味噌をつくる前に~#2

 味噌づくりの主役はカビである。

 一口にカビといっても確か数万種におよぶ。広大な世界がミクロの次元にひらかれている。その膨大なカビ世界のなかのひとつの種類が、味噌をつくってくれる。名前もきちんとある。学名をアスペルギルス・オリゼという。Aspergillus oryzaeと綴るラテン語読みだと、オリゼではなくオリザエなのだが、英語読みのオリゼーが、ことこの菌に限っては一般的だ、国内では。

 それというのも、石川雅之の漫画『もやしもん』の貢献による。アニメ化、ドラマ化もされ、一躍スターダムにあがったカビの中のカビ。スターといってもいいだろう。

 一般には麹菌(コウジキン)と呼ぶことが多いこのカビ、パンやごはんの上にできていることもある、ありふれた菌なのだが、なにがこの菌をして、人をひきつけてきたのか。

 種として同定されたのは明治時代に入ってからなのだが、菌そのものの存在は古く知られ、その起源、すなわち人による利用は少なくとも室町時代にまでさかのぼれるようだ。コウジキンの利用という観点からすれば、さらにルーツを奈良時代弥生時代にまで求めることもできる。

 よく引かれる例として、播磨国風土記にある酒造りの記述がある。奈良時代播磨国とは、江戸時代における播州で、平成の現代では兵庫県南西部にあたる地域。そこに宍禾郡(しさわのこおり)庭音村というところがかつてあり、こういう記述が残っている。

《大神の御粮(みかれい)沾(ぬ)れてかび生えき

 すなわち酒を醸さしめて

 庭酒(にわき)を献(たてまつ)りて宴 (うたげ)しき》

 

 神にお供えした、乾燥ご飯がぬれてしまって、カビがはえてしまった。だったらと、そのカビで酒を醸造しあらためて神に献上し、宴を開いたのだった。

 いまでも、日本酒をつくる原理はこの当時と基本的にはかわならい。コウジキンを使って発酵させる。コウジキンは味噌、醤油の醸造にも使われてきた。

 そんな日本人に欠かせない菌ともいえるコウジキンだが、かつて猛毒を生成する可能性があるという疑いがもたれたことがある。アスペルギリス・オリゼは、ながらくアスペルギリス・フラバスのひとつという分類をされてきた。で、このフラバス、天然では最強ともいわれる毒を生成する。オリゼにもどうやら同じ能力があるようだ。

 この嫌疑に日本の醸造業界は震撼した。これをきっかけにオリゼの研究がすすみ、2006年には全遺伝子配列が解明、嫌疑ははれた。ちょっとわかりにくいのであるが、たしかにオリゼにも毒を生成す遺伝子をもっているのだが、それを働かせないようにする機構が幾重にもしかけられているということだ。

 また、この研究の副産物として、オリゼという菌の精妙にして不思議な特性が明らかになってきた。いや、こんな素晴らしい菌がどうやってできたのだと。

 学会で「国菌」に指定すべきだという声があがり、いまや他の4種とともに日本の国菌として褒称されている。

 そして、室町時代にはじまったことが絵図などから確認されている、このオリゼを培養して売るという仕事、種麹屋。顕微鏡もなく、自然科学も未発達の時代にあって、現代の遺伝子操作顔負けのことをやってのけていたわけで、「世界最古のバイオビジネス」という呼ばれ方をするようにもなった。

