令和4年のタカキビ餅

12月29日、今年もタカキビ餅がつけた。よかった。ほんとうに。

年の瀬にタカキビ餅をつきはじめて何回目となるかはわからない。すぐにはわからないくらいには経験を積み重ねてきたせいか、準備も当日も記録メモを都度見直しながらということはなく、頭の中にあるものと、身体が覚えているもので対応はできていたように思う。

タカキビと餅米の割合は2:8。タカキビはすべて焼畑のもの。よくみのった。やや早いと思われる9月上旬、台風通過の予報が出ていた前日に取り入れたものだ。とってみればちょうどよい熟し方であった。しっかり熟したのであるから、早めに水に浸けておかなかればならない。4日〜6日を要するが、諸事情で着手できたのは3日前。そのぶん、ひき割りにする割合を増やそうとしてみたが、加減がよくわからない。ひき割りの過程で皮の薄いものはよくむけたと思われるから、水の吸収はよくなっていたはずである。

妻とふたりでつくつもりであったが、声をかけたら6人も集まってくれることになった。慌てて餅米を買い足した。タカキビ餅2升、白餅2升をあわせてつくことに。餅つき機は1升づきのものなので、あわせて4回戦となる。蒸し過程で入れる水の量は取扱説明書の目安量より10ccましの450cc(のちほど再確認のこと)とした。1回目は二人で、試しにと白餅でやってみたが、慣れないもので、みんなが着てからだねと、2回戦の開始を後ろにずらす。

ひとりふたりとやってきて、あわせて8人揃ってみれば、ついた一升を丸餅にまとめるのはあっという間。餅を切るのが一番の技を要するのだが、慣れた人が一人入って、スイスイ。

機械が蒸したり搗いたりする間はお茶とおしゃべりで楽しく過ごす。そうした時間も含めてではあろうが、餅つきは皆さん楽しんでもらえたようで、「また来年も」という話にもなり、「杵と臼が家にあるから持ってきますよ」との声も。

実食についてはまた追記する。

来年も、また焼畑でつくれることを祈りつつ。

令和4年冬の山仕事、12月16日

雪の積もる前に。
根雪が山に覆いかぶさる前に。
昨夕の山仕事。

◆落葉採取・15分

軽トラ荷台に2梱包。牧場から岩内山の尾根に至る道沿いから拾う。表面は乾いているが、上から二枚目の葉はぬれている。こうなっていると、地表に流れる程度の風では動かない。下層はしっとりと濡れている。金箒で掃き集めようにも、固まっている層は、そうだなあ3センチほどは平均してありそうだ。白い糸状の菌がところどころに見える。
この日集めたものは里の畑へ。50センチほど掘った溝に落とし込む。1年おけば腐葉土として苗土に使えるようになる。どんぐりを中心とした苗用に、そして焼畑栽培作物の苗用となる。
あと2回ほどは必要かと思う。そう雪の積もる前に。
山の麓につくる予定の腐葉土づくり用のものは、さらに先となるかな。
なお、見出しにつけた分単位の時間は大まかなもので計測はしていない。

◆崖地焼畑カブの種取選抜と植替え・15分

今回は4株のみとなった。残りは食用として持ち帰り。目標としていた40株までは到底たりない。現在10株ほどか。気張らずにこれから毎回、ひと株でも多くやっていこうと思う。

◆竹山整備兼春焼準備・60分

勘を取り戻しつつあって、段取り・流れの大枠がつくれてきたと感じる。効率は現状の倍にまでは高めたい今冬である。技能向上とあわせて。
さて、人に教える時に、よく「慣れだ」という言葉が使われる。一言で済むよさも手伝って頻発されているのだろうが、うまく伝わっていない。「やってみること」「数をこなすこと」が大事で、理屈理論から入るのではなく、考えずに身体で覚えていくものだということに間違いはない。が、それ、理論が十分に披瀝された上でないとうまく教えが機能しない。
こうして理屈を中途半端に述べるのもよくないが、《うまく&早く》すませることを試みてほしいということを伝えてみたいのだ。昨今とみに、抜け落ちているように思う。
昨今のアマチュアに対して指導される教授型は単純だ。
無理をしない、安全に、楽しんで。
それでいいのだろうか。私はよくないと思う。
我らは素人=アマチュアなのだから、なおのこと、職人=プロに見習わねばならない。少なくとも尊敬の念を把持すべきである。アマチュアの最低限の矜持であろう。

