セミがいっせいに鳴き始めた2017年木次の夏

 平成29年7月19日。本日島根県東部は公式?に梅雨明けとなりました。梅雨らしい日はほんの数日だった気もします。気温が数日前からぐっとあがっての連日真夏日でしたので、あぁ、名実ともに夏なのだなあと、それはそれとして思います。
 今日の話題はセミです。
 今年の夏は、いろんなセミたちが、いっせいに鳴き始めている。
 気の所為かもしれません。今の時刻(夕刻)、耳にすることのできるセミの種類をあげてみましょう。こちらのサイトを参考にしながら。

 ●いろいろなセミの鳴き声を聞こう(子どもの科学・誠文堂新光社)

 ニイニイゼミ

 アブラゼミ

 ヒグラシ

 ツクツクボウシ

 ……。ニイニイゼミ、ミンミンゼミ、アブラゼミの区別が曖昧です。精進して聞き分けられるようになりたい。今年の夏の課題。

「世間をお騒がせして…」〜理非を問えない日本というシステム

 7月13日であろうか。NHK総合テレビが全国ニュースである問題を報じた。「自治体が主催する夏休みの子ども向けのツアーやキャンプなどが、いま、各地で次々と中止に追い込まれています」というもの。SNSでは方方でああでもないこうでもないと、感情的祭りの状態。

 以前から取沙汰されていた問題であり、とりわけ地方創生が叫ばれるようになり、イベントに公的資金助成金が投入されることで、事情がさらにこじれてはいよう。また、この報道が、改正旅行業法の施行を控えての「バルーン」であろうことは意識して見ないと、状況認識を間違えよう。

◉参議院通過

◉閣議決定

◉検討会

 あぁ、さて、しかし、こうした「祭り」は昨今とみに顕著でありことから新しい社会現象にみえるが、さにあらず。古くから繰り返される、日本の社会ならではの、長らく護持され続けている固有の性格に基づくものだと考えてみた。

 そう思うに至ったのは、上にあげた旅行業法をめぐる、ああでもないこうでもないの「騒ぎ」である。旅行業法が何を規制しているのか。取り締まるのは誰なのか。そしてその法に抵触するかもしれないからと中止になる事業は、なにをめざしているものなのか。いったい何が悪いのか。どうすべきなのか。

 個別具体の例はもちろんのこと、一般抽象の問題としても、騒ぎの俎上にあがってこないのだ。いったいなんなのだろう。その違和感とも焦燥ともいえるものを、少なからぬ人々が感じていたようで、「モヤモヤ」「イライラ」「カリカリ」という音がウェブの端々から漏れ聞こえてきた。

 そう。社会ニュースの「いつものこと」ならば、糾弾される個人・団体が個別具体的にあるだけに、その対象を罵り、蔑むことで、溜飲をさげようとする大衆心理がわかりやすく展開されるのだが、今回はその対象があるようでない。自治体の担当部署から市民ボランティアグループあるいは親子会のようなものまで、「対象候補」だけは巷にあふれている。それぞれに千差万別、ひとつひとつ見ていけば、一括りに論じられるものではないことだけは明々白々。無理に糾弾しようとすれば返り討ちにもあいかねんような問題である。

 にもかかわらず、「祭り」は作動した。馬鹿馬鹿しいくらいに。

 定形が要求する収まりは記者会見の席での、ひとこと。「この度はお騒がせして申し訳ない」という謝罪の言葉である。今回の騒動は定形に収められないことによる違和を生じているが、力学は同様。この言葉、決して凡庸なる定型句だとは考えない、私は。

「この度はお騒がせして申し訳ない」

 その意味するところを語る方も聞き入れるほうも深いところで理解しているのだ。

 どういうことか。

「騒がせた」ことが悪いのであって、騒ぎの原因たる行為の善悪には言及していないのだ。「私が悪かった」と言っているのではないし、糾弾するほうとてそれを求めていない。儀式として、対象者が「非」を詫び、糾弾者は儀式として「非」を攻めるのだから、あたかも容疑者=犯人であるかのような錯覚を生じさせる構図に対して、それはおかしいという向きもあろう。

 だが、注意深く観察すればわかるだろう。

 この劇場内にあって、行為の善悪は問われることはない。換言すれば、善悪を問うような言語文化を日本語は形成しそこねてきたのだ。明治の初頭以来。

 川島武宜は、明治日本国家が創出した6つの法典、すなわち憲法民法・商法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法を評して、短期間に驚くべき才能の結集によって作成された希有のものとしつつ、”列強と伍するために明治の法典を“日本の飾り”にするためにつくられたものと位置づけている(『日本人の法意識』。