 そう。味噌をつくるということは、千年をこえて培われてきたものに、加わるということでもあるのだ。

味噌をつくる前に〜#1

 今年は毎年味噌をつくっている妻を手伝って、…というより自分でもつくれるように見て聞いて手を動かしてみようと思い、少し考えたことを記してみる。

●味噌をつくってみようと思うその心は

・山の畑で大豆をつくり、味噌をつくる……仲間が5人くらい集まるといいななどとも。焼畑倶楽部の会員募集にも資するだろうということ。焼畑というと「焼く」ことにフォーカスされてしまい、畑で作物をつくるのだということを「忘れ」ている方が大変に多いのだ。だから、焼くのはともかく、つくることに関心をもってもらいたいなというその試みでもある。焼いた場所は当然のことながら、2年3年と作物をつくったあとでも、大豆など豆科作物は栽培できるし、むしろそのほうがよく育つ。「奥出雲山村塾」のフィールドでもそこは実証済みであるし、留意点もわかってきた。ただ、草を刈ること・柵をつくること、この手間がひとりでやるにはきつすぎるのだ。だから、仲間でやりたい。そういうことだ。 
 そして山の畑で収穫した大豆を味噌にすることがよいのは、味噌には味噌汁という素晴らしい食し方があるからだ。雑穀は現代の食生活にあわせるための工夫なり知恵・情報が必要だが、味噌汁は、いい意味でも簡単にだれでもつくれる。
 また、大豆は雑穀よりも収穫後の調製の手間がいらない。籾摺りや精白、そして商品として売ろうとおもえば、石抜きも必要になる、その労力がかからないことは大きなメリットだ。相反する面としては、虫に食われやすいということ、長期保存がきかないということくらいか。

・おからで、味噌をつくる……小さな豆腐工房でパート勤めをしていると、毎日大量のおからが出るのを目にする。あぁ、これ全部食べられるものなのになあと。味噌にはできるだろうしすでに商品もある。しかし、おいしさやそのお手軽感が何か違う気もする。どういうおから味噌だったらいいのだろうと。まずはふつうの味噌をしっかりつくってみないと、と。
このふたつを背景にしつつ、思いだけは膨らむのだが、さてどうなることか。ここで「続く」となってもよいのだが、味噌のことをもう少し書いてみる。

●味噌づくりが家の当たり前の仕事だった時代 …味噌はそれぞれの家でつくるのが当たり前だった100年ほど前のことを私たちはどれだけ知っているのだろうか。私たちは、味噌や醤油は買う方が立派な家であるという転換が起こった世代の話をまだ聞くことができる。それは変化どころの騒ぎではなく革命ともいえるできごとである。たとえば雲南市の旧中野村ではおよそ60年前に起こったようだ(調査中)。
 他の日本の農村でもおよそ「買い味噌」は家の恥とされていたと、多くの民俗資料や文献で見ることができる。一家の食料を管理できない、基本的技術である味噌づくりに失敗した、つまりはどんなに貧窮していようと味噌の確保は当然のことであったということ。
 もっとも、味噌が買えるようになった時代になってはじめて「恥」となったわけだし、実際「買う」場合もあったからのことだろうから、比較的短い時代の間の価値観なのかもしれない。

●三年味噌の本来の価値〜おから味噌の方向を探る
 
ここで想像してみたいのは、味噌づくりに必要な計画性というものだろう。各家庭で1年に使う味噌の量は、多少の変動はあるにせよ一定だったろうし、前の年につくった量と同じだけを仕込めばよいともいえ、そこに計算や計画が入り込む余地は少ないようにも思える。
 が、しかし、それは味噌の原料である豆や麦や麹や塩がいつも必要なだけ入手できる現代に生きていればこその想像なのだ。
 ところで、三年味噌とは、いまでは3年間じっくり熟成発酵させてつくられ、2年3年と歳を重ねることで、深みのある芳旨味とコクが生まれる、上等なもの高級なものとして喧伝されている。が、元々の語義としては、三年味噌を食べるように心がけるべきで若い味噌には手をつけないことから使われるものだ。すなわち「古い味噌」の代名詞だった。
 昔から飢饉は3年続くものだった。それを乗り越えて存続するためには、3年の食料備蓄が必要最低限の備えとして戒められていたのだ。味噌・塩・穀類のストックはつねに2〜3年ぶんを保持してはじめて「一家」といえた。
 麦の糠や籾も混じったものも味噌(ぬかみそ)にしたように、熟成が籾屑の分解(とまではいかないまでも食感を柔軟にはしたのでは)をすすめ、食べやすいものにもしただろう。
 おから味噌づくりのレシピをみると豆乳をいれるものが多いのだが、豆腐づくりの場にいるものとしては、それは本末転倒というか、なんでーと思うのだ。分離したものをなんでいっしょにするかというと、それって作り手の手間をはぶいているだけじゃないかと思う。そこまでお手軽にしていいのかと、罪悪感すら感じてしまう。
 だから、豆乳はいれない。それが自然だと思う。
 おからだけの味噌だと、微量ミネラル等に欠け、風味は落ちるかもしれない。味噌汁ではなくなめ味噌、あるいは糠味噌のような使い方がよいのではなかろうか。あるいは雑穀を精白・選別する際に出てしまう籾屑をまぜてみるか。
 まあ、そんなことを考えてみた。
(つづく)
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【参考】 高取正男,昭和51「生活学事始め」(『高取正男著作集4・生活学のすすめ』法蔵館所収)

かち栗飯が美味しかった

 1月8日は、カフェ・オリゼのお手伝い。木次チェリヴァホールで開催の演劇カーニバル&マルシェカーニバルへの出店をサポートしました。

 そのマルシェでお隣だった金山要害山保存会が出しておられたのが、戦さ勝ち栗飯。

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 これが美味しかったのであります。

 まずはこの竹皮がただものではない感があります。まさか自分たちのところで採って乾燥させてのばして、、、という皮じゃないでしょうね。それを確かめたかったのですが、気がついたら撤収されていました。さすが戦上手。

 竹皮についていえば、これ、マダケだとは思うのですが、皮が大きい。これほどのマダケの皮がまだとれるのでしょうか。手入れされた竹林でないと、これはないだろうというほどの上物です。あるいはこれだけ東アジアのどこかからの輸入物なのか。結んだ竹皮のひももいかしています。イラストもデザインも自分たちでつくったものだというアイデンティティを伝えてくれます。外面と中身が乖離したデザインが跋扈する中にあっては、信頼感・安心感があります。

 そして、なにより中身なのであります。これがよかった。

 なんといってもうまい。

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 人工甘味、旨味の類いがありません。塩が必要最低限。栗のほのかなうまみとおこわのおいしさで十分。色づけに使われている黒米のコクのようなものさえ感じられます(気のせいかもしれないが)。よかったよかった。また食べたい。そう思える久々の”新”郷土食でした。

 そう、郷土食ではないのです。新郷土食。要害山保存会らしい戦にちなんだ何かを編み出すべく、自分たちで考えてつくったのだという気概が感じられます。だから「新」。しかるに、この新こそが真の意味でも郷土性をつくりあげていく可能性をもっているのです、今の世にあっては。

 惜しむらくは、この栗、かちぐりではありません。

 勝ち栗とは元来、搗ち栗(かちぐり)をもじったものですが、私がおいしいさに感激しながら、食べたのはふつうの栗でした。冷凍保存されたものを使っておられるのだと思います。

 が、そういう私、かちぐりを食べたことはない!のです。すみません。

 かちぐりとは。。。。

 ひとことでいえば、干した栗です。干して搗いて、殻・甘皮をむいた栗のことを搗ち栗と呼ぶことは和漢三才図会にもあります。そしてこの干して熱を加えて皮をむいて保存するという方法は、古来・縄文時代から数千年にわたって、日本に住む人々が栗を食べてきた歴史とともにあったものです。

 保存・携行性にすぐれ、乾し飯とともに、かじってよし、水にひたして食べてもよし、炊飯してもよしという優れものでしたので、武士団にもよく採用され、また「勝ち」と「搗ち」の同音から武運を呼ぶものとして重宝されたものなのでしょう。

 木次駅前の狼煙(のろし)あげは観るチャンスを逸しましたが、なにかの折にまた、このかち栗飯を食べてみたいですし、搗ち栗を使った勝ち栗飯をつくれるように精進していきましょうぞ。

 

 

 

畑もちを搗く〜その2

 12月28日。働きに出ている豆腐屋さんで年取りの畑もちを搗いた。

 畑もちを搗く〜その1であれこれと思案したが、成り行きの末、以下のレシピとなった。

◆材料

・もち米1升……精白したものを購入

・もちアワ0.5合……焼畑2016年産。精白後、水に浸すこと2日。

・タカキビ1合強……焼畑2017年算。皮むきをミキサーで行い、3割程度が挽き割りとなったものを風選。さらに水選したものを5日ほど水に浸したもの。水換え3〜4回。とくに最初の数日は半日で換えるくらいがよいのだと思った。

