ホトホトと餅とダイシコの関係

宮本常一が山口県玖珂郡高根村向峠での調査記録を著作集23に残している。●申年ノ飢饉ー天保7年飢饉ヲ思フ  この続きを今回。
複写したところをふと読み返し、はたと膝を打ったので、思いつきではあるが、記しておくものである。向峠はムカタオと読む。昭和5年時の地図を下に。宮本がこの地、向峠を訪れたのは昭和14年のことであり、ほぼ当時の地理を伝えていると思う。

深谷川の深い谷の上にある様がわかると思うが、写真だとさらに明確。国土地理院のウェブサイトにある1947/09/19(昭22)米軍撮影空中写真の向峠周辺を下におく。まるで谷と山に囲まれた島のように見える。実際、谷底以上に弧立した村であったのではないかと想像する。まとまった平地はあるものの、モノと人とが行き交う道からははずれやすいのではないか。

それだけに、古いものを残していたではないかと想像する。
さて、向峠の「年齢集団と行事」としてまとめられた項のひとつトロヘエ。宮本はこう記している。

トロヘエ 正月十五日の夜、若者達は藁草履を作り、また藁で馬を作り、あるいは竹で茶柄杓などを作って手拭で顔をかくし、家に投げ込んで歩いた。するとその家では餅をくれた。そういうとき「若い衆が来た時にはかまうてやれ」といい水をかけたり、餅をもらうために家の中へ手をさし入れるとかくれていてその手をつかみ、顔を見ようとしたりした。ずるいのになると馬や草鞋に縄をつけて投げ込んでおいて、かえる時にはまたひいてかえるものもあった。  またしみったれた家や村で人気の悪い家へは報復した。たとえばちょうど入口のところへ肥をタゴに汲んでおいたなどという話が残っている。村を一まわりすると適当な家へ集って焼いて食べた。若連中ばかりでなく、ごく貧乏なものは袋をさげて昼やって来た。入口でトロトロというと家のものは餅を一つずつやった。貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履など持って歩いた。老人はたいてい草履を二足出した。  若連中がトロヘエをやめたのは明治二十七、八年頃であり、貧しい仲間は明治三四、五年までやっていた。貧しいものは村内の者だけではなく、隣村からも随分来たもので、深須村のある女の如きは大正年代までやって来たという。》

以下、5つのポイントをあげつつ、のちほど追記することを前提としたメモであることを断りつつ記す。
トロヘンが来訪神の系譜をもちながら、ナマハゲと違うところは、ふたつの欠如だ。
・そこに「神」はいない。だれも神も鬼も信じていない……かのように見える。しかし、神を持ち出すことで、このパフォーマンスが成り立っている。
・恐怖の出現はそこにはない。恐怖の不在。
ごく貧乏なものは袋をさげて昼やって来た。そこには儀礼はないようでいて、入口で訪問者は「トロトロという」ことで、家のものが餅をやるという。
貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履をもって歩いた。
・これは他の地域での事例を知らない。どういうことなのか。ここで記された老人仲間とはなにか。大変重要なことだと思うのだが、、、。家を訪れるのは、3者である。共通するものは家人が餅を与えるということだ。
来訪する3者がやめた時期は次の順序である
・若連中は明治28年頃にやめた
・貧しい仲間(老人仲間? 若連中のなかで貧しいもの?)は明治35年頃
・深須村のある女は大正年代まできていた→他村からもきていたというということである。うむう。
餅は神に供えるものであると同時に神からの贈り物であると考えたときにこの事象をどうとらえるか。すなわち何と何が交換されるのか。
・若者連中が贈るものは「藁草履」「藁馬」「茶柄杓」。ほかでは聞かない茶柄杓とはなにか。
・老人仲間が贈るものは「藁草履」
・貧しいものは何も贈らない。 ダイシコについては、のちほど加筆するが、柳田國男の引用だけしておく 物忌と精進より

《神巡遊の信仰の今日年中行事になっているものは、旧11月23日を中心としたいわゆる御大師講であるが、この解説には仏法が干与して…………(中略)…土地によって少しずつ話はちがうが、大師の足跡隠しといってこの日は必ずゆきが降るといい、または二股大根を女が洗っている処へ来て、半分貰って食べたという類のおかしい言い伝えばかりが多い。…………(中略)…その結論だけを言ってみると、ダイシは上代に入ってきた漢語で、大子(おおいこ)すなわち神の長子の意かと思われる。大昔以来の民間の信仰では、冬と春との境に特に我々の間を巡ってあるきたまう神があって、それは天つ神の大子であるという信仰があったらしいのである。…………(中略)…日本では二十三夜待ちという信仰がど、どうやらこれと関係があるらしい》