◆準備片付けと移動、小休止・20分

休憩中のつまみ食いは冬苺。残っているものは甘みが減って酸味が強いものばかりなるも、これが美味にして体力蘇る感。
年内にできればあと1〜2回。竹ほしい方、キクイモほしい方、いまなら、取り放題である。見るだけ、足を運んでいただくだけでも嬉しいことだ。お手伝いくださる方も募集中。
「出雲の山墾り〜2022」まで

岩屋寺と切開

岩屋寺、そして隣接する切開へ行ってきた。廃寺と特異な断層地形の見学であるが、切開も廃寺もその根底にみえ、伝わってくるものは「崩れ」である。崩れとは何か。幸田文の『崩れ』からひく。

《私はそれまで崩壊を欠落、破損、減少、滅亡というような、目で見る表面のことにのみ思っていた。弱い、は目に見る表面現象をいっているのではない。地下の深さをいい、なぜ弱いかを指してその成因にまで及ぶ、重厚な意味を含んでいる》

岩屋寺がある山のそこここにみられる「崩れ」は、はじめて足を踏み入れた私に、何かを語ろうとしていた。同行したS氏は「ひとりで来るところじゃないです」という。それも同意。霊場であった山であること。建物も崩れつつあること。地形の崩れが相乗している。訪れる人がほとんどいない。あげれば他にもあるだろう。修験の霊場らしく大岩が点在しているが、いずれ崩落してもおかしくはない。そのような「実際上の危険」もさることながら、薄気味悪さ、不快さが人をして遠ざける場所となっているのだろう。

岩屋寺の「崩れ」が語ろうとしているものは、それら「不快」を発生さえる諸要因とどのような位相をもって接しているだろうか。

ジル・クレマン『動いてる庭』(山内朋樹訳・みすず書房)からひく。

《〈荒れ地〉はいつの時代にもあった。歴史的にみれば荒れ地とは、人間の力が自然の前に屈したことを示すものだった。けれども違う見かたをしてみればどうだろう? 荒れ地とは、わたしたちが必要としている新しい頁なのではないだろうか。》
《わたしたちは、ほんとうはなにを恐れているのか? むしろ、今なお、なにを恐れる必要があるのか? 下草の濃密な影や沼地の泥には無意識に追い払いたく不安があり、鮮明で明るいものは安心させ、残った部分にはあまねく不吉な妖精が満ちている……。》
《人間がそう感じるのとは逆に、荒れ地は滅びゆくこととは無縁であり、生物はそれぞれの場所で一心不乱に生みだし続けていく。》

彼が見ようとしているもの、伝えようとしているもの、その基底にあるのは「希望」であり「願い」であろう。南方熊楠の粘菌と森にまつわる書簡を、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を、思い起こしてみられよ。確信、信仰、真理、それらとは異なりながら、随伴するものとしての「科学」がそこにある。

荒れ地=崩れに対して、私たちが否応なく感じてしまう恐れや不安、不快感・嫌悪感、それら諸感覚を棚上げできるのは、理性―科学という乱暴な力だが、その暴力によってもたらされる「違う見かた」がある。

岩屋寺の崩れが語るものを、受け止めていくためには、サイエンスのアプローチを幾度か重ねていく必要がある。

さて、現在視認できるものは、比較的近年に生じたものと思われ、寺院の創建が奈良時代にまで遡るのであれば、千年単位での森林植生の移り変わりと、人がどうこの山をみてとらえ、手をかけてきたか、その履歴が探れそうだ。

寺跡については、総じて新しいもののように感じる。仁王門のルートは近世以降のもので、中世以前には違う参道ではなかったか。
現在の林相・下層植生など森としては貧弱にみえるが、生命力を感じる杉、松、桧が転々とありなぜだろう、どうなっているんだろうと好奇心をくすぐられる地であった。

崩壊をおしとどめる方策もちょっとしたことであれこれ浮かびはするが、事情からして観察関与。周辺の山主さんに伺いつつ歩き探索していけたらなあとは思う。

 