※アマランサスとヒエは今回、入れなかった。それでよいと思う。もち米とタカキビだけでよいのではとも思う。もちアワをふやすのであれば、タカキビを減らしてもいい。挽き割りの度合いはもう少し増えてもいいのでは。

合計1升2合程度

◆手順

1. 蒸す水(熱湯)を用意する。今回は餅つき機を使った。杵で搗く場合、こねの工程に時間をかけないと、雑穀が飛び散る。

 蒸す機械にもよるのだろうが、もち米100%の水の量と同じにした。

2. 蒸し器(今回は餅つき機)の下からもち米8割、その上にタカキビその上からモチアワをのせ、もち米2割ぶんをのせる。

3. 蒸す。(機械まかせ)

4. 搗く・こねる。(機械まかせ)

5. 搗きあがったらすぐに丸餅にして保存。

 搗きたての餅を味見がてらほおぼったが、想像を超える美味しさ! 来年はもっとたくさん搗きたい。ほんのりピンクがかった色であり、白いもちをあわせて紅白にもみえるので、よいのではなかろうか。

 このレシピ(雑穀の配分)は、結果としては匹見(島根県益田市)のたかきびもちに近い。

 『聞き書島根の食事』に、たかきびもちとしてこうあるものだ。

《精白したタカキビを二、三割、もち米と一緒に蒸してもちを搗く。たかきびのつぶつぶと香ばしさは、また変わったもちの味である》

 匹見といえば、とち餅が有名であり、栃の実の味わいに対する嗜好が、ここにひいたタカキビモチにも表れているのではなかろうか。つぶのまま搗くということ、そして材料としてはもち米があくまで主ということ。他の山間地域で大正後半から昭和はじめにつくられていたタカキビモチが、粉にひいたり、あるいはいったん搗き潰したものを加えたりするのとは違う。

 過疎地の典型のようにいわれるが、このタカキビモチからうかがえるのは、もち米をふんだんに使えるような産業の進展が大正期の匹見にあったのだと推し量れる。

 モチのねばりは、いまでこそ、もち米を使って簡易に得られるわけだが、かつて、タカキビだけからもねばりを得ようとしたその苦労を思うと気が遠くなる。

 さて、食し方としてはシンプルな雑煮があいそうな気もするし、焼き餅も捨てがたいと思われるが、それについては、次回。

 

ホトホトと餅とダイシコの関係〜その2

 年の瀬に畑もちを搗くことと、正月のもちを考えることは、並行している。

 なぜ人は正月に餅を食べるのかということだ。

 つい数日前に、ホトホトと餅とダイシコの関係といってみているものの、関係を説いてはいない。関係とはほどとおく連想のかけらみたいなものしかない。さて、どうしたものか。

 きょうは年賀状に添える短文をのせつつ、雑想として記したい。

【クマゴ雑想】

 失われた穀物、クマゴを追いかけて二年。どこかで散見した資料に、熊子(クマゴ)とは広く雑穀でアワの代わりに用いたものを呼んだとあったのだが、典拠を失念し思い出せない。供物としての粟、その代理たる穀物の総称ということだ。邑智では神に供える米を「くましろ」といい、和名類聚抄には「神稲 久末之呂」とある。

 年取りの餅を搗く前に、乞食の古態を思った。食を乞うものへ正月、餅を差し出す民俗には、クマゴに通じるものがある。食べることをわかちあうことの尊さを、せめて小さなところから確かなものとしていきたい。

 柳田國男『食物と心臓』を百回読めば、もう少しうまく記せると思う。

 そう自分にいいわけしつつ、いくつかの引用をお許しいただきたい。

「モノモラヒの話」〜

《只の憫みを乞う窮民以外に、正月の始めにどこからとも知れず、春田打ちなどの祝言を唱えて、米や餅を受けてあるく者も貰い人であった。(中略)此点は美作備中等の正月のコトコト、奥州仙台付近のチャセンゴ等、全国にわたって例の多い風習であって、(中略) 出雲能義郡でも旧十月の亥子の夜、むこ神さまという神を祭るのに、米を多家から貰ってあるき、それで小豆飯を炊いて供え、又自分たちも食べる(広瀬町誌)》