 明治より前、江戸時代に通用していた「法規範」「法意識」が明治の新法典制定以降も存続していたというようにもいえるのだが、いまは踏み込まない。ただ、では、その江戸時代にあった法規範とは何か。

 尾藤正英は『江戸時代とは何か』の中で、戦国時代における喧嘩両成敗法を、いわゆる「法」ではないものとして、こう論じている。

 《裁判権を集中・独占するということの意味は、本来はこのように理非を判断する権限を掌握することを指すのではあるまいか。しかし戦国大名による裁判権の集中は、そのような内実をともなわず、むしろ権力者としての主体的判断を回避したといわれても仕方のないような両成敗法の採用という形をとった。その事実は、大名といえども、一揆など各種の自生的な集団のなかで、明文化されると否とを問わず、形成されていた慣習法的な規範から自由ではなかったことを物語っているのであろう》

 そして、尾藤の論は、この慣習法的規範の優越が江戸時代を通して貫徹されているのではないかとう驚くべき展開に進む。そしてこう結論づける。

《あらためて考え直してみると、法的な規範として幕藩体制を支えていたものは、じつは慣習法の巨大な体系的集成であったといえるのではあるまいか》

 ……つづく。

竹の焼畑2017~sec.16

 7月16日(日)。夏焼きへ向けての焼畑整備、その3日めです。4月当初の計画からは大幅な遅延ですが、想定はしていたことなので、落とし所をどこにもっていくかをそろそろ見極めねばなりません。
 この日の参加者は6名。昨日までの猛暑日からはやや涼しく過ごしやすいのですが、気温は30℃超です。「真夏の竹伐&豚肉とアマランサス菜の卵とじ丼」としては、少人数だからできたという面もあります。
 真夏の竹伐ですが、今年から初心者がふえることから講習会を企画しています。今回は森林組合で働くOBに講師をお願いしました。竹を伐るのは初めてという2名のみならず経験者にも意義ある講習でしたよ。
 要点を箇条書きにして残しておきます。(のちほど加筆予定)
・倒す方向を決めて伐る。成り行きで伐っているといつまでたっても向上しない。技術の向上=安全性の向上。
・ノコギリを動かす手元だけを見てしまいがち。竹の動きをみる。
・逃げるタイミング。


 アマランサスの間引き菜はたぶん高温で炒めるのがよいなと。中華の味付けが基本的にあうはずです。。今回はカセットコンロですので、火力の問題もあり、卵とじというよりは汁風に仕立てました。

 さて、スタミナのつく丼も完食し、作業も暑い中ではそこそこにこなし、お疲れ様でした〜の後に、悲劇とも惨劇ともつかない結末が待っていたのですよ。
 あぁ。
 途方にくれ、その場から腰をあげようとしない男たちの後ろ姿から察してやってください。



 追記。
 中山南東部の大豆はおおむね発芽して双葉から3葉までという状況でした。

フィルムコミッションと地域活性化

  長島一由著『フィルムコミッションガイド 映画・映像によるまちづくり』がWAVE出版から発行されたのが2007年。
 この数年後にはフィルムコミッションを謳った映画の評価が下がり、全面に押し出すような宣伝の仕方を配給する側はとっていない(はず)である。しかしその片側でフィルム・コミッションそのものは増大しているようだ。wikipediaを参照すれば読み取れるし、ここ数年、市町村のいわゆる地域活性化のプログラムの中に「フィルム・コミッションの推進」という言葉が目につくようになったのに違和感を感じてもいたもので。
 ちなみにお膝もとの島根県には松江フィルム・コミッションがある。
 いえ、大した話ではありません。与太話です。ほんとにそれ、地域活性化に資するの?という案件が目につくので、気になっておったところ、あれれれ、という記事が飛び込んできたので。
 それは、茨城新聞のウェブ版2017年7月13日(木)に掲載されているこれ。
 「県内FC活動、ロケ支援5000作突破 昨年度、経済波及6億2000万円〜朝ドラ「ひよっこ」効果 撮影隊が長期滞在」
 問題になりそうなのは記事中のここです。

《撮影は延べ59日間行われ、延べ約2570人のスタッフが活動した。日立市内のホテルには連日数人が延べ25日間宿泊したといい、同ホテルの担当者は「全体の売り上げに大きな変化はないが、リピーターとして利用してもらえればありがたい」と期待する。》