吉賀の背負い梯子

蔵木の水源会館

宇佐郷を振り返る。そこへ至る道から徒然に記す。

11月7日であった。晴れていた。木次を出たのは8時前であったろうか。下須の三浦家で妻をおろし、柿木の旧エコヴィレッジの前を通りすぎる頃から、10年前の記憶と変わらぬ風景が次々と現れる。七日市の六日市学園は、看板だけが新しくつけられていたような気がする。建物の姿形ははっきりと、当時と変わっていないように見えた。
外側は何も変わっていない。10年前とて、内側を見ていたとは思えない。自分はどうかと言われれば、変わっているはずなのだが、変わらぬ風景を見ている自分のありようは何も変わっていないように思える。
変わらないだの、思えるだの、見えるだの、曖昧な字句に終始するのは、車で駆け抜けるからなのだ。歩くということがほとほと少ない。歩いている人を見かけない。それが、ここ、吉賀町の特徴なのかもしれない。

さて、水源会館に着いたのは12時前であったと思う。吉賀町の蔵木、吉賀川の水源地にある。山の道具の展示があり、あるいは背負子もあるのではないかと立ち寄ったのだ。受付であるかどうかを確かめ入館。有爪の豊後型と思われるが、爪はとれたのかはずされているのか、寝かせて置かれており、詳しく見ること叶わなかった。事務所で伺うに、図録はじめ資料の類はまったくないようだ。展示されている道具は「このあたり」から集めたものだという。

資料の説明プレートには「せた」とある。地方名である。柿木村史には「蔵木ではせたと呼ぶ」とあることとも一致する。
そういう柿木では「にこ」と称されていたらしい。蔵木の南方、宇佐郷では「せた」「せいた」「せーた」であった。
柿木の北方、日原では「にこ」と呼ばれていた。
単純にみれば、呼称は北でにこ、南でせた、となる。事例少なしとはいえ何かを語ってくれるかもしれん。下書き中の【民俗文化地図ににるセータとニコと】に、このつづきは記す予定。

柿木の背負い梯子

妻から、「背負子、最近まで使っていた人はみたよ」と聞き、ひょいと「柿木村史」をめくってみれば、豊後型のそれがニコとしてあったし、なにより使っている人がいるというところが朗報であった。柿木=旧柿木村といってもひろい。下須、福川、椛谷、白谷、木部谷と。木部谷や椛谷を歩いてみてもよいのかもしれないが、またの機会に。

さて柿木村史の当該箇所を下に挙げておく。背負い梯子が入る前に、荷を背負う縄として使われていた「ニオ」にまつわるまじないのことが記されていて、興味深い。

ニオのまじない

ニオは日原では、オイノコと呼ばれていたものとほぼ同じものだと思う。さて、そのニオ、一方の縄の先を特に長くしておき、まじないに使うのだという。

《もしも作業中などで、両口蛇(両方に口のある蛇)やハミツグロ(多くのマムシが一つに固まっている)に出くわしたら、すぐさま、その長い方の端を切って与え、次のまじないを唱えれば、食いつかれずに済む》

唱えごとにある「ワラビの恩を忘れたか」とはなんだろう。気に留めておこう。

斐伊川の記憶、残酷の根源#1

誰もがあたりまえに知っていることが書き起こされることは稀である。書き起こされたとして、人々の目にとまることはさらに稀である。
言うに憚られることも同様。
また、あたりまえの事象は言語化するに困難を抱えている。
以上みっつはよく似ている。
また違った側面、たとえば「あたりまえ」の側、すなわちあたりまえを言語化しようとはつゆも思わぬ側からみれば、あたりまえのことは曖昧模糊とした事象にみえるだろう。それがなにかを知ってはいるのだが。だからこそ、「あたりまえ」であるのだが。ことは言語化しようとする側にとってもそうは変わらないと思われる。知っているというのはみんなが知っているということを知っているというほどのことで、じつは誰も本当に知ってはいないのかもしれない。

そうした「あたりまえ」も、幾星霜か経るうちあたりまえではなくなる。場合によっては、世間の耳目を集める事象へと変貌をとげることもあるだろう。しかし、その正体・実態・正確な姿といった面では、皆目見当もつかないことになっているのだ。南方熊楠は「人柱の話」のなかで、こう語っている。(平凡社の全集第二巻)