「身の上餅のことなど」〜

《餅の私有が他の多くの食物とちがって、現実消費の時よりも可なり久しい前から、開始せられ得たということが、是をめでたいものとした原因の一つではなかったろうか。少なくとも今日もなほ活きて行われているモツという二つの動詞が、この餅という日本語と関連のあることだけは想像してもよくはないか。単なる祝いの日の共同の食物としてでなく、是が神様先祖様は申すに及ばず、二親  を初め、特に敬意を捧ぐべき人々の前にそえられ、正月になると囲炉裏の鈎、臼鉈苧桶鍬鎌その他の農具から、牛馬犬猫鼠にまでそれぞれの餅を供え、大小精粗の差こそあれ、門に来て立つ物もらいにまで、与うべき餅が用意せられてあったといふことは、大げさな語でいえば、人格の承認、即ち彼らもまた活き且つ養われなければならぬといふ法則の徹底だと云いうる》

畑もちを搗く〜その1

 働きに出ているお豆腐やさんで、28日にモチをつく。仕事で使っている餅つき機を使って、みんなでそれぞれの家のぶんをつくのだが、私はせっかくなので、畑餅(畑でとれる雑穀のもち)をついてみようと思う。

 畑もちという言葉を最初に目にしたのは、『聞き書山口の食事』の中であり。雑穀の餅のつき方

で引用した箇所にあたる。今度県立図書館に行く機会に索引でひいてみようと思うのだが、山口のこの山代地方だけである可能性は高い。

「畑もちは、あわ、きび、たかきびが主で、もち米に余裕のある家は一割くらいのもち米を入れ」とあるように、もち米を混ぜる場合もあるが、主役は雑穀。

 購入するにはもち米のほうが入手しやすいため、今年の年越しはもち米を8割、2割を雑穀でと、あらかたの筋をたてている。そして、来年は陸稲(おかぼ)を8割としたものを導入しようかと目論んでいるのでその予行でもある。すなわち来年春焼きをやるのであれば、陸稲に挑戦ということだ。

 さて、もち米と雑穀とをあわせたヒントとしたいのは、『聞き書山口の食事』にある北浦海岸(萩市)の食の中にある。

あわもち せいろに、水に十分浸したもち米七合を平らに入れ、その上に同様に一晩水に浸したもちあわ二升三合を平らに入れて、蒸して搗く。搗くときはあわがぱらぱら飛ぶので、先に手でもち米とよくこねてから搗きあげる。

 香ばしく、野菜と一緒に味噌雑炊にしたり、焼いたりして食べる。》

きびもち もち米七合、きび二升三合の割合で搗く。きびは皮をとって一週間ぐらい水にかしたものを使う。渋をとるために、水をときどきかえる。

 せいろに、水に浸しておいた米を入れ、上にきびをのせて蒸す。蒸しあがったら杵で搗くが、このとききびが飛びちらないように、杵を静かに押しながら米と混ぜるようにする》

 ここのあわはモチアワ。もちあわの場合、文字どおり糯性なので、もち米との比率はあまり気にせずともよいだろうと思われる。水に浸す時間はこの箇所ではもち米と同様一晩としているが、たしか他の箇所で2日という記述もあった。いずれにしても、キビのように1週間近くつけるのではない。

 ただ、重要なのは蒸すのは一緒にするということ。

 もち米の上にキビなりアワなりを「平らに入れて」蒸すのだ。

 

 第一仮定で以下の配合を考えてみた。

・もち米7合

・もちアワ2合

・タカキビ2合

・アマランサス1合

・ヒエ1合

合計1升4合

どうだろう。ヒエとアマランサスは今回パスしようか、どうか。とりわけヒエが一手間かかりそうなので。ともかくも準備をすすめよう。というより、タカキビはもう水に浸さねば!なのである。

