尊い家とは何か〜今和次郎とB.タウトと

 粗朶ってなあに?の中であげている「ハンヤ」のことを今和次郎が名著『日本の民家』(1922鈴木書店,1989岩波文庫所収)であげていた。
・鈴木書店の初版(国会図書館デジタルコレクション)

・岡書院の改版,1927(国会図書館デジタルコレクション)

デジタルコレクションでは、岡書院から出た改版のほうの158コマ目にある。

59 備後山間の灰屋

《これらは肥料の製造所である。田圃の中や山の根だどにこれらは作られている。農夫たちは仕事の余暇に山の芝を刈り取って来て、この家の中でもやして灰を作るのである》と。

 ほぼこれだけの記述なので、ハンヤについての新たな知見はなかったのだが、何かが気にかかった。今はハンヤの何が気にかかったのだろう。今は日本の民家に何を見ようとしていたのだろう。そうしたことを思い、読み返してみた。これまで資料的に散見する程度のものであったから。それは、考現学今和次郎ではなく、『日本の民家』を書く作家として読むことである。ほどなく、というより、とてもわかりやすく、今の筆が走るのがどんな家なのかが見えてきた。「山人足の小屋と樵夫の家」では、無邪気ともいえるようなはしゃぎっぷりがほとばしりでている。

《柱は又を頂く丸太を掘立にし、桁や棟木を柱から柱へ架け渡している。自在鉤の工夫は木片のかんたんな細工である。燃えざしの枝が真っ白な灰になり、その端に谷川の水を汲みとってきたルリ色のヤカンが尻をあぶられて留守の小屋の中に残されていたのである。小屋の壁は刈りとった叢の枝で出来ていて、生葉の枯れた匂いが室内に充ち満ちている。そして細かく切り刻まれた日光の片々が、薄暗い室内をぼんやり明るくしている》

 今が描く「日本の民家」は、明治の終わりから大正の時代に取材記録され、1922年(大正11)に刊行されたものだ。当時にあっては、ごくごくふつうの民家がその対象となっている。その中でも、粗末な家に、小屋のような家に、つまりは家の原初の姿を形としてとどめるものに今は惹かれているように思える。
 開拓者の家(小屋)を今は、「尊い家」だといい、《めったにそれらの尊い家を訪問した人はいないと思うからここで一般の民家の構造を紹介する一番最初に、真実な心で私は、それらの家の話をして置くことにする》として述べる。

 《彼らは木の枝や木の幹を切り取ってきて、地につきたてて柱とする。枝の又が出ているとそれが棟木を架けるのに利用される。縄でそれらは結び付けられる。……(略)……。床は土間のままである。一方に入口が付けられ、そこには藁の菰が吊るされる。そこは野原の上の彼らの家の門であり、玄関であり、また部屋の入口でもあるのだ》

 今和次郎のこの叙述に、私はブルーノ・タウトと同じ匂いを覚える。篠田英雄訳『忘れられた日本』から一節をひいておこう。

《農民は、今日と異なりできるだけ金銭の厄介にならなかった。それだからこそ彼等の自然観は、家屋のみならず、総じて自分達の作りだすものに独自の形を与え得たのである。実際、私は農家のいかものをこれまでついぞ見たことがないくらいである。  原始的なごく貧しい小屋は、丸太をほんの形ばかり斧で削って柱や梁とし、この簡単な屋根組の上に竹を敷き並べて藁屋根を葺くのである、小屋を蔽うている藁葺屋根の線は非常に美しく、また柱間に塗った藁スサ入りの荒壁は絵のようである》 

 さて、大まかな見取り線として、松岡正剛による今和次郎柳田国男の分岐点をひきながら、ひとまず2つの書籍をあげておく。松岡は今の『考現学』をあげる際、次の記を入れている。

