物化する世界……などを補助線として。

【参考便宜的図式を以下に】

oikos ーーー police

zoe ーーー bios

economy ーーー politics

private ーーー public

 ちょっと青空を見に出かけて夕方からささっとまとめましょうぞ。

焼畑の蕎麦

 1週間ほど前に蕎麦を脱穀した。奥出雲在来の横田小蕎麦を焼畑で栽培したもの。たったこれだけなのだ。島根大の里山理研究会の方に行ったものが量的に2倍くらいだろうか。
 以前も反省しつつ、来年どうすれば改善するのかが見えてないのだが、収獲が遅れたことによる脱粒も大きかった。

 種として残してもよいのだが、いかんせん出来も悪いので、すり鉢で皮を剥いて、炒ってみようかと思っている。

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~12月18日

2016/12/18(日)のことを備忘として。

11:30三所着

トーミ組み立て1時間

脱穀13:00〜15:30

という按配でした。

そう、トーミを買ったのです。組み立てました。本格稼働は後日となるのですが、買って正解。想像以上によいです。選別の精度はかなり高い。決め手となっているのは、落とすところのスリットです。雑穀の細かい粒の場合、このスリットが細いほうがよいのです。新品ならばまだ甘くなっていないので、狭く細いスリットから落とせるのであります。

 使い込むにつれて甘くなっていくことが想定されますし、もっと均一な幅でのスリットであればと思うので、箱状のものを取り付けられないかなあと考えてもみます。当面はこれでいろいろ試してみましょうぞ。

軽トラくん、ありがとう、お世話になりました

 昨日まで野山を果敢に駆けまわるように走ってくれた軽トラ。あちこちにサビが浮いた姿は私にはかっこよく頼もしく見えたものですが、はたからみると壊れそうな車が公道を走っているという不安もあったようです。

 「もう引退させてあげなよ」と妻からも、車屋からも言われていました。数ヶ月前に今度の車検12月24日(なんとクリスマスイブ)までには、交替をと決めていて、後任も決まっていたのです。後任もそこそこ年季のいったベテランであり、溶接して強化してもらいたいところもあり整備に時間がかかっておりました。そして、整備完了納車OKの連絡があり、昨日が「仕事納め」となったわけです。

 1年前から、エンジンこそ調子よくまわりはするものの、おそらくキャブレターの不調などが疑われ、回転は不安定で、冬になると急激に燃費が悪く調子も悪くなっていたのが昨年のこと。くわえて数ヶ月前にウィンカーの調子が悪く電気系統を配線からやりなおさないといかんようなことになっていて応急処置をしていました。マフラーが落ちそうになっていたので、これも応急処置です。荷台はサビでサイドが使えず、穴は運転席のアクセルペダルの下にも空いていて、冬は足元が寒かった。寒いだけならともかく、そろそろぱこっと抜けてもおかしくない有様で、パッチ(溶接)は必須事項となりつつある状態でした。

 もう2年くらいは乗れたと思いますが、雪の山中で立ち往生するのは少々危険でもあることですし、引退宣言となったわけです。

 これといったセレモニーもなく、さらりと別れましたが、感謝の気持が胸からあふれても困るので、ひとことだけ記しておきます。

 ありがとう。お世話になりました。Good bye!!

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~12月17日

12月17日(土)
「収獲の宴」と称しつつ、残置していた竹を燃やして炭にし、牧場の土壌改良(実験的水脈づくりり)に挑んだ日です。参加者は島根大から10名と地元2名の計12名。
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9:10 先発隊ダムの見える牧場着
11:00 後発隊着
13:00頃〜2班にわかれて収獲の宴
17:30 燃焼終了
18:50 作業終了
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前日の雪をのけるべく積んであった竹を積み直す作業に1時間程度かかりました。積み直した竹材の高さは腰高くらいはあったこと、降雨降雪が続いていたとはいえ、冬季でもあり、また竹を叩いたときに生じる音からしても含水率はさほど高くないと思われました。要するに燃えるだろうと踏んだのです。そして、着火。いやあ燃えない燃えない。常に材を整理して置き直していかないと消えてしまいます。
かれこれ6時間ほどかかりました。30〜40本ほどの孟宗竹を炭にまでするに。
並行して穴をほっておりました。
牧場は残土の埋立地ですが、表層には黒ボクや堆肥が20センチ〜30センチ積んであります。その下に真砂っぽい土が20センチ程度でしょうか。その下は瓦礫というのがふさわしいような石のかたまりがごろごろしています。瓦礫層(仮称)まで掘ったところで、水が湧いてきて、1時間ほどで満水となりました。
穴は大小3箇所。
できた消し炭を投入し、掘った土で埋め戻します。
埋めた直後は多少ズブズブとしていましたが、翌日現場検証した時点ではがっちりとかたまっていました。牛が足をとられることはないだろうと思います。
もう少しやらないと水はけがよくなるなどの改善はないと思いますが、掘った場所の草の生え具合など、経過をみていきます。
さて、カブ料理はスープとマリネ風のものでした。料理に関しては、もっと「教える」ことがあるなあと。思います。責務として。はい。