雑穀の餅のつき方

 農文協から刊行されている『聞き書き山口の食事』を購入した。これで中国地方五県ぶんが手元にそろったことになる。全国47都道府県のシリーズ「日本の食生活全集」の中の5冊ぶんである。残り42冊、全巻そろえてみたい誘惑にかられる。と同時に、日本は広いなあと改めて思う。中国五県、すなわち、広島、岡山、山口、鳥取、そして私が住んでいる島根も含めて、ずいぶん広く大きなエリアだとふだんは感じているが、日本のなかでは小さな一地方に過ぎないのだ。索引等の別巻も含めて全50巻というその大きさをにわかには捉えがたい気にもなる。ただ物理空間的に占めるものはそれほどでもない。図書館でそろえているところも多いので、一冊一冊はいつでも読もう思えば読める。ただ、私が全巻そろえたいと欲するのは、他の文献を参照しながら、ときには料理をつくったりしてみながら、何度も繰り返し読むものだから、手元においておきたいという事情による。一方でそれは、このシリーズの不完全さ、というよりは、食文化を書にまとめるというときにつきまとってしまう欠落に由来するもののためである。

 なにはともあれ、まずは中国五県分について、そらんじれるほどには読み込んでいくつもり。

 さて、本題。

 「日本の食生活全集」において、餅は必ずどの地域にも出てくるのだが、山間部において、餅をつく量が尋常ではないのだ。「冬の間はきらさないようにする」だとか……。ここで言及されちる餅とは、我々、平成の時代に暮らすものが想定する餅とは異なるものが入っているのだろうが、明確に言及している地域は、これまで読んだものの中にはなかった。

 山口県山代地方(錦町府谷)の聞き書きでは、他(の中国地方)では記録されていない、その、餅の異同について、記されている。しかも、つきかたまで書かれているので、これを参考に、我が家の年取りの餅をついてみようと、身を乗り出したほどである。

 少々長いが、そのまま引用する。

《田が少ないので、もち米は二、三畝くらいしかつくれない。もち米は祝いのごとのためにのけておく(しまっておく)。ふだん食べもちはほとんど畑もち(雑穀もち)である。

 白もちは、正月の鏡もちと雑煮用の丸もち少々と春のお彼岸に少し、秋祭りに二、三升搗くだけである。

 畑もちは、あわ、きび、たかきびが主で、もち米に余裕のある家は一割くらいのもち米を入れ、正月前に白もちを搗くときに一緒に搗いて、水もちにして保存する。》

 そして、畑もちの雑穀であるあわ、きび、たかきびについて、「寒もちを搗く」のが調理のほとんどであり、とがんにまぜて炊くことは「麦の備えがないとき以外、ほとんどない」としている。まことに興味深い。そして、餅としてつく際にこうして仕込むだという。

《たかきびは、五日から一週間水にかして、大ぞうけに上げて水を切り、だいがらで搗いて粉にする。たかきび粉を水でこね、湯気の通りをよくするために大きなだんごにして蒸す。よくうみたら(蒸し上がったら)、もう一度だいがらで搗いてもちにする》

 ここで、もう少し掘り下げてみたいことがある。ホウコ餅のこと。

 中国地方の他の山間地域の餅では、ホウコ餅がとりあげられてる。ホウコは山ぼうこにしろ田ぼうこにしろ、もちのつなぎとしての役割が大であった(と思われる)。しかるに、ここ山代において雑穀の餅は果たしてつなぎなしでいけたのかどうか。ホウコ以外でつなぎとなる草木があり、それを使っていたのかもしれないし。

 この件については記事を改めて。

熊子(クマゴ)のこと〜その2

森と土と水と火の記憶を探す旅。

2016年3月17日のこと。以下はウェブの記録から発掘し整理し直して記すものです。

西へ南へ、そして県境にほど近いとある山村へ。

奥出雲町の三沢から、車を飛ばして1時間半ほどして着いたその家では、「だいたい家にいるよ」と紹介していただいたお年寄りの方が不在。しょうがないなと、周辺の家々を飛び込みで訪問してみるも、どこもお留守。犬も歩けば何かにあたるかと散策開始です。家の跡に残る扉の壊れた小さな小屋と雨水のたまった鍋と狂い咲きの芳香を放つ椿に頭をくらくらさせながら1時間ほどもうろついていました。そうして、やっと見つけたトラクターをいじるおじさんひとり。