《そこへ関東大震災である。焼け野原になった東京のそこかしこを見ていると、そこに草の芽のようにできてくる「現代」の芽吹きに関心をもった。今の目はここで考古から考現に切り替わる。そしてあえて「考現学」の狼煙をあげたのがいけなかった。「柳田先生から破門の宣告を頂戴してしまったのである」。
 今を動かしたのは考現学だけでなく、焼け跡に次々に粗末に建っていくバラックだった。これを見ると矢も盾もたまらずに、今は美術学校の後輩を集めて「バラック装飾社」をつくり、ハシゴをかつぎ、ペンキ缶をぶらさげてブリキやトタンや板っきれに「絵」を描きはじめたのだ。銀座のカフェー・キリンがその代表で、そこには原始人まがいの、いわばオートバイ族が壁にペンキスプレーで描くような奇怪な「絵」が出現していった。》

松岡正剛の千夜千冊〜今和次郎『考現学入門』1987,ちくま文庫

 荒地から出現するもの。まがまがしさ。
 日本儒学が見出していった「古学」と、ひとつの到達点としての宣長、そして国学。このあたりを鍵として、読み解いていけたらと思う。
 ひとつめは柳田が避けてきたものとしての民藝である。

 †. 前田英樹『民俗と民藝』2013,講談社選書メチエ

 ふたつめは柳田の山神論、みっつめにジル・クレマンの『動く庭』であろうか。

 

 

アマランサスの発育状況と「神の穀物」の由縁と

◉アマランサスの発芽のこと

 今年は焼畑2作目として播種しているアマランサス。

 ざっと以下のことを考えている。

・吸肥力が高いその性質から2作目向きかもしれない→収穫量はどうか(単純比較はできないが)

・急斜面で日照不十分なところではどうか&昨年は9月の秋雨で倒伏がひどかった。

・赤穂を選抜したい→新しい種を取り寄せ(A地点)&赤穂から種取したものだけを播種(B地点)

 結局播種が遅れ、発芽もかんばしくなく、昨年より1ヶ月遅れの収穫かと思っていたら、意外においついてきている感はある。

▼昨年(2016年)7月9日時点のアマランサス

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▼今年(2017年)7月6日時点のアマランサス

A地点…急斜面・日照不十分/前年夏火入れ〜秋冬で蕎麦と蕪栽培/入手した赤穂を播種

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B地点…段丘地・日照良し/前年夏火入れ〜秋冬で蕪栽培/赤穂から種取したものを播種

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◉神の穀物と呼ばれる由縁(1)

 アマランサスの説明をする際に、インド・ネパールでは「神の穀物」と呼ばれていることを常套句のように使う。神事に供物として欠かせないものであることと、他の穀類が干魃で不作となってもアマランサスだけは稔りを約束してくれるからだと。しかし、乏しい知見に基いておるので、薄っぺらいなあと自分でもよく思う。せめて資料を再読し、あたるべき文献にもあたっておこうと思った次第。

 今回は(1)として。

 概要は、アマランサス・キヌア研究会のシンポジウムのレポートをみるのが早いと思います。それらの中でのべられる特徴としては以下の内容が代表的。

【アマランサス】

・学名アマランサス、ヒユ科、中米原産。

・主な栽培種は Amaranthus hypochondriacus(センニンコク)、 Amaranthus cruentus(スギモリゲイトウ)、 Amaranthus caudatus(ヒモゲイトウ)。

・主な栽培国は、アメリカ合衆国、メキシコ、ペルー、中国、インド、ネパール。日本国内では岩手県、長野県等。

・環境適応性が高く、熱帯、温帯、乾燥地帯での栽培が可能。(→悪条件下での栽培に可能性。未来の穀物として期待)