《本邦の学者、今度の櫓下の白骨一件などにあうと、すぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱など全くなかったなどいうが、これは日記に見えぬから、わが子が自分の子でないというに近い。大抵マジナイごとは秘密に行うもので、人に知れるときかぬというのが定則だ。……中略…… こんなことは、篤学の士があまねく遺物や伝説を探って、書籍外より材料を集め研究すべきである》

南方は書籍を事象を記録している媒体として真っ先にあげているが、書籍外ともいえるし書籍ともいえ、書籍同様の確かさをもって存在している紙に記されて残っているものがいくつかある。地図もそのひとつ。地図にしろ航空写真にしろ、読める人と読めない人がいる。伝聞ではあるが、台湾の少数民族の調査でこんなことを聞いた。山岳少数民族出身の大学生も増えてきてわかったことだという。地理や航空写真の分析をやってきた学者でも読み取れないあるいは思ってもみなかったものを、そのマイノリティを出自にもつ学生は見ることができるのだという。当地を訪れたことはなくても、である。自らの故郷であった土地からの類推なのだろうか。地図を読むということについては、断片的ないくつかの逸話を思い出すのが、ここでは割愛する。

ここまでが長い序にあたる。本題は、地図が語るもの。2022年9月にFacebookに投稿した記事への、補足なのだ。すなわち次の一文への補足である。

「斐川の実家諸々整理のためもあり、昔マップをふとみてみるに、大正7年の斐川における新川の存在がにわかに現前し、驚き、しばし黙考。川の姿の記憶は失せようと、なにかが残り続ける。そうしたすべてを失うときに、生命は物に変えるのだなあと、パース=ジェスパー・ホフマイヤーを重ねがら考える」

端的には、新川開削に人柱はたてられたろうか、ということへの答えである。

斐伊川は暴れ川であって、慶長12年(1607)松江開府以降、凄まじいものとして記録からも伺うことができる。件の新川開削は天保2年(1832)からはじまるが、洪水被害の軽減をはかるのが主目的であった。現在まで200年はたってない開削事業は、語り草として家々で語られることもあると聞く。堤をつくるとき、人柱がたてられたという話は、新川より前のものだろう。私は親から聞かされたものだが、「足を引っ張られるから、斐伊川では遊んではいけない」と言われて育ったものだ。だからなのかどうなのか、身近な小川で遊ぶ子どもはいても、斐伊川で遊ぶ子どもはいなかった(と記憶している)。いや、いたし見たりもしたのだが、都会から遊びに来ている人たちで、「バカが!」と言いながら、通り過ぎる大人がいたという記憶はある。そうつぶやいたのは自分の親だったかもしれない。

《熊楠は、民俗学には残酷の感覚が必要である、と考えていた。それはこの学問が、人間的なるものすべての根源に触れていくような、始原学でなければならないからだ。人間的なるもののその根源、その奥底の闘技場では、たえまない残酷が行使され、その残酷の中から、差異の体系としての文化が創出されてくる。民俗学の主題は、近代のあらゆる学問に抗して、その始原の光景を、知の言葉の中に、浮上させてくることにある。近代のあらゆる学問に抗して、と言ったのは、近代の社会とそれをささえるすべての文化装置が、あげて、この始源の光景を隠蔽することから、みずからの存在理由を打ち立てようとしているからであり、民俗学はそれに抗して、近代の言説に亀裂を入れる、本質的に「例外の学問」にならなければならない。南方民俗学は、そのような始源学をめざしていた。》(中沢新一,1992『森のバロック』

中沢新一は南方熊楠の「人柱の話」から「南方民俗学」と自ら名付けたものを見出そう=作り出そうとしている。

〜つづく。

 

 

ナバニコ考#4

日原のなばにこについて

大庭良美,1974『日原聞書』(未来社)の「きのこ山師」に、ナバニコのことが出てくる。ところが、「ナバニコ」という言葉を話者の薬師寺惣吉は用いていない。「ニコ」と言っているのだ。同じくナバ=茸を語頭に冠した「ナバミノ」という言葉は使っている。それは当時、ミノはあってもニコが当地にはなかったからだ。

《私がここへ来た時、ここにはニコというものがないのでオイノコで物をかるいよりました。私のニコを見てこれは何にするものかというと分けてくれえというので二〇銭で売りました。それからだんだんこしらえてくれえというのでこしらえてやりました。》

採話は、昭和37年、話者が87歳のときであるが、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会から、4年後に刊行された『日原民具志』では、ニコについて、この『日原聞書』からの抜粋をはじめ、かなり書き加えられた説明がある。オイノコからナバニコへの転換についても簡単にさかれているが、『日原の民俗資料』での「次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」というテキストは抜かれている。訂正とみてよいのかどうか。そうした地域もあっただろうが、少なくとも茸師であった薬師寺惣吉が語る滝元ではオイノコからナバニコへという転換であった。加えて、こうある。

《滝元では前にはにこはなくてオイノコでかるうていたというが、脇本わたりでもオイノコであった。オイノコは山へゆくにも肩に投げかけてゆけばよいので便利であった》

滝元、脇本の位置についてはのちほど追加するが、ほか大庭加筆のポイントとしてふたつ。

・初めは男が、のちには女も使用するようになった

・私のところでなばにこをつくったのは昭和56年頃である

後者について。大庭がいうわたしのところとは、畑のことであろう。なばにこを畑に「いれた」のが大正の終わりで、「つくった」のが昭和56年頃ということか。『日原の民俗資料』と『日原民具志』に矛盾がなければそうなる。しかし、移入から自家での作成まで50年以上を有するというのはいささか長すぎはしまいか。不明であるなかで、確かなこと、それは畑でなばにこをつくったのは、昭和56年頃であったということ。そして、なばにこの日原への移入と在来にこの転換は、複雑な様相をもって推移したであろうと、いまは捉えておこう。

 

野生のアズキは古い川のほとりに

「秋、野生のあずきを探しに、6000年前の記憶を探しに」と、書いてから5年が経ち、いま2箇所ほどのスポットで毎年みている。最初の2年ほどはどこを探しても見当たらず、途方に暮れたと思うのだが、当時どこを探したかも忘れてしまった。あきらめ半分で、人にそれとなく尋ねるようにもなった。そういうものがあるんですよ、というくらいに。それから半年か1年たつかの頃に、いまみている2箇所を、教えてもらった。「ありましたよ。たぶんそうなんじゃないか」と。

見つける(かる)時期は9月。つる性であるし、他の植生とまじりわかりにくいが、この時期に黄色い花が目立つので、見つけやすいのだ。

さて、野生のアズキとはヤブツルアズキ(Vigna angularis var. nipponensis)のこと。ひとつのポイントでは、毎年安定して開花結実している(もうひとつのポイントでは翌年は消えたりもするが、いまのところ見つけられている)。河川ぞいに点々とひろがってもいて、じっくりと探していたわけでもなかったが、なんと数日前にツルマメ(Glycine soja)も発見した。ふたつがからみあっているので、わかりにくいでしょうが、ヤブツルアズキは褐色の蔓、実は熟して鞘は黒くなっている。ツルマメはグリーンの蔓、実は枝豆のちっちゃいやつがついている。ほんとに大豆そっくりだ。あちこちにはびこっている葛と似ていなくはないが鞘も葉も異なる。

はじめて見つけたのが10月5日で、10日後の10月15日に様子をみにいってみたが、採種にはまだ早かった。もっとも密生しているところは見事に刈られ、すみにかためられていた。水路の堰のそばであったからだろうが、なぜここにと考えたときに、あぁやはり上流から流れてきたものかもしれないと。

来歴についてはおぼろげに気にしている程度であったが、今日が吉日として、たどってみることにした。そして、あった。ポイントほどの群生ではないが、生きている。小さな群れで。ツルマメもいっしょだ。採種ポイントからは1kmほど河川をさかのぼったところ。かつては後谷川と呼ばれていた川のほとりだ。後谷……民俗学では、後谷、イヤ谷、寺田、これらは葬送地を意味するものとして認知されている。下の写真である。この小さな川と谷は明治19年に大規模土木工事によって改変された場所でもある。

ツルマメはウェブサイト「松江の花図鑑」にもある。2012年10月13日、玉湯でまだ青い果実だ。このポイントと標高は20m程度しか変わらないと思う。開花、結実とも栽培大豆とほぼ同じなのだろう。