先日、阿井で聞いた「タイシコ」の日は餅をついて食べるのだという。年末であるが、年取りの餅とは違うというのだ。旧暦11月23日のタイシコが、新暦導入のなかで、年末に固定したものではないだろうかと推するが、どうなのだろう。
→つづきは以下 ・「雲南地域におけるダイシコ(大師講)の断片」

◆追記 向峠は街道筋にあたった?
向峠が孤立した村落だなんてとんでもなかった、の、かもしれない。番所を通る道筋にあたっていたようなのだ。野田泉光院の「日本九峰修行日記第2巻」。文化11年に岩国から錦町、そしてこの向峠のそばを通った記録がある。石川英輔は『泉光院江戸旅日記』で、こう記している(釈している)。
《十四日、栗栖村を発って安芸と長門(長州・山口県北西部)の境界になる峠(生山峠)を超えて大原(山口県玖珂郡錦町大原)へ出、さらにもう一つの峠(向峠)を登ると、長州と石見国津和野領の境杭があった。少し下ると番所があったが、手形を出す必要はなかった。田原村(島根県鹿足郡六日市町田野原)泊。》
原著ではどうなっているか。
《十四日、晴天。朝辰の刻栗栖村出立。当村より二里の大峠を越え、又一里の峠を越し大原村と云うに下る、又山へ上がれば此所に石州津和野領境杭あり、下に番所あり、手形出すに及ばす津和野領田原村源治と云う宅へ宿す。》
問題は、距離、時間、そして峠の上り下り。地図をひろげつつ、泉光院の足取りを確かめてみたい。原著と地図をみると、向峠を通っていないのようにもとれる。つまり石川が誤っているということ。峠という文字にひっかかったのだろうか? あれ? ムカタオは峠ではなかったか?  大原→宇佐→田野原という道であれば、向峠は通らない。  長州から津和野に入るルートはどうなっていたのか。番所があるくらいだから、古地図を確かめるのが早いのでは、とも思う。 ちょっとあたってみよう。
(つづく)

◆追記2 野田泉光院は向峠を通らず星坂村を通った
古地図をみた。街道は日本輿地路程全図 をみるに、大原から星坂を通るようだ。星坂の文字があるのは意外だったので、角川歴史地名大辞典を参照したところ、あっさり結論がでた。表題の通りである。

《江堂の峠に周防国との境界石がたてられたが、現在は田野原の柏谷に移建されている。津和野藩より萩藩に通じる長崎街道(廿日市街道)筋で、藩主亀井氏の参勤交代の通路にあたるため慶長年間に番所が設けられ、士卒数人が常駐していた》

そう、向峠はやはり孤立した集落であったのだ。

カラサデさんの「実際の言い伝え」

《習俗は理由もなく消えたり生き残ったりしない……

それが生き残り続けているとすれば、機能の永続性の中にこそ”真実の理由”を見いだすことである》

レヴィストロースの言葉に引かれながら、少しずつ読んだり聞いたりしている。きょうは午後から県立図書館。郷土資料室の書庫に小さな封筒に入った冊子がある。はじめて閲覧した。酸化で茶色に風化し、めくればパラパラとくだけてしまうようで、そーっと1枚1枚をめくる。日本がまだGHQ占領統治下にあった昭和23年10月、島根民俗通信第8号(終刊号)である。

巻頭にあるのは柳田國男「ミカハリ考の試み」。

《出雲のカラサデサンなどは土地の人が率先してこれを馬鹿馬鹿しがり、実際の言い伝えを我々に教えてくれない》と嘆いている。また、柳田は祭日考のなかで、出雲の神在祭を痛烈に批判している。「まことにたわいのない俗説」「論破するまでもない」「不道徳である」(「祭日考〜出雲のいわゆる神在祭」)と。それもこれも、柳田がこの頃、もっとも気にかけていたテーマについて、出雲がもっとも多くの資料を持ち伝えているとみていたからだということが、「ミカハリ考の試み」からもわかる。

さて、その柳田の寄稿のあとに、応答ともつかない小さな報告が寄せられている。そこには、私たちがおそらく聞いたことのなかった「実際の言い伝え」が記されていた。柳田はこれを読まなかったか、無視することにしたのだろうか。

その報告は、短くはあるが、そうであったかと膝をたたきたくなる内容だ。

カラサデのサデは掻くこと。それは神が人を殺す日だった。

「この晩…、神様が人間を三人サデられる。それで昔は必ず人間の死体が三つあった」

お忌みさんの頃、冷たい風が戸口をコトコトと叩く。

餅をついて家にまつる神に供え、戸口の外には悪霊に備える餅をぶらさげ、通り過ぎていってくれるのをひたすた静かに待った時代を、いまどうやって想像したものだろう。

冬は幼い命と年をとった命が消えやすい季節である(あった)ことを、思い起こしてみるだけでは、どうもすまなさそうだ。

いまの世に、神にサデられるのは、だれなのか。その神はどこにいるのか。真実の理由を探しもとめる日がつづく。

11月24日開催

カラサデ婆の悲しき真実〜石塚尊俊『神去来』(本の話#0009)

ホトホトと鳥追い

島根県雲南市木次でのとんどさんは、あらたか先週末の7日か8日に行われ、元来の小正月である十五日に執り行うところはごくわずかだ。先週行ってきた頓原のトロヘイも、もともとは十五日の前夜にやるものであったのを、諸事情、すなわち人間の側の都合で土日にずらして行っている。神事であるよりは人事(イベント)なのだから、致し方ないことであるし、それが道理でもあろう。60年か70年ばかり前の時代に柳田國男が嘆いたのは、それがもともとなんであったのかを覚えているものもいなくなるという事態であった。それすらも過去のことになってどれほどがたつのだろう。この帰結がどうなるのか。嘆きとともにあったのは、まだ手をのばせば取り戻せるのにという無念であった。今の時代、その痕跡さえも失われてひさしい。だがしかしそれでも、追ってみたいものはある。僅かな残り香のようなものを頼りに。無為多忙なるに流されながら、せめてメモのような箇条書きを今日は記しておく。

柳田国男の「小さきものたちへ」に所収されている「神に依りてきたる」。そこには、トロヘイ、ホトホト、トベトベ、と、地方地方でさまざまに呼ばれ、豊富なヴァリアントをもつ小正月の行事が羅列されている。そのもっとも深い本質は何か。柳田が標題にしたように、それは

《われわれは久しい間、少なくとも年に一度ずつ、神に扮して出る役目を持っていました。》

ということとして、整理してみるのがよい。  およその概略は伯耆・出雲の「ホトホト」が公約的なものであったのか、こう延べられている。

伯耆・出雲辺ではホトホトとよんでいました。正月十四日の夜、村内の若者が藁で作った馬・牛の綱、あるいは銭緡の類を以て人家の戸口に立ち、小さな作り声をしてホトホト、ホトホトというのです。そうすると家では盆に餅や銭を載せて、出て来てこれをくれるのですが、同時に作り声のだれであるかを見現そうとし、一方はあてられないようにするのをてがらとします。通例は、そっと水を汲んで来て不意に打ち掛け、びっくりする地声を聞こうとしました。》

これが東北・東日本では「鳥追い」として伝わっているものが多い。その意味付けはホトホトとは異なるが、家々を尋ね、餅や銭をもらうという点は同質であり、何より「子ども=神の代理」であることは変わらない。

ここに「とんど行事」と子供組、あるいは若者組の仮設小屋がどう関係してきたのかが、この小正月の神事の変遷を夢想してみる鍵となるだろう。

産屋が新たな生命を得る場として、日常世界から切り離された場に設けられたように、とんどの前に藁でかけられる小屋は、あらたな歳=たまを得るための忌み籠もる場であったのだと思われるし、それを仮説として、より奥へとわけいってみたい。  ……つづく。

頓原張戸のトロヘイ

来訪神がちょっとしたブームかもしれません。日本でもっとも知られているのは秋田のナマハゲですが、近年、子供への虐待なのでやめてほしいという苦情・訴えによって存続があやぶまれているとか。一方でナマハゲ含め日本の来訪神行事をユネスコの人類無形文化遺産へ「登録すべく」申請中でもあるとか。