 ホテルの担当者は「全体の売上に大きな変化はない」といいます。
 何が起こったかは明確で、市内のおそらくビジネスホテルでしょうが、既存顧客が押し出されたわけです。そのうち何人かは当該ホテルのリピーターであったでしょう。
 続けて、このホテル担当者がこう言っているのに注目。ふつう記事にはしない(できない)でしょう。「リピーターとして利用してもらえればありがたい」と。いやいや、撮影隊がリピーターになるって、、、そりゃ希望がないわけではないでしょうが。儚い希望でありすぎやしませんでしょうか。ふつうにはあり得ない以上、このコミッションは負の効果、すなわち撮影隊を一時受け入れることによる既存顧客の喪失のほうが大きいと考えるのが、普通でしょうがねえ。
 

竹の焼畑2017~sec.15

 気温は33℃ほどまであがったようです。
 1名ほどではありましたが、13時〜15時30分までの間、2時間ばかり作業しました。
 中山裾野地での草抜・間引き・そして土用豆の播種です。
 
 えー、そして、春焼地状況です。
 牛たちを甘くみてました。雑草が叢化していたので、もうあがってこないだろうと思っていましたが、逆だったのです。そう、私は牛目線でなかった。彼女らは、食える草を求めてくるのです。(他の草は固くなってくるが、栽培作物は柔らかく食べやすい)。
 ……と思っておったのですが、いや、まてよ、と。
 これ、牛とは違うのでは? シカ?か。 
 そうかあ。シカならば合点がいくことが多い。
 むしろ、牛が入らなくなったことでシカが入ってきたのか!!
 すまん。
……
 明日、応急処置的に柵をつくろうというのは撤回し、まずは調査。
 ちなみに、下の写真、上から順に、アワ、タカキビ、ヒエ。
ホンリーは無傷です。




 ヒエとタカキビの収穫は絶望的。あきらめましょう。アワはいちばん食べられていないところへ柵の設置。こちらも収穫といえる状態には届かず、なんとか少しでも種取できればいいというための処置です。
 そして。夏焼地の野獣対策は必須としましょうぞ。
 区画の見直しも必要です。

七月小暑の庭と菜園三景

 チョウの出現頻度の上昇と葉っぱの食害。気がつくのは後者からでした。幼虫から成虫へという流れからすれば当然、といえばそうなのですが、一安心でもあり、やれやれでもあるのです。とはいえ、昨年とくらべれば食害はきわめて少ないといえましょう。木酢希釈液の噴霧頻度をあげていたり、被害のひどかった鉢植えは場所を変えてみたりしたことも功を奏しているのか。
 一昨日は今年はじめて裏の畑にモンシロチョウを確認しました。そして、写真のこの個体がなんなのかがわからんです。ジャノメチョウではあるのでしょうが。

 

 もののついでに、裏の畑から2景。
 花ズッキーニが大きくなってきました。朝に初物を1本収穫。

 
 サクラ豆が発芽。ちょい間引きせんといかんかもしらんです。

 
 土用豆は山の畑に。今日蒔いてきます。梅雨明け!と言わんばかりの空模様ですので、負けんように。

忘れられた高津川のアユ~田中幾太郎『いのちの森 中国山地』#002

《今、高津川の流れには生命の輝きが見られない》

田中幾太郎さんがこう著されてから二十年あまりが経っている。私が高津川の傍に生活したのは、すでに輝きが失せた後からであり、「昔の高津川は〜」という言葉は誰もが語るセリフであった。が仕方のないことである。川としての生命はすでに絶えていたのであって、水が流れる路としての清流を、その名に冠して虚をはるのみであったかと、今ふりかえれば思う。

 しかしながら、高津川が国内に残存する数少ない「川」の姿をとどめている河川であることは確かであると思われる。

 田中さんがいうように《子どもころは春になると田んぼの溝川にまでたくさんの稚アユがのぼって》くるような川。1939年生まれの田中さんが10歳の時分だとして1950年代、昭和30年代には日本の山と川が激変していく時代であった。

 アユがあきらかにおかしくなったのはそれから十年後のこと。1960年代から”アユの高津川”がおかしくなりはじめ、琵琶湖や鹿児島産の稚鮎を放流しはじめることによるその質の変化はこう記録されている。60年間アユ漁を続けてきた、益田市高津町の川漁専業・塩田嘉助氏(76歳)の話として。

《ちかごろのアユはちごうてきた。夏んなってもゆるいところにたかまったまんまで、瀬にゃあ、あんまりのさん。そのぐらいじゃけえ、こまあのがおいいでや。そいから、昔しゃあ瀬につくなあ、十月に入ってからじゃったが、このごらあ八月の末にゃあ瀬へつくのがおる。味も変わったで。年中川が濁っとって、ええあかが付くひまがなあ。そいじゃけえ大きゅうならんし、食うても昔のような風味がなあ。うるかをとっても、どべくそうて(泥臭くて)味がちがう。高津川のアユの本物なあ、こがあなもんじゃあなあ。ことしゃ冬がