みんな長生きしてほしいよね

「みんな長生きしてほしいよね」
と妻が言った。大雨の翌日であった。車で野菜を仕入れに隣町へ行く際、峠を越えるのだが、その降り道の急カーブが続くところで、唐突な、呟きというものよりははっきりとした口ぶりで。

ふたりは2日前、東京の高円寺にいた。暑い一日をほうぼう歩き回った夕方で、その日の最後の目的地まで百メートルもないところで、休みたいな休んでもいいのかもという気持ちに応えるように、目の前に現れた喫茶店。「喫茶 DENKEN」という店名と「OPEN」という看板だけがかかった、古い建物に蔦が絡まっていた。

妻の一言は、そこに入り受けた印象と感慨とを振り返ってもいたので、文脈としてはそこに連なるものであろう。
DENKENは創業が昭和30年ごろで、営業は70年におよぶ。創業以来その場所で働き続けている女性は90歳前後の白髪の老嬢であった。白いブラウスに黒のスカート、パンプスを履く姿もまた70年になんなんとしたものであろう。古典派ロマン派の曲が大きな良い音で鳴っていた。

あんなふうになりたい。なれたらいいな。どうしたらなれるのかな。どうするかな。
具体な話もあれこれする中で、自分自身のあり方である以上に、関わりあるみんなのあり方によるのだということが、ふと思われたのだろう。「みんな」とはそういうことだ。

滑稽新聞は松江で読まれていたか

『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』なる書がある。夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾口紅葉、斎藤緑雨。この七人と生きた時代を坪内祐三が綴っている。この七人を旋毛曲りとすれば、対する実直な?すなわち旋毛がまがっていない七人とは誰々だろう。僕はまず三人が思い浮かぶ。柳田國男、田中正造、森鴎外。どうだろう?

さて、旋毛曲りのほうの宮武外骨の代表作といえば「滑稽新聞」である。明治41年に発禁処分となっている(外骨にとっては何十回めかのことで珍しくはない)、確か。

借りっぱなしで明日おそるおそる返しにいく『松江八百八町町内物語〜白潟の巻』は昭和30年の発刊だが、その中に次の一文がある。

一文字屋の有名な売子「熊さん」も往年の松江駅の名物であった。「ビール、正宗、アンパン、ベントー。マツチェ(松江)八景、滑稽新聞」と声高に連呼する声は人をほほえまさないではいなかった。

執筆子は「滑稽新聞とはどんなものであるかよくわからないが、新聞は松江橋のたもとでまとめて立売しているのをよく人々は買うのであった」としている。松江駅の開業が明治41年11月であるから、「滑稽新聞」が売られていたかどうは微妙だが、「大阪滑稽新聞」のことであろうか。あるいはヒットにあやかった類似紙も多数あったらしいから、それらのどれかだったのかもしれない。

 

雑駁たる梅雨入り前の一日

6月18日。例年なら梅雨空を眺めているだろう日。最高気温が30℃をこえることも珍しくなく、数字だけみれば夏である。

とはいえ6月は6月。夏と呼ぶにはまだ早く、梅雨と呼びたい月なのだ。松江気象台の観測データをみれば、例年6月中旬の最高気温は27℃ほどである。室内のデスクワークであれば、快適というに無理はない。そんな日も偽?の夏にまじってあるにはある。今日もそんな日で、最高気温は28℃。外で働けば汗はかくが、バテるほどではない。

かような日の雑駁な出来事を羅列してみよう。

カフェオリゼのマーケット出店用おにぎり写真を撮影。試作された、わかめおにぎりをふたつ、板にのせ小皿にわかめを添えて。

今晩開催の会議に出す資料を作成。2時間ほどを午前中に。内容について、事務局長と電話とメールでやり取り。

朝のゴミ出しのあと、庭と畑をみて手入れを軽く。ミモザアカシアの剪定は梅雨入り前にできるかどうか。ユーカリを剪定して、小枝は使えそうか佐美さんきく。玄関に飾ろうかという。ドライになっているミモザを片付けて入れ替えるようだ。ほか気になるものを少し整理した。ものの数分ではあるが。

畑のスペルト小麦をみる。まだ青いものもあるが、明後日には刈り取りできるだろう。梅雨入りが遅かったからこその間に合い加減。昨秋の播種の遅れがなんとか辻褄あいそうだ。