ツルマメと似た野生種にヤブマメがあるが、「三河の植物観察」をみると両者を比較した違いを写真とテキストでわかりやすく示している。ツルマメは「小葉が細く、花の長さが短く、小型。果実は全体に毛があり、種子の表面もざらつく」と。ヤブマメは「小葉の幅が広く、花の長さが長く、やや日陰を好む」と。

10日から14日後を目安にまた来てみることとしよう。

神谷美恵子という人

『神谷美恵子の日記』(角川書店)を立ち読みして、「なんという人だろう」と。こんな人がいるのだろうか、いたのだ、確かに。そして、確かめるためにこれから読んでみようと思う。

一九三九年四月二日(日)より

《夕方バッハのカンタータをラジオできいて心のハイマート〔故郷〕に帰った心地がした。軽い調べ底に流れる深い悲哀、この世に関する限りこれが本当の調子であることを思う。よろこんでいる人よりははるかに数の多い人々の苦しみと悲しみと、人生そのものにまつわる悲哀とを思う。
私は自分一個のためにもう充分苦しんだ。今はもはや自分のために苦しんでいる時でも喜んでいる時でもない。》

「今はもはや自分のために苦しんでいる時でも喜んでいる時でもない」
神谷美恵子、25歳の言葉である。この年1939年に、反対していた父が医学に進むことを受入れ、それを「転回」と記している。

中井久夫はこう書いている。

《二十五歳の日に「病人が呼んでいる」!」と友人に語って医学校に入る決心をされたと記されている。このただごとでない召命感というべきものをバネとして医者になった人は、他にいるとしても例外中の例外である》

みすず書房の中井久夫集1に収められている「精神科医としての神谷美恵子さんについて」の一文である。この短いテキストには、幾度も読み返したくなる何かがある。間にあるものを捉えようとして寄せては返す波のように、動いている、その波が私を引き寄せる。また、中井のあらゆるテキストへつながる根がここにあるようにも思う。

《病いに呼びかけられ、病いを恐れ、憎しみつつ、偏愛し、憧憬し、病いに問いかけるという両義性が時に名医と呼ばれる人の中に発見されるように私は思う。たとえば脳外科の開拓者たちに。このような両義的な対象愛は職人に近縁であり、職人と同じく有能であることによってはじめて許容されるものである》

そして中井は、両義的な対象愛とそれを許容しうる有能を彼女は有していたであろうと述べつつ、《しかし、彼女は「病に呼ばれた」のでなく「病人に呼ばれた」のである》と断ずる。
「病に呼ばれた」のではなく「病人に呼ばれた」。この違いをしばらく考えてみたい。

 

 

ナバニコ考#3

ナバニコなる語彙は、日原の土地で生まれたものではないか。
背負梯子をニコと呼んでいた日原に、茸師(なばつくり:日原、匹見での語彙)が、新奇である特徴をもったニコを持ち込んだ。そのニコを在来のニコとは区別してナバニコと土地の人は呼んだ。やがて土地のニコそのものがナバニコに近づく変化を遂げつつも、ナバニコへと「置き換わっていった」。

そう仮説づけて、ナバニコと椎茸の栽培化で生じた自然認識と環境管理技法の変遷を自然思想史(あるいは民俗学)のなかで捉えてみたい。西中国地方から九州にかけてのローカルなそれとして。時代のなかでは石見地方のたたら師が九州へと流れていくのと逆の流れ、人の流れが九州から石見へとあることを意識してみたい。

材料は乏しく、わずかな断片からそこまで広げようとすれば、孤立的離散的な諸事実に架空の連関と歴史を賦与するだけだという誹りを受けよう。誹りは一向にかまわない。意思と冷徹な頭をもって行けるところまで行ってみたい。

ナバニコと名付けられた民具が展示されているのは、日原歴史民俗資料館。開館は昭和56年(1981)11月4日。大庭良美が蒐集と開館へ向けて指導したもので、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にまとめられている。そのあとがき、すなわち開館記念の挨拶の記録には次の一言がしるされている。

《今後に残された問題
一、開館はしたがこれで完成したのではない。まだ足らぬものもたくさんあり、これで十分ということはないからひきつづき資料を収集して充実したものにしなければいけない。
二、資料には一つ一つ写真や図をつけ、名称、使用方法、使用場所、使用年代、製作者、材質、寄贈者等くわしいことを記入した台帳を整備しなければいけない。》