光合成能が高く、生長がはやいC4植物。

 播種から収穫までの期間が短い。品種による差異はあるが3〜5ケ月である。干魃に強い。種子の収量(1〜3トン/ヘクタール)は穀物の中では平均的。

・国内における栽培の課題は、倒伏しやすさ、種子サイズが小さい(直径約1.5mm、千粒重量約0.7g)ことによる脱穀選別の難しさなど。

・利用法は、米との混炊が一般的。ポップ菓子や、パン、ビスケット、麺、 食酢にも。

◉南峰夫・根本和洋の「ネパールにおけるセンニンコク類の栽培と変異」

 2003年に北海道大学図書刊行会より発行された『雑穀の自然史ーその起源と分化を求めて』に所収されている論文である。いくつかのポイントをひいておく。

《私たちは1982年以来、ネパールのほぼ全域においてセンニンコク類の調査と収集を行った

収集したセンニンコク類の種子サンプルは399系統である。センニンコクは347系統で大部分を占め、ヒモゲイトウは52系統である》

《センニンコク類の栽培は、乾燥した西側の灌漑設備がなく天水に頼る中山間地の僻地ほど多い。……(中略)……標高90mから3400mまでの幅広い標高に分布し、

1000m〜3000mのあいだに大部分のものが見られる》

《ヒモゲイトウのほとんどは1500m以上に分布し、1000m以下では収集されなかった。ヒモゲイトウがセンニンコクより乾燥と高温に弱い(西山,1997)ことを裏付けている》

 ネパールでの呼称の分布は3つにわかれるとしているが、インド北西部(ビハール州・ウッタルブラデシュ州)とネパールのタライ平野に見られるramdanaが、神の穀物と称されるものにあたる。

 ramはヒンドゥー教の神のこと、danaは穀物の意であると、この論文では簡単にふれている。ここらはインドでの利用、栽培、神事での位置づけなどについて、他の論文をあたってみる必要がある。

 というわけで、今日はここまで。

 

 

 

竹の焼畑2017~sec.14

7月6日(木)の活動状況です。
参加者は5名でした。島根大学4名:9時30分~16時00分。地元1名:11時20分〜16時00分。
晴れ時々曇りで、最高気温は28℃。夏の作業としては気温も低めですが湿度は高く、身体にはこたえました。力ではなく気が重要。同じペース(指標のひとつが心拍数)を維持して動くこと、こころに留めおくことですね。
さて内容です。
夏焼準備の初日でした。8月火入れ地点のマーキングと北東斜面竹林の下草刈り。若干の伐倒を行いました。9月火入れ地点の測量と大まかな位置取りもしましたよ。
アマランサスがようやくのびてきています。収穫はおそらく昨年より1月くらい後ろになるかとおもいます。
◉発芽成育状況(2016年火入れ地:蕎麦跡地)


◉発芽成育状況(2016年火入れ地:カブ跡地)

わが家の前にオオサンショウウオがいたころ

自治会の草刈りの日。昔の話がいろいろ聞けておもしろいのですが、三面張の用水路となってしまった杉谷川にもオオサンショウウオがいたという話がありました。かれこれ50年も昔のことでしょうか。いまでもその水は美しく、面影をかすかにたたえているような。


斐伊川本流からの遡上、あるいは久野川から遡上したものでしょう。してみると、堤がいまほどに高くなる以前のことなのか。あるいは近接する案内川から移動したものか。町となり工場ができ、鉄道の駅ができる前には田圃が広がっていた地であり、また奈良時代の僧院、しかも山陰でも屈指の規模のものがここにあり、その「庵」の中を川が流れ、オオサンショウウオが歩いている。そんな光景を想像してみるのは楽しいことです。
福田幸広さんが撮るGiant Salamanderを木次にかさねてみます。
River Dragon _Japanese Giant Salamander
こうした場所、森、川、自然と人との関係は、もはや県東部には残っておらんです。福田さんがオオサンショウウオを撮影したお隣は鳥取県と岡山の県境地帯でも危機的状況にあることを昨年耳にしました。しかし、しかし、です。人口減少下の山間地にはもう一度この自然を取り戻すチャンスもあるのです。人がいなくなり「山にかえる」とはいいますが、ほおっておいても戻りません。せめてそう仕向けることを人の側がはたらきかけないと、「山にかえ」りはしないのです。
現況下にあっては、むしろ自然の循環は人が少なくなることで悪化します。
「そのうち草刈りができなくなると、みんな薬まいてしまうけんのお」
とは草刈りのときにも何度か口にする人がいました。そうです。「農地」でなくなれば、農地には使えない強い除草剤だって使えてしまう。それも一度きりであれば、自然が勝っていくのでしょうが、繰り返し継続的に使用された場合、土を入れ替えるか持ち込む以外に再生する手立てがなくなりかねません。
ま、そういう場所に森を取り戻すことに挑戦しようとしているのですが(森と畑と牛と)。お前はアホかとほんとに思います。
さて、今年の日本オオサンショウウオの会総会は鳥取県西伯郡南部町で開催されます。いけるかな?

ツキノワグマが島根から消えるとき〜田中幾太郎『いのちの森 西中国山地』#001

 「あの爺さんらも、もうおらんようになった」

 田中幾太郎さんがそうつぶやいたときに感じた、いいようのない戦慄の正体に、もうすこし近づいてみたく、著書を再読することとした。『いのちの森 西中国山地』は平成7年に光陽出版社よりおそらく自費出版されたもので、古書も少ない。1000部も刷っていないのではなかろうか。県立図書館で借りてきているものから少しずつ、抜粋と注釈を重ねてみたい。

 今回はその1回目、#001である。

 田中さんとは数回しかお会いしていないのだが、つかれたようにクマのことを話されていた。5年ほど前のことだから、2010年の全国的な大量出没の後である。この著作と同様、言葉数はきわめて少ない方だ。

 ニホンツキノワグマ、そして西中国山地タイプの遺伝子を伝えるものが絶滅危惧種であり、その生息動向が世界的にも注目されている種であることを、島根県民はもっと知ってよい。そして、クマとの共存をはかる活動については頭の下がる思いである。そう島根、とりわけ西中国山地にはその素地が古くは確かにあったのだ。クマを聖獣として敬ってきた「あの爺さんら」。ヘビやタカやオオカミとも交わることのできた自然の博士たち。

『いのちの森 西中国山地』は18章。章ごとに森と川の生き物が語られる。1章のヤマネからはじまり、ゴギやオオカミをへて、最終の第18章がクマなのだ。

p156

《ニホンツキノワグマと、前に書いたホンシュウジカは、はるかな地質時代の昔から日本列島の深山にすみつき、「ブナ帯文化」の狩猟生活を支え、縄文や弥生時代を経て興る稲作文化の基調な随伴種であった意味を顧みる人は少ない。先人たちがたゆまぬ努力で豊かに築いてきた民俗とともに生きてきた”日本人の心の動物”を見失ってもよいものだろうか。金太郎の「足柄山」に代表される、数多くの民話に登場してきたかれらに打ち込まれた生命の意味は、厳しく生きてきた先人たちが伝授した、きわめて科学的な”環境観”であったように思う。》

p158

《西中国山地のクマ猟の”今昔物語”を親子二代で語ってくれたのは、美濃郡匹見町三葛に住む古老、大谷滝治郎氏(九十六歳)と息子の定氏である》

《滝治郎さんが話す昔の熊猟は「奥山ちゅうたり深山ちゅうて、木地師でなけにゃあ寄り付きゃあせんところじゃった。クマちゅうもなあ、深山にしかすまん獣で、里山の方へ下りてくるこたあ滅多にあるもんじゃあなあし、ましてや今のように里の屋敷の周りい出てくるようなもんはおりゃあせんかった。そいからシカのようにゃあ田や畑を荒らさんけえ、退治ることもなあし、わしら親らあからこんなもなあ、深山の守護神じゃちゅうて傷めんように言われよった。この辺の猟師ゃあシカあ捕ってもクマあ滅多に捕るようなこたあなかったでや。そいじゃがシカがあんまりおらんようになってきたりして、たまに捕るようなこともありよった。そがあなときゃあほかの獣たあ違うて、大事に祭りごろをしたもんじゃ。クマあ、熊野権現様が深山に遣あされた使者じゃけえ、こんなあ捕っつりゃあ、必ず罰が当たって、天気が荒れてくるんじゃ。猟師ゃあそりょう恐れて、捕ったクマの白い月の輪を天の神さまに見られんようにせにゃあちゅうて、うつ伏せに寝かあとく。そがあしてその周りにもってって、槍や火縄銃を必ず七本立てかけるんじゃ。そろわんときにゃあ木の枝でもええ。そがあしといて『天の神さま、竜宮のおと姫さまに酒菜を差し上げんと思うて、天の犬を誤って捕りました。どうかこらえて下さいませ。アブラウンケンソウ、アブラウンケンソウ』と呪文を唱えて、かしわ手を打ったもんじゃ』》 

 ニホンツキノワグマの今日的な意味とはなんだろうか。

 「日本は美しい生命の森の山国である」
 田中氏の言葉の後ろには、猟師の爺さんらの声なき姿がある。届かぬ手をのばして、一滴なりともすくい取ってみたい。いのちの水を。

 島根県は2012年からWWFと共同でプロジェクトを推進している。
 いくつかの参考サイトをあげておきたい。

◉WWF:クマの保護管理についての情報

◉日本クマネットワーク

 

 

 

 

雲州一国の者他国へ出る事甚禁じてあり

 温泉津の蔵元、若林酒造の開春、これ美酒なり。日日楽しむ。

 ほの暗い樽中の発酵を垣間見、肌寒い蔵中で糀の香りに慰撫されてより、またその味わいもひとしおというもの。さするに数日前のこと、佐賀錦から生酛づくりでものされた無濾過生原酒をちびりちびりと飲みながら、そういえば種村季弘氏が温泉津のことで筆を走らせておられたはずで、あの本はどこにあるのだろうと、思い起こしていた。

 あっけなくも昨日発見。実家の棚にあるのを持ち帰ってきた。

 ふむふむ。これであったか。

 書名は『種村季弘のネオ・ラビリントス7巻 温泉徘徊記』。河出書房新社から全8巻で刊行され、手元にある第7巻は1999年の初版。現在、需要は満たしての絶版である。種村季弘の古書はそもそも市場に出ること少なくして、値崩れしないことで知られる。しかるに6巻の食物読本がほしいなあと思いアマゾンでみるに、2000円の根づけが!? どれどれと思ってクリックしてみれば、タバコ臭ありますと。なるほど。他の出品をみれば9000円〜12000円となっている。

 納得。

 いい値段である。ほいほいとは買えぬ。諦念の向こうにあって手の届かぬものでもない。まっとうな本の適正価格というのはこのあたりなのだろうなと思う。

 さて標題に記した本題のこと。

 野田泉光院の『日本九峰修行日記』から、種村がひいたものである。

 泉光院野田成亮(しげすけ)は日向国佐土原の安宮寺の住職をつとめた修験宗の山伏であり、多くの行を積んだ大先達であった。文化9年(1812)9月から文政元年(1816)11月までの6年2ヶ月を諸国修行にまわり「西の芭蕉」とも呼ばれた。宮本常一『野田泉光院ー旅人たちの歴史1』として、石川英輔が『大江戸泉光院旅日記』として一冊にまとめている。

 つまりはたいへん著名であり、文化・文政年間の旅の記録とあれば、”観光資源”として”活用”されていそうであるが、これが島根県内では一切みたことがない。理由はあれこれ思いつくのだが。

 件の一文は、山伏の野田泉光院が出雲国に入ると、泊まるところがなく大変苦慮したすえにでてくるものらしい。今の時代も変わってないなあと思った次第。

 さっそくその記を県立図書館の地下書庫より出してきてもらい閲覧。『日本庶民生活史料集成』の第2集におさめられている。

《雲州一国の者他国へ出る事甚禁じてあり、因って旅ということを知らざる者多き故、人の情も慈悲も知らざる者多し》

 もっとも平田ではよくしてもらった人もいて、出雲に格段に悪い印象をもったわけでもなさそうだ。長州から芸州そして石州をへて出雲に入るその日記をつらつらと眺め読むに、他国に比して神仏をのことを語り合うことがきわめて少なかったように思える。それがゆえか、出雲路をしめくくるに痛切なひとことを残している。

《且又雲州は神国と他国よりは称すれども、雲州の人は神威も知らず、神国にして神国に非ず、人気宜しからざる国なり》

竹の焼畑2017~sec.12,13

活動状況です。
7月1日(土)には1名で14時〜16時に草刈り。2日(日)には10時〜15時30分まで10人が火入れ地観察と打合せを行いました。
以下は7月1日(土)の状況です。
◉発芽成育状況その1(2017春焼地)
ホンリーはぐんぐんとのびています。

モチアワもようやく出揃った感あり。ここから追い込めるか。間引きはほとんど施していませ。再生竹の除去のみ。目下のところ他の草の発生もないです。風の強さに倒伏気味ですね、栽培種ならではか。

ヒエとタカキビですが、牛にくわれながらも、総体としては生長中。共存共生の道をいかに築くかの試金石でもあります。まず入ってくる牛の個体数が少ないという状況下なので、あくまで試金石ですが。

モチアワのこぼれ種がおのればえしています。草を刈ると他の草の下から出てきます。大変興味深い。(雑草には負けているが、発芽して生長もできている)。

ルリシジミと虫と

 からっつゆでダム湖も干上がらんばかりであったのが、ここ数日降雨も続き、みながほっとしているところでしょうか。庭も畑も、草がぐんぐんのび、虫の姿もふえました。
 畑のズッキーニ(ステラ)はウリハムシに食われ気味。今年は庭の草木が、さほど虫に食われないなあと思っていましたが、ここにきて大発生の予兆が……。様子見です。
 下の写真は、ルリシジミヤマトシジミか、判別できませんが、この日は飛んでいるのをよく目にしました。

 そして、なんだろう、この子。あまり見かけませんが、アゲハかなにかでしょうか。

 そういえば、数日前、裏の畑に猿がやってきたらしい。そうか。ついに……。

宇沢弘文「社会的共通資本」を読みながら

 明日、私たちがまだ知らない世の中のしくみ〜『社会的共通資本』(本の話#0007)を開くにあたって、どういうふうにのぞんだものかとあぐねていた。

 3つの文をあげて、考えてみている。

 

小島寛之《いつも先生は、温かい励ましの言葉をくださった。塾の先生であろうと、何であろうと、「良い仕事をする」ということでは、貴賤はない、君は君の居場所でとにかく良い仕事を目指すべきだ、そんなふうに鼓舞してくださっているように思えた。》〜宇沢弘文先生は、今でも、ぼくにとってのたった一人の「本物の経済学者」

宇沢弘文《むかし、あるところに一人のラビ(ユダヤ教の教師)がいた。Aという人が相談にきたところ、ラビはお前のいうことはもっともだといった。つぎに、Aと争っているBという人がやってきたが、ラビはBに対してもお前のいうことはもっともだといったわけである。この経緯を傍で聞いていたラビの奥さんはいった。あなたはAに対しても、Bに対してもお前のいうことはもっともだといった。ところが、AとBとは争っているわけで、あなたのいうことはまったくおかしい。そこでラビは奥さんに向かっていった。お前のいうことはもっともだ」》〜『「成田」とは何か』岩波新書

岩井克人《それ以降の活躍はまばゆいばかりです。渡米の契機となった数理計画法の研究は58年にアロー氏らと出版した「線形及び非線形計画法研究」という論文集に結実します。当初は社会主義経済の分権化の研究でしたが、そのための数学的手法を開発する中で、数理計画法という新たな分野を作ってしまったのです。

 その後、消費者の顕示選好理論の一般化に成功したほか、一般均衡理論の存在証明や安定性 の条件についての研究を立て続けに発表し、数理経済学研究の最先端に立つことになります。

 宇沢先生の名前を広く経済学界に知らしめたのは、62年の「宇沢の2部門成長モデル」です。56年にロバート・ソロー氏とトレバー・スワン氏が発表した新古典派成長モデルは、経済成長経路の不安定性を主張したハロッド=ドーマー理論に対し、均衡理論を使って、完全雇用と両立し長期的にも安定的な成長経路を描くことに成功しました。

 ソロー=スワン理論で中心的な役割を果たすのが集計的生産関数ですが、宇沢先生の2部門 モデルは消費財と投資財を区別することで生産関数を一般化し、新古典派成長理論の応用可能性を拡大したのです。同時に、新古典派の枠組みでも経済成長が不安定的である可能性も示しました。

 その後、チャリング・クープマンス氏やデビッド・キャス氏とともに、規範的な立場から経済成長を分析する「最適成長理論」を開拓します。技術進歩率を人的資本の蓄積によって説明す る論文も発表し、後の「内生的成長論」の先鞭をつけています。

 宇沢先生はこうした業績によって、36歳で米シカゴ大学の教授となりました。積極的に若手を中心とした研究会も開き、ジョセフ・スティグリッツ(米コロンビア大学教授)、ジョー ジ・アカロフ(米カリフォルニア大学教授)、ロバート・ルーカス(シカゴ大教授)、青木昌彦(スタンフォード大名誉教授)、早世したミゲル・シドラウスキーの各氏ら、多くの重要な経済学者を育てています。

 ただ、それまでの宇沢先生の仕事はすべて新古典派の枠組みの中です。新古典派は基本的に自由放任思想に理論的基礎を与える経済学にほかなりません。そしてシカゴ大はミルトン・フリードマン氏を主導者とする自由放任思想の牙城なのです。先生はその思想を受け入れられず、 ベトナム戦争に対する反対運動が世界的に広がる中で68年に東大の経済学部に移られました。》

《私は酒場のアルコールの匂いの中で、世界最先端の数理経済学者として仰ぎ見ていた宇沢先生 の「心」が、それとは別のところにあることを知りました。事実、先生は日本に戻る前から新古典派に批判的な英ケンブリッジ大学のジョーン・ロビンソン氏らと親交を深め、その影響の下に「ペンローズ効果」に関する論文を69年に発表します。

 企業内の経営資源の大きさが企業成長を制約することを示したエディス・ペンローズ氏の「会社成長理論」を基礎に、ケインズ経済学的な投資理論を初めて数学化した論文です。先生の仕事の中で最も優れたものだと思います。

 宇沢先生は新古典派経済学からの脱却を試みていたのです。しかし、先生の分析手法は基本的に新古典派の枠組みを出ることはありません。先生は自らの分析手法と、正義感に基づく自由放任主義批判――冷徹な頭脳と暖かい心――の間のギャップに長らく葛藤していたのだと思います。その葛藤の切れ切れを、私は酒場でのお話の中から漏れ聞いたのです。

 私はその後、米国に留学してしまいますが、先生が反公害や反成田空港の運動に積極的に関わり始めたことは人づてに聞いていました。74年のある日、友人から岩波新書が送られてきました。先生の「自動車の社会的費用」でした。

 自動車が市民生活に与えるコストは1台200万円という衝撃的な数字が提示されていますが、基本的には先生の「暖かい心」の力で書かれた本です。それは人びとの「心」を動かし、 大ベストセラーとなりました。日本が曲がりなりにも公害対策の先進国になったのは、この新書によるところが大きいはずです。

