Morito Hataketo Ushito

立ち上げたばかりの団体のアウトラインを英文にする必要があり、google翻訳をもとに修正中です。こなれてない感満載とはいえ、通じなくはないと思うので、まずはこれにてご勘弁。

「森と畑と牛と」です。

Group Outline

Representative secretary – Kouta Ohishi

Secretary- Masaki Omojiro

●Office location

529-1,Sajiro,Okuizumo-cho, Shimane-ken, 〒699-1434, Japan

●Activity philosophy and purpose

A small mountain village in Okuzumo has accumulated water, nurtured resources, and played a role of feeding food and energy to the town. As such a series of mountain villages and towns nurture the city or connect with the world, there is a life economic and cultural sphere today. However, in recent decades, there is no bottom in the root of creating a cycle around the area, the decline of agriculture, forestry and livestock industry supporting the sustainability of local area. Human capital is one of depletion. In addition, the culture unique to the area and using cultivated plants and trees is about to disappear. The folkloric knowledge of food, clothing, shelter and livelihood cultivated by acts over a thousand years, once lost from this world can not be regenerated again.

“To eat is to live.” While we think deeply these words, we aim to rebuild deep and expansive culture around food.

Secondly, we regard region-specific traditional knowledge that has supported the primary industry such as agriculture, forestry and livestock as the foundation, as ecological management technology, adapt and preserve to modern society, sustain harmonious coexistence between people and nature We aim to make something.

Third, we will create a place where people with disabilities, people who need nursing care, people of different cultures with different words, and many other people can coexist through eating.

And in the darkness of the transitional turmoil, in the mountain village where we can not see, each one gathering at this group wishes to hand over the beautiful Noyama to the next generation, becoming small and strongly warm light .

●Business contents

1. Project to regenerate degraded forests and abandoned areas by traditional farming practices such as slash-and-burn farmland etc.

2. Activities to develop a holistic ecosystem approach to environmental resource assessment and management for middle and mountainous areas in the decline of human resources.

3. Study on traditional crops and gatherer cultures which are in danger of disappearance in Okuizumo and related cultural areas, as well as activities to conserve and reproduce as resources.

5. Promotion of industries based on the ranch where the cattle farm-Damuno mieru bokujou and its surrounding areas and creation of employment.

6. Planning and development of experiential program utilizing Satoyama nature in Okuizumo.

7. To contribute to social welfare and to promote the above project Practical study of various initiatives.

8. Other necessary activities to achieve the purpose of our group named Morito hataketo ushito.

スリランカの焼畑〜メモ

奥出雲山村塾のfacebookにあげていたものを再掲。
スリランカの焼畑メモ……です。一番最後に記していますが、スリランカの焼畑は水田耕作、そしてアグロフォレストリーと並行・連動してあるもので、奥出雲でやろうとしていることへの多大な示唆を有していると思いました。はい。いずれもう少しまとめたいと思いますが、記憶が薄れる前に、ぱぱっとメモしておくものです。(やや長文)
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スリランカは急激な人口増加局面にあり、焼畑農法は休閑期間の短縮によって持続可能ではなくなったと言われています。が一部、樹園ではなく常畑へと転換し肥料の投入を始めるところで、土壌流亡が生じているところもあり、それを焼畑の責に帰しているところもあり、なんともです。シンハラ語?でChenaと呼ばれる焼畑は、内戦の影響が大きかった東部地域で残っているところがあるようにも聞きましたが、ほとんどのエリアで1970年代から80年代にかけて禁止されてきました。
◆興味深いのは、Chenaは混作で穀物を中央に植え、周縁部に野菜類、外周は野生動物をブロックするために燃え残った枝や蔓などでフェンスを築く方法。
◆そしてChenaの主要穀物が、Finger millet(シコクビエ:ローカルネームはKurakkan)であったこと。シコクビエの利用は激減したものの、いまでも市場・食堂にあるということ(食べてみたかったし、どういう形で供されているのか興味あり。昔はダンゴにしたりしていたらしいが)。健康食品として重要視されていること。
◆森林だけでなく、叢林、牧草地など植生によって異なるChenaがあり、それぞれ名称が違います。主に4つに分類され、中には溜池をつくるものもあるらしい。
◆Chenaはあくまでも多用な土地利用のひとつに過ぎず、基本は数千年に及ぶ灌漑による水田耕作、(いまでは)ホームガーデンと呼ばれる5畝から2町に及ぶアグロフォレストリー、そしてChena。この3つをうまくまわす営みがあり、それはイギリス支配下のプランテーション時代であっても持続可能性を有していたが、戦後の農業近代化の過程で大きく複雑な問題をかかえるようになっている。
◆Chenaの役割として、食料供給のみにとどまらないという点が、水田耕作やホームガーデンと共存していることからも注目すべき。
たとえば、獣害の緩衝地帯として意識されている。
この視点は着目されづらいが、我々のねらいとしてはきわめて重要。
◆ホームガーデンとあわせ、植生のモザイク化をはかることで、生物多様性とリスクヘッジをはかっていること。獣もだが、鳥や昆虫(蜂をはじめとして)、コウモリなど、生物の有用意識がかなり高い。「鳥に食べさせる木」という呼称などはその典型か。


竹の焼畑2017〜火入れ地の検討

ダムの見える牧場での焼畑は、今年で3年目です。1月にNPO布勢の郷による竹林整備が終わりました。昨年の春焼き地の西側に位置しています。計画を聞いた段階から、急斜面であることと、日あたりがよくないことから、見送るか、6月〜7月頃にまいて、8月後半か9月上旬には収獲できるものであればと思っていましたが……。
今日現場をしげしげと見るに、想像以上の急傾斜でした。これじゃあ、火が入りませんね。まず既存竹林との距離がなさすぎること。延焼リスクが高すぎます。こりゃ、全部引きずり出して下で焼くしかないんじゃないかなあ。
斜面には燃やささずになにか播くことを考えたほうがいいですね、春の早い時期に。ヒエかなあ。
するってえと、置いてある竹は早晩下に引きずりおろすか。
考えることが多くて楽しいですね、はい。

今日の焼畑地

雪がつもりましたね。一昨日から融雪が進んだようですが、まだ膝上まであります。4月からの打合せを島大生と2時間あまり協議しました。やるぞい!
とりわけ、この春からは一般社会人の「入塾」ならぬ参加をおおいに募ります!
テーマは「趣味としての焼畑」です。
「ご趣味は?」
焼畑を少々嗜んおります。荒れた薮や山を切り開いて、火を入れる、そしてアワや蕎麦やカブができる。なかなかよいものですよ」

……てな具合なのかなあ。
よくわからんけど、そこに必要な「達成感」や「満足感」「爽快感」が、個の楽しみでもあり、群れとしての楽しみでもあるような舞台をつくっていければと思っています。

◆令和4年1月1日追記

【はしゃぐ】
日本国語大辞典をひけば、第一義は「

チドメグサとよく似たものたち

 チドメグサ、ツボクサを探しはじめた。
 地方名がわかればそれもみておきたい。薬草として、ツボクサの利用がかつての山野にあったのかなかったのか。などなど。
 昨日、そらやま団地の山にある一畑さんを確かめに行った際に、山の入口で見つけたのがこれ。

 チドメグサだと思うのだけど。はて。さて。
 松江花図鑑などを参照しながら、よく見てみよう。
●チドメグサに似た仲間
http://matsue-hana.com/yasou/kubetu/tidomegusa.html
●ツボクサ
http://matsue-hana.com/hana/tubokusa.html
●チドメグサ
http://matsue-hana.com/hana/tidomegusa.html
 ツボクサの利用について、世界大百科事典(平凡社)ではこう記述。

《マレーでは野菜の代用として食用にされ,東南アジア方面では葉をもんで傷口や皮膚のただれにはったり,下痢の薬として用いられることがある。》

 そして、薬用で一項を設けて、

《全草を積雪草(せきせつそう),連銭草(れんぜんそう)(日本ではこれらはふつうカキドオシをさすことが多いが誤りである)という。サポニンを含み,単独でまたは他の生薬と配合して下痢腹痛,黄疸,吐血,外傷の出血,食中毒などの際に煎服し,また搗(つ)き汁を外傷,疥癬(かいせん)などに外用する。》

と。
日本大百科事典(小学館)では、チドメグサとツボクサとの違いを簡潔にこう記述している。

《(ツボクサは)チドメグサ属に似るが、ツボクサ属は果実に網目状の脈があり、葉柄の基部が鞘(さや)となり、托葉(たくよう)がないので、チドメグサ属とは異なる。南アフリカを中心に世界に40種あり、日本には1種のみが分布する。》