訳を話すと、「あぁ、何某さんならあそこのゲートボール場だよ」。あぁなんという好機。十数人の爺さん婆さんが揃っておられる。

お茶とぜんざいをいただきながら、聞き取りをはじめると、知っている人と知らない人が半々くらい。そして、また、記憶を呼び戻すのは、なかなか大儀なところもあって、思い出そうにも思い出しづらそうなところもある。

「……だっと思う」「……じゃなかったかな」「ほら、このくらいの太さで、穂が垂れてる……」

そんな、言葉が行き交うなかで、私のとなりでずーっと黙って聞いていた婆ちゃんが、突然こうおっしゃいました。

「私、見たことある。○×谷で」
ただひとつの断言。
それはいつ頃のことですか?とたずねると、ぽつりと一言。
「……乙女の頃」

みなさん、爆笑で、わいわいと場が盛り上がります。しかし、隣にいた私には、わかりました。一生懸命に記憶をたどっていたそのお婆ちゃんの心は確かに乙女の時までをさかのぼっていた。戦後間もない頃、その谷で風にゆれる、失われた穀物「熊子」の姿が、瞼にあったのだと。確かに。
その谷はさらに川の上へさかのぼったところにあるといいます。
4月に入ったらまた出かけようと思います。※2

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※1. 写真は話を聞いた場所から5分ほども歩いたところにある石組み。

※2. この後一度出かけはしたものの、通り過ぎる程度であって、取材はすすめておらず。2018年か2019年の春、地カブが黄色い花をいっせいに咲かせるころには何軒か飛び込みで聞いてもみ、道行く人や草刈りをしている人などに聞いてみるが、わからなかった。古くから住んでおられる方は少ないようであり、「知らないなあ」というくらいには問いを受けてくださった方も遠くから墓の掃除にいらしていた方であった。

◉追記1

文字に記されたものを追いながらですが、「もうその人は認知で施設に入られているから」「あぁ、半年前になくなったよ」というような言葉を、この地でたくさん聞きました。跡形もなく消え去ってしまう前に、継いでいけるものがあればと、それだけです。

さて熊子が「アワ」らしきものかどうかですか。
お婆ちゃんもですし、みなさん記憶に異同があります。
が、聞くところからはモチアワのことを単にアワと呼び、ウルチアワのことを熊子と呼んでいたのではないかと推定できます。

・アワとクマゴはちがう→これはかなり強く言う人が1名と同意する人が過半。「アワはモチで食べるでしょ。クマゴは違う」「アワは白い。クマゴは黄色い。クマゴはアワより粒が大きかったような気がする」

・クマゴの味をはっきり覚えて語る方はなしでした。どうだったかなあ。と。粟餅はクマゴを食べなくなってからもかなり長く食されていたようで、甘くておいしかったと。

・形状は「粟」のそれですが、人によって曖昧です。確かなのは、、キビとは違うという認識。

・電話で聞いたこの村(旧村)の66歳男性は5歳頃の記憶で「クマゴめし(クマゴとただ米(うるち米)をまぜたご飯)」を食べた記憶があると。昭和30年代頃までつくっていたのだと思うと。

また、これらの証言を得た地域では、山裾の草地・藪を焼いてカブをつくったという聞き書きがあります。『聞き書き島根の食事』農文協

◉追記2(2020/09/06)
初稿の際は地名を載せなかった。その後4年が経過するが、取材も重ねられず残せるものは残すべきと考え、出しておく。現美郷町の都賀行である。

◉石組追記

大和村誌編纂委員会,昭和56『大和村誌(下巻)』には、「村のそここに残っている石垣にも古人の汗と血のにじむ苦難のあとを偲ぶことが出来る」という一文ではじまる石垣の項がある。積み方を3つに大別し、野面(のづら)積、打込ハギ積、切込ハギ積をあげている。写真の石垣は小なれど打込ハギ積である。

つづく。。

熊子(クマゴ)のこと〜その3

前進していないわけではない。
ここ1〜2ヶ月の間に拾った資料としては2つ。
ひとつは、「出雲民俗」の第24号(昭和27年7月)に掲載された「熊子のからはたぎ」記事。