文化庁が申請中の「来訪神:仮面・仮装の神々」にあげられているのは、以下のものです。

・甑島(こしきじま)のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)
・男鹿(おが)のナマハゲ(秋田県男鹿市)
・能登のアマメハギ(石川県輪島市・能登町)
・宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)
・遊佐(ゆざ)の小正月行事(アマハゲ)(山形県遊佐町)
・米川(よねかわ)の水かぶり(宮城県登米市)…宮城県登米市「米川の水かぶり」小考 | 文化遺産の世界
・見島(みしま)のカセドリ(佐賀県佐賀市)
・吉浜(よしはま)のスネカ(岩手県大船渡市)

のちほど、動画のリンクなどはっておきましょうぞ。

さて、トロヘイです。昨日1月7日に頓原張戸でやると聞いたので見学してきました。知る限り、県内で現存しているのは、頓原地区のみです。かつて、島根県内では、現在の雲南市、奥出雲町、飯南町、安来市、旧簸川郡、美郷町、浜田市など、ひろく行われていたものです。まとまった記録をみたことがありませんが、金城の西中国山地民具を守る会で、1988年に《古老による「トロヘイ」の復元、記録作成 (1988年2月)》を実践されています。
あるいは映像記録が一部でも残っているやもしれません。(以前「実践民俗学」の記録について隅田氏に聞いたところでは、大半が残っていないと聞きました)。
奥出雲町阿井では大正時代に風紀紊乱を理由に禁止されたトロヘイ。日本国語大辞典では簡潔にこう定義しています。《小正月に村の青年などが変装して家々を訪れ、銭や餠(もち)をもらって歩く行事を、広島県あたりでいう。》  ………
えー、のちほど加筆するとして、今日のところは写真をアップしておしまいにします。眠いのですまん。  ここでも何度かなくなり復活しを繰り返されているようです。現在は頓原の公民館活動のひとつですが、最大の理由は子供の数が少なくなってしまったから。今年の張戸地区の子供(小学生までか)は5人。

馬と水の組み合わせにいたく刺激され、帰路、いろいろと妄想いたしました。 大正2年刊の『高田郡誌』では年中行事の2月の項にあらわれている。

《前高田諸村は陰暦十三日、後高田、奥高田は十四日、トノヘイ又はトロヘイ、トトラヘイ、鳥追幣杯と稱し貧家の少年或いは奴僕等郡をなして来り、大家の門前に喧騒し、牛馬の索沓等を献ず、餅又は米銭を與えて去らしむ、古来此日には人の門に立つを恥とせざる風俗と云う、其何故たるを知らず、或は戦国武士の流落身を寄するなき者の為に貧民食を請うの遺風にて、殿への意にはあらずやと云ふ、未だ其証を得ず近年此風殆んど廃す。》

乞食原理の風に重きをおいた記載です。風紀紊乱を理由として禁止される向きにはこの風が著しくあらわれた時代においてでしょう。ただ、乞食原理というも、もとをたどれば神の訪れと軌をならべることもあり、なかなかに事情は複雑です。  柳田国男は『食物と心臓』のなかでこう記しています。

《小正月の前の宵に家々の門をたたいて、餅をもらいあるく行事は全国的で、地方によってカパカパ・チャセゴ・カセギドリ・カサトリ・ホトホト・トベトベなど、十数種の異名のあることはすでに知られているが、これにも家々の幸福を主として祝うものと、訪問者自身の必要のためにするものとがあって、その堺は犬牙交錯している。岡山県北部のコトコトは厄年の男女の心願であったといい、四国の大部分から中国へかけての粥釣りなども、名の起こりはまたこの七軒乞食であったらしいのである》

出雲びとのみぬは〜折口『水の女』

山あがりの文献渉猟の途上、折口の『水の女』に、1年以上寝かせたままの宿題を再発見。これも記しておく。

《神賀詞を唱えた国造の国の出雲では、みぬまの神名であることを知ってもいた。みぬはとしてである。風土記には、二社を登録している。二つながら、現に国造のいる杵築にあったのである》

みぬはの神をまつる社が杵築に2社あるといわれても、なかなかすぐには出てこない。杵築の地とひろくとらえて旧出雲郡のなかでみてみると風土記に「彌努婆社」とあるのがそのひとつ。
延喜式神名帳では、美努麻神社である。現在の奥宇賀神社として大正2年に社殿造営して遷合祀。江戸期には和田大明神として、和田灘に社があったようだ。 現在の祭神は経津主神。また、奥宇賀神社には時を同じくして合祀された『風土記』記載の「布世社」があり、江戸期は「籠守明神」と称されていたことは興味深い。旧くは奥宇賀布施宮床鎮座。旧三沢郷内の旧平田村に鎮座する籠守明神との符合やいかに、というところだろうか。飛びすぎてはいるが。現在の祭神は息長足姫命・伏雷命・武内宿禰命大己貴命

参照:変若水

「女が卯月に山に入るのは…」折口を拾う

 孫引きですが、折口信夫全集15巻に「女の山ごもり」の記述があったので、拾っておく。

《女が卯月に山に入るのは(中略)、機内では諸処に行われてゐることである。その年に早乙女になるものが、一日山で暮らして来る慣わしも、山籠りといふ。一日山に籠った帰りには躑躅の花を頭髪に挿して降りて来て、自分の家や田や、神棚に其花を立てて置く(中略)。とにかく女が山籠りをして其年に、早処女になる行事をする。昔は女が山へ登ることなど殆、せなかったが、年に一度だけ登山して、はじめて田の神に事える資格を得て、頭に躑躅を挿して下りて来て、女になるのである。女になるものには、初めて娘から女になるものと、幾度も女になるものとがある。女になる為に、山の中で何か秘密の行事が行われたと思われるが、どんなことが行われたのか、今からは訣らなくなってしまって、表面の花摘みだけが信仰を忘れた年中行事の一つとして残っている》

 「山籠り」の話は、折口の『花の話』『盆踊りの話』『水の女』にも出ており、青空文庫で読むことができる。   以下を参照

izumo.hatenablog.jp

卯月八日の山あがりについて

 柳田国男の「先祖の話」を読み直していて出くわした一文がある。”帰る山”から”卯月八日”にかけてみられる記述であるのだが、やや錯綜している。まるで野山に無数に走る獣道のように。いや、錯綜は、「先祖の話」全般にわたってのことだ。本土空襲の惨禍にあった太平洋戦争の末期に筆をはしらせていた文である。いやいや。そうではない。錯綜しているのは私か。戦争がここでどう関係しているかは瑣末なことだ。柳田が民俗学を通して求め続けていたものがここに表出している。学問ではない、生きることそのものへの問いがここにはある。それがゆえの錯綜(と見えてしまうもの)なのだ。

《四月に先祖の祭りをするという習わしは、捜して見つけるほどの珍しい古いものであった。それが大昔の新年であったという、私の考証の正しいか否かは別として、ともかくも今ある年の暮れのみたまの飯よりも、また一つ前の慣例だったのである。それがただ多くの山宮の大祭の日となり、もしくは、苗代の労作を前に控えた、若い農民たちの行楽の一日となって、どうして卯月の八日であるかの説明は不可能であるかのように思われていた。……(中略)……そうして赤城山麓の二村のような事実が、たったひとつでも確かめ得られるとなると、たとえ断定は下すことができなくとも、これでまたふたたび若い新しい問題として、学者に取り上げられてよいことになるのである。》

 このテキストに先行する、柳田がその価値を「発見」した赤城山麓の二村の事例の件はこうである。

《関西方面と比べると、東国は一体に四月八日の行事は希薄なように思っていたが、赤城山にはなおこの日の山登りが行われていた。そうしてその東麓の黒保根(くろほね)・東(あずま)の二村だけでは、過去1年の間に死者のあった家々から、必ず登山する慣習があって、それを亡くなった人に逢いに行くといっているそうである。……(中略)……ともかくも山中には六道の辻や賽の川原、血の池地獄などという地名が残っているというのは、多分はそれが路筋でありまた巡拝の地だったことを意味するのであろう。》

 現在、それはこの文が書かれた終戦間際の時代から50年以上が経過した2016年の現在にあって、「卯月八日」とはなんなのかといえば、「花祭り」、釈迦の生誕を祝う祭り、灌仏会(かんぶつえ)である。灌仏会花祭りと称したのは大正時代以降であるらしい。四月八日という期日がグレゴリオ暦で桜の開花時期と重なることによることから、蓮窓寺(東京市浅草区花川戸・真宗大谷派)の僧侶安藤嶺丸が「花まつり」の呼称を提唱して世俗化させたようだ。安藤が、大正時代初めに「花さかじいさんお釈迦さま」というキャッチコピーで、最初は日比谷公園を会場に、釈尊の生誕をたたえる運動として展開したのが嚆矢である(全青協発行『ぴっぱら』四月号)。

 しかるに、柳田の一文に「花祭り」は出てこない。本来・原始の四月八日の行事に折り重なるようにして古態を覆い隠しているのは、山宮の大祭の日であり、苗代の労作を前に控えた若い農民たちの行楽の一日であるとしている。現代を生きる我々には、このふたつのほうこそが異例であろう。

 そして、ここで柳田がふれなかったものとして、『花』がある。当時花祭りは今ほど盛んで庶民が享受する祭りではなかったのかもしれない。しかし、花を山からとってきて庭先や木の枝に高く掲げる習俗は西日本で多く見られていたはずである。伊藤唯真の「卯月八日」の説明を世界大百科から以下にひく。

《4月8日を中心とした民間の年中行事。この日は花祭,灌仏会の行われる日であるが,民間では,釈迦降誕とは関係のない行事が多い。この日を野山に出て飲食をする遊び日としているところは全国的にみられ,東日本では山神の祭日や山開きの日にあてている例が多い。近畿以東の霊山にある神社では,この日を祭日とする所がかなりある。西日本では〈高花〉〈天道花(てんとうばな)〉〈夏花(げばな)〉などと称して,竹ざおの先にシャクナゲツツジ,シキミ,ウノハナなどを束ね,庭先や木の枝に高く掲げる習俗が卓越している。》

 そう「花」である。

 花を象徴として持ち出すことで、民俗行事としてあった「山あがり」と「灌仏会」が習合している。

A:花(咲き散るもの)に宿るのは、山の神、田の神、祖先の霊であるとしよう。

B:木(榊、ミドリギ)に宿るのは、神であるとしよう。

 

 ここで《四月に先祖の祭りをする=大昔の新年》を持ち出す前に、今もそうである12月の大晦日から1月の新年にあたる先祖祭りを文献で見るときに、それは「先祖」でない「死者」でもあったのではないか。

「雲陽誌」にもあるあの話。

そして、有名なこの話。

 ……えーっと、ここらはあとで加筆します。すみません。

 以下、伊藤唯真の「卯月八日」(世界大百科)から再度続きをひく。※なお伊藤は1992『日本史大事典 1』(平凡社)の中でも解説しているが未見である。

兵庫県氷上郡では〈花折り始め〉といって,死者があった家では他家に嫁いだ子女が墓参りをする日となっている。また同県宝塚市三田市では〈花施餓鬼〉といって,施餓鬼が行われ,死者を供養する(現行では5月8日)。卯月八日の民俗では,とくに春山入り,花立て,死者ないし祖先供養が目立つが,本来は家々で死霊・祖霊を迎え,まつる行事が重要なポイントを占めていたようである。兵庫県氷上郡では〈花折り始め〉といって,死者があった家では他家に嫁いだ子女が墓参りをする日となっている。また同県宝塚市三田市では〈花施餓鬼〉といって,施餓鬼が行われ,死者を供養する(現行では5月8日)。卯月八日の民俗では,とくに春山入り,花立て,死者ないし祖先供養が目立つが,本来は家々で死霊・祖霊を迎え,まつる行事が重要なポイントを占めていたようである。

 さて、ここで宿題。白石昭臣が解く「卯月八日」を、2001『日本歴史大事典 1』(小学館)で確かめること。斐川の図書館なら貸出もしているようだが、ちょっとあやしい。雲南の図書館にはないので、出雲か松江に行ったときに確認しよう。和歌森 太郎の1972『神ごとの中の日本人』は県内に蔵書がないこともあって、古書を注文済み。楽しみです。

 

アジールとしての山あがり

 もうひとつの山あがり。【中世の逃散=山野に入る=アジールとしての山いり】をルーツにもつほうのを司法省版民事慣例類集で確認しました。備中国の慣例。「山に入り、小屋に住み、木の枝等を採り売出し、且つ山中を耕作し以て活路を立つ」と。
 あぁ…。いつまでも脱穀選別が終わらず、ネットで高値の籾摺機や精米機や選別機を眺めては、ナタと鍬だけもって山に入り、生活するばかりか薪を売って蓄財し借金返した先人の姿を思い起こしてもみるのでした。
 我、師走の前に活路を立てん。

奥出雲町鞍掛の「大山さん」

 奥出雲町鞍掛の「大山さん」へあがってきました。里から舗装された林道をあがること5分くらいでしょうか。林道の脇にぽつんと立っておられました。

 もう少し見晴らしがよく、人が集まれる場所かと想像していました。辻にたつ地蔵・観音のようで、これまで見聞きしてきた大山さんとは趣が異なります。そして若いアカマツと細い雑木が目立ちます。草山だったのでしょうか。
 八頭塚横穴墓郡のすぐそばです。

 場所はここ。
https://goo.gl/maps/QtHnKbcCW222
 銘は判読できず。ん〜天保12年4月2日?でしょうか。およそ270年前です。
 糸原Kさんに聞いたお話では、いまでは、誰もここにあがることはなく、糸原さんも小さい頃からここへ祭礼であがった記憶はないとのこと。ただ、集落にある縄久利さんを祀っているところ(要確認)で4月3日に行う祭礼があるのだとか。三沢神社の宮司さんを呼んでくるのだとおっしゃっておられました。桃の節供ですね。
 特徴を少し整理してみましょう。
・祭礼が4月3日。桃の節供。他の大山さんが、伯耆の大山智明権現の祭日である23日を多くとっているのに対して、農事暦との関わりの深い日を選んで続けられていることが大変興味深い。
・縄久利さんとの混交がみられる。大山さんと呼んでおられましたが、祭礼は縄久利さんのところでやるというところ。
・大山さんが地蔵の造形であること。これまで見てきたものは碑に文字を記すのみのものが大半。
・場所がみはらしがよいところ、共有林であるところという点とは少々異なるような気配(地形や植生)。
 そして、大きなポイントがひとつ。ここが峠の境界であった可能性。35°11’28.9″N 132°58’44.7″Eです。この近世の古地図により、鞍掛村から堅田郷へいたる峠にあったのがこの大山さん=地蔵だと推定しました。
 

 昔のフォルダにあったショットで出所がわからず、島根大のライブラリか? この近辺では佐白の峠(多根自然博物館前付近)や上鴨倉の峠と並ぶ主要な峠のポイントでしょう。なんと読むのだろう。

十二月晦日丑の刻悪鬼を逐神事あり

 近世における山神の記載がどういう分布を示しているかを知りたくなって、出雲の『雲陽誌』を眺めておりましたところ、意宇郡の揖屋に興味深い記載をみつけたので備忘に記しておきます。

●大神宮 田の中に伊勢森というあり、往古は社もありけれとも今は祭礼の時俄に竹をもって祠を作、十二月晦日丑の刻悪鬼を逐神事あり、神巫秘してあらはさす、此夜里民祭火をみる事を恐て門戸を閉て往来せす、

 「十二月晦日丑の刻悪鬼を逐神事あり」は異質でありましょう。誌をくまなく見てはいませんが、他の郷ではかような祭事を見たことはありませんし、新暦2月の節分を思わせる悪鬼退散神事を大晦日の夜に、という例を島根で見るのもはじめてでした。  来る12月3日開催予定の「本の話」でとりあげる『サンタクロースの秘密』のこともあって、引っかかったのです。(以下出所:クロード・レヴィ=ストロース著,中沢新一訳『サンタクロースの秘密』みすず書房,1995)

フレーザーは『金枝篇』の中で、ヨーロッパで広くおこなわれているクリスマスというキリスト教の祭りが、もともとは、冬至の期間をはさんでおこなわれていた「異教の祭り」を原型としていたものであったことを、膨大な文献の裏付けをもって、あきらかにしようとした。太陽の力がもっとも弱くなる冬至の期間、生者の世界に、おびただしい数と種類の死者の霊が訪れてくる。この死者の霊のために、生者たちは、心をこめたさまざまなお供物の贈り物をしたのである。

 この伊勢森の神事については改めて追ってみましょうぞ。年神と同時に疱瘡神のような、来訪して災厄をもたらす神に供え物をする”年越しの夜”は、各地に残っているものです。出雲には雲陽誌が残された江戸時代には希であったのかもしれません。いまでも東北には多く残っていそうだし、芸北・備北には痕跡が残っているのではないでしょうか。 年越しの夜に神招く