空き屋問題は人口問題ではないの巻

 つれづれなるお話である。筋はとおってない、脱線を繰り返しながら、なんとか辻をあわせていこうと思う。

 朝、ラジオからこんな声が聞こえてきた。

「東京でもあと10年もすれば2軒に1軒は空き屋になる。総体としての住宅価格は暴落する」

 妻曰く。

「えー、そうしたら東京に家買えるかなあ」

 ……。

 そうきたか、いや、そうくるか。

 ひとつ。

 数字でしかモノが見えないと、こうも簡単に頷いてしまうのだ。愚かだと言いたいのではない。どうして考えないのだろうと、その状況を。暴落に至る過程を。現実を、少なくとも自分が知っている住宅、住まい、地域のありようというものを思い浮かべてみれば、そう簡単な話ではないことがわかるだろう。

 妻にはこう言うた。いやいや。買えるは買えるけどね。ほら、半年前に近所で0円の家を見たでしょ。不動産屋にも行って見学もしたでしょ。でも、、買おうとは思わなかった。そりゃそうだ。売ろうにも売れない状態になってしまったのが「空き屋」なのだ。ほとんどの人が買おうとは思わない家、それがほとんどの空き屋の正体。

 むしろ、空き家が一定数に達した段階で、まっとうに人が住めるエリアの住宅価格は値上がりすることも考えられる。

 ひとつ。

 いつから、家は「買う」ものになってしまったのだろう。価格で評価されたり、市場で売買されるものになってしまったのだろう。

 都市生活における集合住宅であるのならば、わからないではない。あるものを「買う」あるいは「取得する」「賃借する」のだから。

 金融、税制、法制…、これらきわめていじりやすい社会制度が「住まい」については適用可能だ。だからこそ、戦後日本はここをかなり人為的に設計したのだ。それが悪いのではない。もはやまったう間尺に合わないことになっているのに、変えられなくなってしまったことが「悪い」のだ。事情を知る人はみなそう考えている。だが、もういじれない。なぜか。いいとかわるいとか、こうすればいいのだということではない。

 なぜ変えられないのか。そこを解いてみることをしてみたい。

 さて、冒頭に述べたラジオのこと。TBSラジオ・荒川強けいのデイキャッチという番組で、ポッドキャストを録音したものがウェブでも視聴できる。そして、番組のなかでコメンテイターの宮台真司氏がドイツの空き家の不法占拠運動のことを引き合いに出していた。記憶違いもあるだろうが、まとめるとおよそこんなふうだ。

・空き屋問題はチャンスでもある。

・とりわけNPOにとって、市民活動にとって。

・ドイツの場合、行政が追認した。なぜなら、人が住んだ方がよいのだから。

 しかし、このドイツの場合、東ドイツのそれがおそらくよく引き合いに出されるのであるけれど、不法占拠民自らが、自治を行ったというのは大きな要素だと思う。「空き屋」が「空き屋」になるゆえんは世界各国どこもそうで、ドイツの不法占拠運動の場合もDIYが必須であって、それも重要な核である。そしてなにより、その法的な決着・解決がなされるまでに、聖職者(教会の司祭)がつねに仲介・指導の労をとっているということに、もっと注目すべきだと思うんですよ、私は。

 行政でも民間でもない立場から事象にアタッチできる機構をもっているというのは、変革や変動や移行期には、ものごとをよりよい方向へと導くキモとなるのだなと。

 そういうものを、たちあげていかねばなりませんなぁ。

荒川強啓デイキャッチ 佐々木紀彦×宮台真司「空き家問題。首都圏では今後、ゴースト化が進む?/ など」2016.06.10

焼畑のアワ、アマランサス、ヒエが発芽

 火入れ&播種から2週間たっても発芽が見られず、何が悪かったのだろうかと思い悩む日が続いていましたが、今日、発芽を確認できました。梅雨に入っての気温上昇と降雨によるものと思います。
 しかし、状況はよくはないです。もっといっせいに出てこなければならんのですけれどね。
 こちらがアワ(のはず)。

 そして、こちらがアマランサス。

 5日前に土を多少起こして筋播きしたヒエは、うまく発芽しています。

伊勢と奈良への旅行計画

 6月19日(日)〜21日(火)に出かけることになりました。ついこの間決まったので、行くところなど決まっていません。もともとは毎年の伊勢参りにあわせて近隣をめぐるという趣旨なので、伊勢に行ければそれでよしといえばよしなのですが、今回奈良に2泊するのは、昨年訪れた「粟ならまち店」がとても刺激になったからです。

 今回は清澄の里の方へ行こうという話ではあったのですが、今日電話を入れてみたところ、20〜21日は休店で19日は予約で満席でした。

 「銀花」に載っていたのがかれこれ○年前。東京で編集者をしていた頃のことで、書籍のネタとして考えていただけであって、まさかそれから吉賀町へ移住し、奥出雲へ移住し、焼き畑をやりながら、幻の粟を探し求めることになっていようとは。です。

 

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 粟を立ち上げた三浦氏は、奈良の在来である「むこだまし」を再生しているといいますが、他の粟の品種があればちょいと見てみたいですよ、ヒエ、キビなどの雑穀があればそこも。ちゅうわけで、とりあえず明日「聞き書き奈良の食事」を閲覧してみようかと思います。

 井口先生に聞いてみようかな。

 そして、数少ない読者の皆様、たまたま通りかかった皆様へ。

 この伊勢行きは、奥出雲で新たな食をつくっていくためのヒントを求める旅でもあるのですが、ここぞというお店や農園などご紹介いただければ幸甚です。

※大阪ではスリランカカレーのお店「カラピンチャ」へ行きたかったのですが、こちらも休店日でした〜。

『聞き書き奈良の食事』1992,農文協

奈良盆地の食-茶がゆで明ける「国のまほろば」大和の朝

斑鳩の里の食-水田裏作のえんどうが潤す、塔のある柿の里

葛城山麓「竹内」の食-峠の清水がおいしい米を育む街道沿いの村

大和高原の食-秋きゅうり、トマトも育つ茶畑に、摘みこさんが散り茶の香が満ちる

奥宇陀の食-炭焼き、養蚕の力のもとは伊勢の魚と麦茶がゆ

吉野川流域の食-黒潮の香りを運ぶ塩さばが吉野の里の祭りの主役

十津川郷の食-熊野を結ぶ峡谷を筏が下り、つぼ切りさえれが遡る

古都奈良の宗教風土と味

人の一生と食べもの

奈良の食とその背景

経済循環の中のボトルネック解消と焼き畑農法〜その1

日本のほとんどの地方都市経済圏が直面しているのは、産業構造の転換がはかれないし、そのリスクを背負えないほどに疲弊してしまっていることである。
極端な話、十分すぎるほどの投資が呼び込めればどんな都市だって、まだまだ成長も発展も可能である。
さて、やや疲弊した中規模の都市経済において、資源(人、金、物)が極めて限定された局面では、ボトルネックを解消する手法がしばしば有効である。端的にいえば「ひとりの落ちこぼれをなくすことで、全体が成長する」やり方である。社内教育であれば、いちばん成績の悪い人物だけにリソース(指導)を集中させて問題の解決をはかる。これは、組織の矛盾や問題はもっとも「できない」と思われている人物の中に凝縮されているという考えに基づく。その人物を指導する過程で得られる情報は組織全体の分析とも通底する。つまりは、そのひとりの再生に成功したノウハウは組織全体に適応できる。
この方法は、社内教育や組織運営だけにとどまらない。地域経済とはサービス=貨幣の循環でもあるのだが、その循環の不全がどこで起こっているのか、端的にはいちばん衰退の激しい業界・産業・企業を観ることで、全体の問題解決へと結びつけることが可能である。
この考えの射程をぐんと広げてみると、焼き畑農法がなぜ衰退したのか、雑穀栽培がなぜ衰退消滅したのかを分析し、再生をはかることが、地域経済の活性化に資するのではないかという論点が姿を現してくる。……のだが、その前の補助線として、地域経済循環構造について、ひとつの図を提示してこの「その1」を終える。
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環境省「地域経済循環分析とは」平成27年12月4日より

温海カブと三沢のカブと料理教室

 梅雨に入ってからというもの、雑草の成長も早いが、芽が出るのも早い。畑に持ち帰っていた温海カブのこぼれ種からも芽が出ていた。サラダ菜として1ヶ月後くらいに出せたりするのかな。
 それはさておき、今年の焼き畑では温海カブをしっかりとっていきたい。とるということは、丁寧にまく(うまくまく)ということであり、間引きを適切に行うということであり、収穫と同時に美味しく食べるということ、そしていくばくかでも買ってもらうことで、次年度の活動資金としたいのです。
 そこを目指すことで、暑い日でも少々身体がだるい日でも、ちょっと頑張れるってもんです。
 お店で使ってもらうことや、オーガニックマーケットへの出店も考えていたのですが、料理教室で使ってもらうというナイスアイデアが妻から。おおお、それはよいぞなもし。
 いつ焼けるかにもよるのですが、昨年より1ヶ月早い種蒔きの予定であるから、11月には収穫がはじめられるはず、順調にいけば。昨年並みであれば、12月から1月か。雪が怖いけれど、イベントも少なくなる1月は狙い目ではある。
 11月〜1月の線で、企画をたてはじめてみようぞな、もし。
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 上の写真は温海カブ。種は昨年焼いた畑から取ったものを播く予定なので、奥出雲産温海カブということでいこうか。
 そして、三沢の年取りカブを試してみたいのですね。温海カブより甘みがあって、葉もアクが少なくサラダとしても使える味わいだったので。
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老松には夏がこたえるらしい

Mさんに松の手入れにきていただいた。ていねいにやっていただいた。頭の下がる思いである。ありがたい。

松蔵と名付けた我が家の庭の老松。前の家主から百年を超える樹齢だと聞いているが定かではない。家が建ったのが昭和30年?だったろうか。家よりも年を重ねているだろうから、90〜100歳というのは妥当な線だろう。

新芽だけを残して他の葉をとってしまっているのは、菌に感染しているからだ。薬で退治する方法もあるらしいが、対処療法であるし、1ヶ月に1度は薬剤を散布しつづける。もともと体力が落ちている老人と同様、一度薬を使い始めれれば、ずーっと使い続けなければすぐに症状は出てくるものだというのだから、松蔵にとってもよい選択ではないだろう(と思う)。

樹勢が回復すれば、病気にもかかりにくくなる。樹勢を回復させる方法はいくつかある。ここからはMさんから聞いたことを主として箇条書きにして備忘とする。

・松は砂地など滋養の乏しい地に率先優先して根をおろす樹種である。土中の菌との共生関係を築くのだが、それは特定の菌種との関係である。

・上記とも関連して、樹勢が衰えたときにも、肥料の投入は功を奏さない。むしろ肥料をとりのぞくくらいのほうがよい。土を砂地にしてみるなどで回復させることもある。

液肥を施すことで回復ははかれる。市販のもの。

・何か手を入れるのであれば、秋以降。12月から年明けくらいまでがダメージが少ないと思われる。

・夏のかんかん照りで水が乏しい時には朝早くか夕暮れに水をやったほうがいい。葉に直接かけるのでもいい。松は水をやらなくてもいいなどというが、そうでもない。とくに弱っているときには。

・根元の豆科系の植物はとったほうがいい。

・菌にやられて茶色くなった葉もとりのぞいたり、地面に落ちたものも取り除くなどしたほうがいい。

……といったところかな。思い出したら追記します。豆はとって鉢に移そうと思う。すぐはびこるので、大きめのプラ鉢にいれて駐車場のうしろでもいいかもね。

竹の焼き畑2016-sec.7〜竹林伐開はじめだった日に

6月4日(土)。6名が参加しての山入りでしたが、中国地方、梅雨入り宣言です。もともと天気予報も夕刻から降雨でしたが、どうやら昼過ぎから落ちそうな気配。そんなこんなもあって、この日から伐開開始予定でしたが、課題協議に1時間ほどとサツマイモの植え付けで午前は終了。島根大チームはここで撤収。
午後は引き続き、ヒエの播種を行いました。


アワとアマランサスの発芽がみられないこともあり、竹の根ががちがちに張った土を起こして、そこに種を丁寧にまく方式を試します。

昨年初秋の温海カブの場合には焼いた後にばらまくだけで発芽は良好でした。発芽には気温や雨量など諸条件ありますが、雑穀の種は違うのかもしれません。そして、温海カブは焼畑で育種されてきた種ですが、今回播種している種はそうではありません。
このヒエの発芽が良好ならば(早ければ1週間で出るはず)、急遽、少量であっても、アワ・アマランサスで追試(追加種蒔き)に挑まねば。
先週定植した匍匐性のミニトマトは無事根付いたようです。こちらは、めでたしめでし、ひとまずは。

そうこうしているうちに、夏焼きの日程がつまっており、人出が足りません。6月中旬、下旬と連続して説明勧誘会を開きますので、どうぞよろしゅう。
島大の某研究室で焼畑ゼミもどうやら開かれます。なんと毎週! 詳報は追って。
そして今日の協議での雑感。昨今の大学生は多忙だとはいえサークル活動は盛んなようです。が、ものをつくる活動は概して低調不人気なようです。”コスパ”でみれば、ものづくりは避けて通る道として認識されている。大学生の本分は要領の良さだということを官学あげて推奨しておられることが功を奏しているのでしょう。
ものをつくる人間がいなくなったら、早晩、社会も文明も世界も終わるのですから、まあ、一般意志なるものは、終わりに向かう道を選択したのでしょう。しかし道はひとつではないので、獣道なり小道なりのものはここにつくっておきたいなあと思っています。以上。

東京から出雲へ

 羽田から出雲へ発つときに撮影。
 死ぬまであと何回、この景色を見ることができるのだろう。20歳の時に見るのと、50歳の時に見るのとでは、それは違うということには、誰も少なからず同意するであろう。
 いや、それは同じだとあえて言うのだとすれば、その視線の源はこの窓に対して座しているひとりの人間の存在を景色から取り去る必要がある。
 そう、この写真は、窓を通して、とりわけ航空機の窓であることをもって、夕暮れの街の光ではなく、それを観ている個の魂を映しているのだと、そう言いたくなってくる。
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村のはじまり〜1

 日本の村はいつごろから村となったのか? わかったようなわからないような問いではあるが、およそ14世紀頃だとされている。応仁の乱前後のことである。
 さて、島根県仁多郡の北端に位置する三澤郷(現奥出雲町三沢地区、阿井地区の一部、雲南市木次町温泉地区)の成立について、「沢=豊富な水=水源」というものを問いを切り開く先鋒として使ってみたい。
 さするに、三澤における水汲みの場のなかでも、をち水として出雲国国造が朝廷に献上したその水はどこから汲んでいたのか問題の重要ポイントがこの地図の場所である。
 時代は先の村の創生期たる応仁の乱から一時代をさかのぼった奈良・平安の頃になるのだが。
 いやはやさてはて。
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 村の始原への問いは常に頭の片隅にじっとうずくまっている。村を開く、村をはじめる、群れでその土地を占有し、定住することである。むらの語源としてむれ(群れ)があることはどの辞典にも記されていることがらである。移動をつづける狩猟採集あるいは遊牧主体の群れから、ひとつ土地にとどまってそこで命をつないでいくということの始原において、むらは生まれたのだ。
 さするに、それは、私の頭の奥底で、物心つく頃から座しつづける問いへとつながる。
「人は群れとして生きるのか、個として生きるのか」
 村の始原を問うことは、人が群れとして生きるというのはどういうことなのかを問うことなのだ。
 村が人間集団のあり方のなかでも、その基底に位置する形態であるのだから、村は日本だけのものではない。平凡社『世界大百科事典』は「村」の項をこうはじめていてわかりやすい。

〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。

 一般に<村>という場合、それは<町>に対置される存在であることを挙げたのちに、地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な「社会集団」のことであると定義する。しかし村の内実、すなわち村を村たらしめるものの時代・地域による多様なあり方を見よと、筆は読み手をいざなおうとする。
 その誘いにのるのは、次の機会にしよう、すぐに訪れる。
 ヨーロッパ、中東、インド、中国、朝鮮……と、きて、日本のところから抜粋しよう。

中世
 広域の地域区分ないし所領単位である郷や荘の内部に形成された,比較的小さな地域単位ないしそれに対応する共同体を指す語として村が現れる。その時期は地域差があり,中世初頭から始まって,中世後期には一般化する。

このような郷=村は支配の単位であるとともに,百姓相互の地縁的な共同体,いわゆる村落であった。これが発展して自治的な政治組織をもつようになったのが惣村である。草分け的な百姓である住人が集団で開発したことが契機となって村が形成された場合は惣村に発展しやすい。領主側の開発が大きな比重を占めた場合,あるいは領主が村落領主の公文層を支配権力の中に組織した場合など,領主支配が強いと自治的な惣村に発展しにくいが,その場合も,中世後期に百姓による共同体の形成が進む。

近世
(1)成立と特質 人の集住する小地域を村と呼ぶことは古代からあったが,〈村〉という行政単位が出現するのは太閤検地以降の検地によってである。また近世の村はこの時代における最も重要な社会的構成単位でもあった。近世の村の特質は石高制と村請(むらうけ)制である。