昭和27年当時は、熊子を粳の粟だと断ずるには至っていないことがわかる。
なにより、この時代において、すでに「熊子」がなんであるか、出雲地方ではまったくわからなくなっていることが驚きである。
少なくとも幕末・明治初頭には、誰もが知っていたことであろうに。
もうひとつは、神米に比するものとしてのクマゴ。
奠をクマと訓じ、供米と同じく、神への供物としての米を「クマ」としたことに由来する用語が山陰地方にある。
邑智郡には神に供える米を「くましろ」と呼ぶ方言があった。この場合のしろは土地を意味し、くましろを供米をつくる田とする用例は古い。和名類聚抄には「神稲 久末之呂」とある。
ここでピンとくるのが、出雲国産物帳名疏における熊子のひとつ、「坊主熊子」が寺に供するアワであった可能性である。坊主正月は昭和30年代にはまだ生きていた。言葉のみならず習俗としても。
熊子=粳アワであるとはいえないのではないか。
どこかで散見した資料には、熊子とはアワだけではなく広く雑穀でアワの代わりに用いたものも呼んだという一文が確かにあったのだが、思い出せない。県立図書館であると思う。それほど重要だとは捉えなかったのは、典拠不明なものであったのかもしらん。
これまでブログで書いた記事をまとめつつ、少しずつ整理していこう。

●備前國備中國にも熊子はあった

●クマゴ、地カブ、キビ

●みざわの館前の「地カブ」

●熊子(クマゴ)のこと~その1

●熊子(クマゴ)のこと〜その2

◆追記

†. 白石昭臣は、邑智の地名を次のように解く。
「地名の邑(おお)は、青(アオ・オオと発音、記述)と同じで稲魂信仰にかかわる名称。青、邑の付く地名は一般に初期稲作文化渡来の地であるが、この邑智もこれに該当する。それ故に神稲(くましね)と稲の付く郷も存在したのであろう。智はその聖なる範囲を示す語で、地にも通じよう」(白石昭臣『島根の地名辞典―あなたのまちの地名考」2001,ワンライン)
2023年9月21日

 

エノコログサの食べ方〜その3

 11月4日。雲南市木次町里方は局所一時的豪雨に見舞われた。雑穀類を車に運ぶのもままならず、ダムの見える牧場で開く予定だった「エノコログサを食べてみよう」は、自宅の土間で実施。トーミによる選別はできないものの、そのぶん、丁寧に一粒ひとつぶを確かめながら、脱ぷを進められた。
◉10月中旬から下旬にかけて「収穫」したもので、籾殻つきの乾燥重量は62g。 20171104-P127020002


 これは10月24日の収穫時なのだが、こうなるととりにくい。黒い実となると脱粒しすぎて、ふれただけでぽろっといくのだ。紫色くらいの状態になったものを手でしごくのがもっとも効率がよい。緑色のものもとれなくはないが、するっとはいかない。

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時期としては10月上旬のほうが「穂が紫色にみえるもの」が多いと思う。

◉乾燥は粒の状態で天日干し。雨天時は屋内にしまっていた。直射日光にさらせたのは3〜5日程度で、あとは屋内で新聞紙をしいた段ボールにほおっておかれた状態が2〜3週間ほどか。鳥に食べられることは、今回は少量でもあったのでなかった。
◉脱ぷしてみてわかったことをいくつかあげておく。
・モチアワよりも粒が大きい。アマランサスよりは大。
・籾は緑色でも黒色でも中身はほぼ同じで、薄墨色。
・籾殻は稲わらの香りがする! これは意外であって、モチアワではそんなことはない。なぜだろう。緑色の殻がその香りを有しているのかもしれない。

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◉粒も大きいので、トーミを使った風選でいけるのではないかと思う。これは明日、味見も含めて検証してみよう。今日は一粒一粒たしかめながら、ピンセットでつまみ選別した。

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 さて、どういう料理にするかだが、リゾットを試みるつもりで、明日のところは脱ぷ作業に集中しようと思う。牧場では、昨年のアマランサスとネギをまぜたロティに少しばかりまぜてやいてみようと思う。粉化を石臼でやってみることも含めて。