社会関係資本をパパッと捉えるために

 社会関係資本(Socail Capital)がわからないといわれてたじろいだ。プログラマーの会話のなかで、ルビーってなんのことかよくわからないといわれるようなものだ。

 ふたつの意味がある。ひとつは、言った本人が「知らない」ことを意味している場合。もうひとつは「存在意義がないのでは」という問題提起的な意味の場合。そして、社会関係資本がわからないということには両者が入り混じっているように思える。私がたじろいだのもそのせいだ。

 自分自身、社会関係資本という言葉をなんとなく使っていることに気付かされた。いかんいかん。反省反省。たちどまって反省してみれば、乱用されて語義も錯綜しているように思える。かといって、古びておかしくなった言葉として捨ててしまうのは惜しい。この概念がもたらした視座はいまでも有効だ。

 私にとっては、実務上の問題として、どうしようかというのがここでの問題。説明するか言い換えるか、う〜む。そこで、判断材料に、ぱぱっとかいつまんでわかるものを探していたら、これ(下記リンク)がありましたのでみなさまにもご推薦。よいです。2008年の勉強会資料とありますが、公開されていますので、よいでしょう。

「 援助と社会関係資本 」~ ソーシャルキャピタル論の可能性 ~佐藤 寛 編

http://intl.civil.t.u-tokyo.ac.jp/docs/08THStudy_080619.pdf

◉たとえば、第4章のまとめとしてのここ。

1. 補助金には適正規模がある。

(地域住民の自助努力によらない所得増加、効用増加は、社会関係資本を通常よりも早い速度で減価させる)

2. 既存組織との調整に配慮しなければ新プロジェクトがよい循環を生み出さない。

(重要なのが、誰を排除しての組織づくりが行われているかという点である)

3. 域内活動に参加するときに、自主性が高いほどよい循環が生み出される。

(自主的な運営がされればされるほど、同じ生産量でも得られる満足感が大きくなる)

4. 循環の構造を理解して行動するリーダーの存在が重要。

…この四つの命題が実際に観察できるかどうかを調べることによって、社会関係資本の循環構造モデルの妥当性を調べる。

◉あるいは、3章の4節。

 縦の社会関係資本は、ある場所に「よそ者」のロジックが持ち込まれるときに新たに形成されたり、破壊されたりしやすい。それは「よそ者」それ自身の存在に起因するというよりは、よそ者が持ち込む資源に誘発されて変化する社会関係によるものである。そこで、縦の視点を視野に収めるには、異なる場所同士の関係を同じスコープの中に含める必要がある。

 いやあ、いわゆる「わかる人にはわかる」問題として、ビンビン伝わってきませんか? 

 こうしたことを踏まえた「地域の課題解決」でないと、「やらないよりまし」な事業でなく、「やればやるだけ有害」なものになりかねませんよね。

エノコログサを食す慣行

 味の素食の文化センターのライブラリーでたまたま見つけた書(郷土食慣行調査報告書1976)の中に、昭和18年に広島・山口を取材したものがあった。調査地は以下の通り。

 廣島縣山縣郡戸河内町、高田郡吉田町、蘆品郡廣谷村、神石郡油木町、

 山口縣大島郡小松町、平郡村

 調査は「現地調査及び文書に依る問合せ調査の結果知り得た郷土食を次の如く分類配列し之を取纏めた」とある。

 複写をとり、一点一点検討していきたいのだが、エノコログサの記載には驚きました、というか盲点でした。アワの原種とはいえ、実際に食していたとは! 食べられるということ、食べている(た)ということ、ふたつは似ているようでちがう。ウェブを検索してみると、「食べてみた・うまかった」という記事まである始末。

 ここですが、脱ぷせずに炒ってます。むぅ、そうか、アワも完全にむかずともよいのかもしらん。早速炒ってみようと台所に向かう前に記事を整理しておきます。

 まずは、先述の調査報告から。

 果実の項目に「きからすうり」と並んであります。

えのころぐさ

(調理方法)九月頃えのころぐさの穂を採取し、揉んで種子を採り、臼で搗いて粥又は飯に炊く外、揉んで採った種子を石臼で碾いて粉末となし団子にして食す。

(採取方法)米麦の補助食として用ふ。

(普及度)縣下一円。

 wikiの記載の中で出所の明記されているものの中からめぼしい項目をひろってみました。

縄文時代前半まではなく、日本にはアワ作とともにアワの雑草として伝わったものと推測される」。〜2003,9『雑穀の自然史 その起源と文化を求めて』(北海道大学図書刊行会)内収「雑穀の祖先、イネ科雑草の種子を食べる:採集・調整と調理・栄養」河合初子,山口裕文 p31-33

 『雑穀の自然史』はこの前、県立図書館で借りてきたものだが、「イネ科」というところでスルーしていた。次回、もう一度借りてこよう。確かめたいことのひとつが「脱穀したのちすり鉢ですりつぶし、水選する。食べるときはアワと同様、粒のままでも製粉しても食べられる」という箇所。水選という工程はあまり見たことがないのだ。調理する直前にするのだろう。

 「食べる」はつくづく奥が深い。