昨日鉢から土に落としたりんごとレモン。一晩の雨もあって、異常はなし。根が早くのびてくれますように。

午後からは青野さんのところへ野菜をとりに。CiBO、小雨くらいでなんとかできるといいねと話す。ネギの美味しさを伝えると、路地だから少し繊維が強いけどと。いや、その強さもいいし、味(辛味、甘み、香りなど)のバランスがよいのだけどねと思う。

黒目の実家では屋根の補修、、の前の掃除をしながら方針を思案。畑でディルの種子をとりながら、黒豆をまかせてもらう場所を母と談判。明日か明後日に、屋根とあわせて。また、庭の梅をいただく2kgほどか。

木次図書館へ借りていた福原宣明著『魂の点火者―奥出雲の加藤歓一郎先生』の延長手続きとあわせて、下巻にあたる「日登教育と加藤歓一郎先生」の巻を借りに行く。

下巻は本というよりは「資料集」として読む体裁である。すなわち、読みづらい―リーダブルでない面も多々あるが、資料としては細工が少ないほうがよいのである。加藤の講演録がそのまま掲載されていたりするところなど。

”下巻”の第35話「公民館の設立と社会教育」の項に、日登公民館の機能の図式が、「公民館報1号による。昭和26年刊」として載っているのだが、見てみたい。『記念誌』と福原が記している日登公民館四十年を記念して編集されたもの(平成3年11月刊、公民館長藤井暁)の中にもあるかもしれない。

そうそう。

宮澤賢治と加藤をつなぐ線を探してみよう。政治と宗教と文学と農学がひとつものであったその時代に

そう書いた何年か前のやりかけ(の続き)にようやく手が届きつつあるのだった。

出雲といえば曇り空って本当か?

「出雲といえば、晴れ少ない、曇り多い、暗い」
と言われるが、東京/出雲を半々で暮らしてきた身にはピンとこない。長年のもやもやを、もののついでにざっとではあるが調べてみた。気象庁のデータを80年代からあたっての比較。画像は日照率の比較。冬は確かに格段の差。それはわかる、の、だが、5月〜10月にかけては東京と同じかむしろ上回る傾向。

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 いや、日照の問題じゃなくて快晴の時間とかなんとか…の気もするが、ちょっとデータ比較がしづらい。元データにはあたっていないものの、雲量比較ということで、Weather Sparkのサイトで東京と松江を比べてみた。下の図の上が松江のそれ。下が東京。

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松江(出雲地方における気象台)

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月別比較〜東京の雲

 

 比べてみれば、一年を通じて快晴と本曇りの中間領域、なかでも「ほぼ晴れ」「一部曇り」の割合が東京と比較して高いのが出雲地方ということがみえてくる。

ただ、これはあくまで月間の平均比較。日毎にみるとまた違った数値なり図が出てくるのだろうが、どなたかやった方がいらっしゃれば教えてね。

数値だけでは語れない部分が多いことではあるが、印象や体感、実感というものがどう形成され、共有されていくかをみるときに、こうした数値はとても大事な役を果たすのだから、できるところでおさえておくべきなのですよ、さとうくん。

たとえば、これはおもしろいケースだと思うのです。
出雲市の定住促進サイトということで若干立ち位置にバイアスがあるものの、移住者である出雲大好き女子の投稿。《色々な人に「山陰は寒いし曇りや雨ばっかりなイメージ」と言われ、覚悟をして引っ越した訳ですが、全然イメージと違ってた。
……一日の中で「晴→雨→曇→雨→晴→雨」なんです。……という感じで天気がコロコロ変わりやすく不安定なのです》
http://izumonakurashi.jp/2019/01/13/出雲な天気/
そ、冬の時期はとくに著しいのだが、夏をのぞいて全般にこうした傾向にあると、出雲のみなさん思いません?

こんなことをしてみる気になったのは、テッド・チャン「商人と錬金術師の門」(大森望訳・『息吹』早川書房)を読んだあとに、豊福晋平氏のgakko.siteを読んでいたからなのだが。。
https://gakko.site/wp/archives/516

教育ICTの推進は必然的に学習の個別化を進行させるが、《学習の個別化は圧倒的な情報量と最適化システムを必要とし、コンテンツ提供業者への依存を高めるので、教育目標と知識そのものを与える役割を教員から奪う。》
豊福氏は、日本の学校教育が急激に舵を向けようとしているこの流れを「罠」として指摘しながら、構築主義をプッシュするのだが、どうなのか。学習の個別化って矛盾じゃないかというところを試してみたくもあった。
あっさり言ってしまえば、後期ヴィトゲンシュタイン。そこからテッド・チャンまでは近い。