 そうか、日本には1種のみか。
 さて、ツボクサの説明をみると、道ばたや林内でみられるという記述が多い。あたりまえに見られるものであるはずのものだが、あたりまえがあたりまえでなくなっていく時代だ。要因のひとつは除草剤の多用。ホームセンターでも農協でも取扱がすごい勢いでふえている。とある地域で、営農組合でタンクごと買って、各家庭で大量に撒いていることをきいた。
「外の家は、きれいに草一本なく枯れているから、もっとたくさん使わないとダメだと言われる。私は撒きたくないんだけどね」
「ここらでは、ヨモギもツクシも、とにかく野草はこわくてとらないし食べられないよ」
「野草を知ってる人は、もういない。80歳越えて元気な人ならともかくね。70歳代はそんなことはぜんぜん知らないよ」
 はい。民俗知の喪失は、単なる知の喪失にはとどまらないのです。

焼畑の蕎麦

 1週間ほど前に蕎麦を脱穀した。奥出雲在来の横田小蕎麦を焼畑で栽培したもの。たったこれだけなのだ。島根大の里山理研究会の方に行ったものが量的に2倍くらいだろうか。
 以前も反省しつつ、来年どうすれば改善するのかが見えてないのだが、収獲が遅れたことによる脱粒も大きかった。

 種として残してもよいのだが、いかんせん出来も悪いので、すり鉢で皮を剥いて、炒ってみようかと思っている。

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~12月17日

12月17日(土)
「収獲の宴」と称しつつ、残置していた竹を燃やして炭にし、牧場の土壌改良(実験的水脈づくりり)に挑んだ日です。参加者は島根大から10名と地元2名の計12名。
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9:10 先発隊ダムの見える牧場着
11:00 後発隊着
13:00頃〜2班にわかれて収獲の宴
17:30 燃焼終了
18:50 作業終了
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前日の雪をのけるべく積んであった竹を積み直す作業に1時間程度かかりました。積み直した竹材の高さは腰高くらいはあったこと、降雨降雪が続いていたとはいえ、冬季でもあり、また竹を叩いたときに生じる音からしても含水率はさほど高くないと思われました。要するに燃えるだろうと踏んだのです。そして、着火。いやあ燃えない燃えない。常に材を整理して置き直していかないと消えてしまいます。
かれこれ6時間ほどかかりました。30〜40本ほどの孟宗竹を炭にまでするに。
並行して穴をほっておりました。
牧場は残土の埋立地ですが、表層には黒ボクや堆肥が20センチ〜30センチ積んであります。その下に真砂っぽい土が20センチ程度でしょうか。その下は瓦礫というのがふさわしいような石のかたまりがごろごろしています。瓦礫層(仮称)まで掘ったところで、水が湧いてきて、1時間ほどで満水となりました。
穴は大小3箇所。
できた消し炭を投入し、掘った土で埋め戻します。
埋めた直後は多少ズブズブとしていましたが、翌日現場検証した時点ではがっちりとかたまっていました。牛が足をとられることはないだろうと思います。
もう少しやらないと水はけがよくなるなどの改善はないと思いますが、掘った場所の草の生え具合など、経過をみていきます。
さて、カブ料理はスープとマリネ風のものでした。料理に関しては、もっと「教える」ことがあるなあと。思います。責務として。はい。



おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月19日

作業日報。
11月19日(土)。
参加者は島根大から13名と地元1名の計14名。
しかし、活動はお昼前まで。雨が降りはじめ雷雨の可能性もあって引き上げとあいなりました。
曇のち時々雨。気温?℃。
◉経過
10時15分~11時40分 8月夏焼地の伐倒竹整理・運搬/カブ地間引き収獲
11時40分~13時10分 昼食準備と会食
13時10分~13時30分 片付け、撤収



おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月13日

作業日報。

11月13日(日)。

参加者1名+軽トラ1台。晴れ。気温?℃(14時)。

疲労がたまってきており、脱穀作業は1時間ほど。

畑などで使う竹切をはじめました。

来年の焼畑2年めの地にはつる性の豆を多播しようかと思って、です。理由はかんたん、雑草にまけないから。場合によっては、雑草にからみついてもよろしい。

◉経過

11時00分~11時50分 三沢内でススキ地探しと産業祭を覗き見

11時50分~12時20分 竹伐採運搬

12時30分~13時00分 昼食

13時00分~14時20分 アマランサス脱穀

14時20分~14時30分 片付け、撤収

晩秋の日に奥出雲の気になる棚田の跡をみて

 11月13日の日曜日のことを振り返りながら、つれづれなるままにつづるの巻。

 季節の変わり目によくある気分と体調のすぐれなさは、秋の終わりの暖かな陽光を浴びることで、ずいぶんとやわらかくなったりもする。この日も曇り空の切れ間から時おり光が降りてくる1日であったと記憶する。