昭和56年11月4日は、はじまりに過ぎない。そこから何がどのように進展したのか、今知ることはできない。何もないかのようにすら見える。だが、公開されていないだけで何かが残っているはずだ。そこからさらに歩を進めるために、足がかりを探してみよう。ひとつには、ここで記されている台帳が閲覧できればと思う。

そして、もうひとつ、蒐集者のこと。大庭良美が民具蒐集にあたりたどった足跡である。代表的著作には『石見日原聞書』、『家郷七十年』『唐人おくり』があるが、寄稿論文で書籍にまとまっていないものもあるだろう。それらを年代順に整理しよう。大庭の民俗学への傾倒、そのはじまりは幼少の頃の星空への憧れであったか。随筆に記されているかもしれない未読のそれをあたること。野尻抱影とは無名の頃からの文通があった。野尻が星の民俗を蒐集しはじめるきっかけとなった、最初に星座の地方名を書き送ったのは他ならぬ若き大庭良美である。

大庭が東京のアチック・ミューゼアムへ野尻抱影の紹介で訪問したのは昭和12年1月21日。この時、磯貝勇から『民具蒐集調査要目』『山村語彙採集帳』を出してこられ、民具名彙や農村語彙を採集してみたらとすすめられている。

地方名というものに大庭の関心のみならず、それをどう扱うべきかについての深い洞察があったことはこれら状況から推察できる。ただ『日原の民俗資料』にはその面は希薄であろうか。6年後の1992年に刊行された『日原民具志』と比較してみようと思う。

ナバニコと同様の民具名として、安田村(現益田市安田)の「なば山負子」がある。『安田村発展史』p.407からひろっておく。国東治兵衛が椎茸栽培法をもたらしたとする記載中に出てくるのだが、国東治兵衛の椎茸栽培がどこまで成功したかは実際のところ不明である。

《東仙道村ではあし高の背負梯子を、なば山負子と云って居る。椎茸栽培が豊後邊の他國人に指導されたことは、那賀郡杵束村に存する、せんどうばつちの語を見ても、了解できる》

つづく。

 

ナバニコ考#2

木次図書館で確かめた。7月に資料館でみたナバニコは、大庭良美1986に1点ほど掲載されているものとは異なるし、口絵で確認できる2点のナバニコ(らしきもの)とも違う。同書巻末に掲載されている収蔵品目録には「にこ」10点とあるので、どこかに所蔵されているはずである。観覧願いを出して確かめてみたいものだ。

同書の「交通運輸」の章、運搬道具の項に解説と写真がある。p.136-138. 国会図書館デジタルの個人送信でも見ることができる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576167

《普通のにこは在来のもので、荷をのせるコは枝を利用してつくった。なばにこは豊後のなば師が椎茸つくりにきた時持ってきたもので、足が長く、荷をおごねたり、途中で休んだりするのに便利なので、なば師に頼んで作ってもらって使うようになり、次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである》

なば師からはいくらで作ってもらったのだろう。そして、在来のにこと入れ替わっていくのはいつごろのことなのだろう。大庭良美の『石見日原村聞書』も参照するに、日露戦争が終わる頃から大正時代の終わりにかけてではないか。そしてそれは豊後から入ったなば師がひいていく頃でもあったろう。

《在来のにこやなばにこは、草や稲、藁、ひたき、薪といったものから米でも木炭でも何でもかるわれ、なくてはならぬ道具であった。かるい荷の大部分はこれを使った。》

「なくてはならぬ」ものが、「なくてもいい」ものに変わり、消えていくのだが、これほど大事にされてきたものがそう簡単に消え失せるとは思えないし、思わない。こうして博物館の展示を通して、私、令和4年に生きているひとりの人間が、かつてナバニコを背負い、山と山を、山から里へ里から山へ、里からまちへと行き来したもうひとりの人間と出会おうとしているのだし。

「かるい荷の大部分はこれを使った」というナバニコ、在来のニコと置き換わっていったというナバニコ。まずはその時代へ、「わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」と大庭氏のいうその時代へ行ってみよう。『石見日原聞書』が案内してくれる。わたしのところというのは、大庭氏の生まれ育った日原の畑である。天然記念物の大楠で知られる。

文献

†. 大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会