5月の草刈り

 田植えのシーズンが終わると、あちらこちらで草刈りが始まり、梅雨のくるまえに山でもケタでも燃やす光景があちらこちらでみられる。おもしろいなあと思うことがふたつある。

 ひとつには、草の都合ではなく人間の都合で切るものだから、だんだんと草の種類がしぼられていっているように見えること。頻度も少ないだろうし、成長点で切っておさえるのではなく、ともかくおさえこもうと、地際ぎりぎりを切ろうとする、場合によっては土ごと。

 すると成長点が地下にあるチガヤや地下茎をはびこらせるもの、あるいは草刈りのタイミングと花をつけ散種するタイミングをずらす草が年々優勢となっていく。草たちも互いがはげしく生存のための闘争を繰り広げているのだろうが、その場にうまく介入して国益ならぬ人益を確保しようというのとは少々異なる所業が繰り広げられているように感じるのは、草に肩入れする私の偏向だろうか。

 そして、もうひとつには、道路の草刈りのあとで、オオキンケイギクがみごとに刈残されている姿をこの春、木次で多く目にしたこと。最近ふえたから知らない人が多いのだろうか。あぁ、それとも、花が咲いているものをそうやすやすと刈払機では切れないという人のやさしさだったのかもしれない。

 特定外来生物なので、販売・栽培は禁止されているのだから、たとえどこかの家の庭で咲いていたとしても抜き取ってよいものではある。(私人の敷地内で無断で立ち入るという行為そのものが罪に問われることはあるかもしれないが)

 とことんふえたあとで、騒ぎがひろがるのかもしれない。すると、今度はともかく「やっつけろ」となるのだろう。それが悲しい。花がかわいそうなのではない、そうした人間の所業が悲しいのである。思わずなのかなんなのか道路に咲くそれを刈残した作業員は、どう思うだろうか。

 

じゃんがら念仏踊りの記憶

 いわきのじゃんがら念仏踊りのことを、思い出して、動画をあたってみるものの、、、ない。あるにはあるのだが、記憶とは異なるのものだ。

 たとえば、これは比較的近いものであるのだが、それでも違和感をおぼえるほどには遠い。

 いわき市遠野町深山田じゃんがら

 なにかが変わったように思う。こんなに腰高かったけ? 膝が折れて地面をはうような姿勢だったはずなんだけど。青年男女の動画が多いからなのか。他の動画の中にはずいぶんパフォーマティブなものも多く、こりゃそう簡単に観ることもできんのだなと思った。

 さて、本題。

 じゃんがら念仏踊りにおいて、太鼓を叩く手の動きと、撥をもった手をくるくるとまわす所作は、技術的な連関をもっている。撥をもつその握りの遊びと運動(軌跡・リズム)でもって、太鼓を叩くことで生じる響きやリズムが、この踊りの要なのである(但不確かな記憶)。

 想起ついでにもうひとつ。

 撥が空をくるくると舞うその時、太鼓の音は片手が刻むかすかなものとなり、太鼓に伴奏していた鉦のリズムが時空を満たす。その中に再び、空を舞っていた撥が太鼓に到達するだが、体感的・身体的には、その繰り返しは上昇感なのである。シャーマニスティックなそれと言ってもいいのだが、むしろ弁証法的? ……とここまでいうと世迷い言だなあ。

『草原の河』8月1日より広島・横川シネマにて

 日本で初めてのチベット人監督による劇場公開作。

 こうした作品は山陰地方に住む者にとっては、広島・岡山での上映を期待することになる。そして8月1日より広島の横川シネマでの上映がはじまるので、行こうと思う。

 ソンタルジャ監督のインタビュー記事を読んだ。

 この映画ではプロの役者を採用していない。チベット人だけで映画をつくりたかった監督は、その理由を、チベットにはプロの役者がほとんど居ないということに加えてこうのべている。

「この父親役のグル・ツェテンさんにしても、もし普段やってることと全く違うことをやれと言われたらとてもできないと思うんです。でも牧畜民という自分自身を演じるということなので、彼はできるわけです」

 演じるとはなんなのか。

 演劇・映画・舞台を通じて表現されるものとはなんなのか。そんな問を発しようものなら、現代的意味、商業的意味、思想的意味、教育的意味。無数の意味が横溢しかねない。

 そして、この映画にはその「毒」に毒されないものがあるように思えた。

 ソンタルジャ監督は侯孝賢の映画から影響を受けたという。侯孝賢の映画はスクリーンから離れた客席の存在を前提としてつくられているように思えるし、蓮見重彦もそういうことをどこかで書いていたと私の記憶にはある。そういうこととはどういうことか。

 映画のシーンに笑いを誘うところがあるとしよう。そこで笑う観客があたかも映画の1シーンであるかのように、映画を観ながら感じてしまうのだ。そんな映画は通常は退屈なものとして敬遠される。夢中にさせることを回避しているのだから。

 さて。『草原の河』はどうなのだろう。楽しみである。

《「ダム屋の遺言」は水力発電を活性化できるか》に思う

 日経コンストラクション・ウェブに掲載の《「ダム屋の遺言」は水力発電を活性化できるか》は、様々な提起をはらんでいて、熟読した。もう少しだけ掘ってみたいので自らの備忘として残すものである。

 記事は、元国土交通省河川局長で、現在日本水フォーラムの代表理事でもある竹村公太郎氏のインタビューである。

 尾原ダムの影響下にある斐伊川流域市民にとっては興味深い内容であろう。

 ポイントのひとつは《2つ目は運用の変更。要するに、多目的ダムの水位を上げるのです》。1960年代の法律にしばられ、気象予報の精度があがった今日では可能であるということ。尾原ダムの水位をめぐっては、もう少し柔軟に運用できればともどかしい思いをしている関係者も多いのでは思う。

 そして、もうひとつは、《1997年に、河川法第一条に「環境保全」の概念が加えられた時……河川管理者の意識が変わりました。……環境そのものが目的になったわけです。全国津々浦々の職員が、市民と一緒に活動を始めた》。

 尾原ダムはこの動きの先駆であったはずで、「これから」が大事だと思った次第。

 

自然農=混作はきたなく見えるのか

「草だか野菜だかわからんし、きたない。どれだけとれるかもわかったもんじゃない」

 自然農へ向けられた苦言である。ただ誤解なきよう、これ直接面と向かって言われてるんだが、全然いやな気にならんのです。なぜだろう。発言者が農業を正面きってやってる人だからだろうと思う。こうして言語だけで記すとひどい発言に感じてしまうんのだけれど。

 さて、ひとつ前の投稿で「混作」へチャレンジするのだと書いたのだが、今日たまたま開いた、飯沼二郎,1980『日本の古代農業革命』にも同様の”混作きたない”をみて、なぜだろう、なんだろうと不思議な思いにとらわれたので、備忘として記す。すなわち飯沼はこう言う。

《このことは、東南アジアの農業の性質を考えるうえに重要である。東南アジアの農業、とくに畑作の一次的性格としてのミックス・ファーミングともいうべき間作、混作をまぜあわせたような形態(中尾氏も上述のように根菜農耕文化の一特徴としてあげている)が潜在的に存在していた。それはこんにちの焼畑のなかにのみ残存するのではなく、平地の畑にも残っている。……(略)……タイのサンパトンやビルマのインレー湖周辺の農村では、畑にいろいろの作物が雑然とつくられているようで、みためにはきたないが、その技術には伝来の習熟性がかんじられる。》

 対して、混作を「美しい」とは言わないが、ある感動をもって書き残しているのが六車由実である。2004『東北学』Vol.10中にある。

《たとえば、昨年の秋に、ラオス北部、ルアンパバンの周辺で目の当たりにした焼畑の光景は、私たちの想像をはるかに超えて豊かで感動的だった。ここでは平地には雄大な水田が広がっているが、そのすぐ先にある山では焼畑が拓かれ、陸稲だけでも10種類近くの稲が育てられ、隙間にはハトムギ、バナナ、ウリ、キャッサバ、トウモロコシ、ゴマ、オクラ、サトイモなどさまざまな作物が混植されている》

 うむ。その東南アジアの混作をまだ目にしたことがなく、これ以上の言を控え、加筆できるだけの材料をそろえていきたい。

文字を見る脳と自然を見る脳は同じことをしている

興味ある人がおられると思うので、ウェブに転がっていた論文(有名ですが)を共有。
マイクロな生態系管理の智慧=民俗知を、どう記録・継承していくか、その手法開発の参考資料として。
”The Structures of Letters and Symbols throughout Human History Are Selected to Match Those Found
in Objects in Natural Scenes” Mark A. Changizi,Qiong Zhang,Hao Ye, and Shinsuke Shimojo
http://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/502806
これから郵便局へ寄った後、アワの脱穀と精白作業です。