 脱穀作業に向かう途上、大きく寄り道をした。行ってみたいところがあったのだ。気になっている棚田。そこはもうずいぶんと稲を育ててはいない。山ほどもというより山にかえったかような旧田がそこかしこにあるのだろうが、2年ほど前にその場所を見つけてからこの方、いつもていねいに草が刈られ、何か育てているようでもあり、しかし大半は草を刈るだけの手入れをされているように見えた。そして、その棚田は、奥出雲の多くの棚田の古形をいまに残す地でもある。

 大半の棚田は土地改良法による区画整理で1枚1枚が小さな田んぼから大きな田んぼに変わり、機械が入るようにもなり、過疎少子化高齢化に対処できるようにもなった。大幅な省力化・生産性の向上がこれらの区画整理の成果としてあった。

 私が気になり続けているこの棚田はなぜ、そうした区画整理から距離を置くことになったのだろう。知りたい。形も美しい。風景にも溶け込んでいる。奥出雲の米をPRする写真に使われたこともある場所であることを放置されたまま残存するウェブページで見つけたりもした。

 

 

 よくみると、耕地の上には電線がいくつか走っていて、この写真で焼かれた場所にはそれがない。

 この写真の奥のほうはイノシシよけと思われるトタンの壁がつくられ、本来の棚田はその向こうにも続いていたようだが、いまはクズと灌木の類におおわれ薮と化している。

 あぁ、ここを少し切り開いて、使わせてもらえないだろうか。そんなことを考えたりもする。衝動的に。言ったからには続けなければならない。いまはできない。はやる気持をおさえながらも、「焼き払うとしたら電線がどうしてもひっかかる。あぁだからこそ放棄したのか」「日当たりが手前よりも悪いのだろうな」「水田として使っていた時代には水まわりが悪かったのだろうか」などと、その場に数十分か立って考えていた。

 

 あぁ、そして私がひかれるのはこの小さな単位なのだ。1枚1枚が小さな区画であること。

 多様性を打ち捨てて単一性を追い求めてきた”日本の農業”は、大いに勝利したのだから、この小さな田の連なりは遺産として保全されることはあっても、その価値や意味も、単一化を推進してきた社会が要請するものでしかない。多く見聞してきた棚田の保全活動をみて感じつづけてきた違和感のいちばんの正体はそれだ。

 六車由実氏の研究ノートに見つけた一文に、あぁ、そうだ、この多様性こそが、私が追い求めてきた姿だと認識してから、なぜ小さな区画の連なりである棚田に美しさを感じるかに得心したのもそうだ。

 たとえば、昨年の秋にラオス北部、ルアンパバンの周辺で目の当たりにした焼畑の光景は私たちの想像をはるかに超えて豊かで感動的だった。ここでは平地には雄大な水田が広がっているが、そのすぐ先にある山では焼畑が拓かれ、陸稲だけでも10種類近くの稲が育てられ、隙間には、ハトムギ、バナナ、ウリ、キャッサバ、トウモロコシ、ゴマ、オクラ、サトイモなどさまざまな作物が混植されている。

 それはあたかも作物の単一化に抗しているかのようである。しかも面白いことに、ラオスの人たちは、水田でつくった米よりも、焼畑でつくった米の方がうまいという。すなわち一方がもう一方を淘汰するのではなく、むしろ水田と焼畑がそれぞれの存在価値を認められた上で併存しているのが、ラオスで見かける一般的な農村風景であるようだ。

 《焼畑の多様性〜「焼畑研究ノート・焼畑プロジェクトの課題, 東北学vol.10,2004,4》

 

 六車は焼畑の多様な意味を2004西田の『中国・海南島』からもひいている。

 焼畑によって特定の作物に特化しない多様な植物を栽培することで干魃や洪水などの自然環境からの影響によるリスクを最小限におさえるシステムを持続させたり、野生動物や野生植物を利用できる場として焼畑周辺の土地を確保することでもあった。

 焼畑を選択している民が生態系を管理する視座を有しているということ。

 生態系管理において、多様性の確保が持続可能性にどれだけ寄与するかを知として有しているということだろう。

 そんな視座と知性を、野生の知性をわたしたちはどこまで取り戻せるのだろうか。残された時間はあまりにも少ない。雑穀の調整ひとつに手間取っている我が身がほんとうに嫌になりそうだ。と、こうして書くことで発散させて前にいくのだ。ごめんなさい。