 私も81年に日本に戻り、再び先生のお話を酒場で聞くようになりました。一番知りたかったのは、「暖かい心」と葛藤していたはずの「冷徹な頭脳」がどうなったかです。そして、先生が70年代の後半から「社会的共通資本」に関する研究に取り組まれていることを知ります。》

だが、その内容を聞いていささか失望します。社会的共通資本とは、自然環境やインフラや社会制度の総称でしかない。ストックとしての公共財と言い換えてもよい。それが私有財産制の下では乱用されるか過小供給になることは、新古典派経済学でもよく知られた事実です。すでにその頃から社会主義体制には資本主義以上の矛盾があることは常識になり始めていました。社会主義に陥らずにいかに社会的共通資本を維持し発展させていくかに関して、先生自身、理論的な解答を見いだせていなかったのです。

 ただ、私はすぐに、先生自身も社会的共通資本という概念自体には新しさがないことを百も承知であることを知ります。先生は学界の中での認知ではなく、市民をいかに動かすかという 社会的な実践を選び取っていたのです。「冷徹な頭脳」を「暖かい心」に仕えさせることにし たのです。晩年の先生が経済学の中に「人間の心」を持ち込むことを提唱し始めたのは、その自然な帰結であったのです。》

「冷徹な頭脳」より「暖かい心」 2014/9/29付 日本経済新聞 朝刊

チョウもバッタもイカだって

 一昨日のこと、庭の草むしりをしていたら、小さなバッタと出くわした。久しぶりのことだった。1年前に山で見た記憶があるようなないような、そんなものだ。「あれ?いたのか」がそのときの感であるのなら、今回は「おぉ、いたのか」という、わかりやすくいえば「うれしさ」があった。

 バッタなぞ、子どもの頃はあふれるほど草むらにはいたものだ。

 感傷ではない。実利にもとづくうれしさでもある。

 裏の畑の土がそこそこよくなってきたので、キャベツを植えてみようかと思い、そういえば3年前に苗をおいたらぜんぶ食われていたなあと。あれはモンシロチョウだったのだろうか。モンシロチョウの幼虫はバッタがいればけっこう食べてくれるということを聞いた。わかりやすくいえばバッタは益虫だと知ったわけだ。益虫だから認識を変えたわけではない。バッタについての知識がひとつ加わったこと。それもある。あるのだが、そのバッタ一般と目の前に現れたバッタとはまた違うものであるように感じた。それがなんなのか。いま、いろいろと考えている。

 ともかくも、お前、がんばれよ、と声をかけておいた。

 

 さて。

 クロマグロニホンウナギもいつのまにやら希少な生物となりにけり。今年はスルメイカもぱったり店頭に出てこない。日本海側(山陰)にはまわってこないのだろうか。ざっとググってみれば、「スルメイカが採れない 漁獲6割減 価格は2倍に」との記事によると、もともと山陰では秋から冬が旬ということか。

《1~2月にかけて東シナ海で生まれるスルメイカは、春から夏にかけて太平洋側を北上、秋以降は産卵のために日本海を南下する。》

 大好きなウナギは、数年前から年に1〜2回食べるにとどめている。スルメイカもそうなってしまうのか、トホホ。自家製塩辛を楽しみに待つ妻のためにも、漁獲規制を望む。とりすぎなんよ。「妖精のためにとっておく」とは茸採りを終える決り文句であったか。そんな上品なものでなくても、「自分たちの利益のためにとっておく」ことすらできないのが、漁業という業界の難しさであるようだ。どうしたらいいのかという前に、消費者主権とやらを行使したつもりになりつつ、小さな記録をとることも、はじめてみようと思う。

 庭にやってくるものたちの記録として。

 今日はこのチョウ。

 ベニシジミだと思う。

 スイバやギシギシが食草。その手はたくさんはえてるし、ふえる傾向にもあるから当面は目にすることも多いでしょう。よろしくね。

IMGP6641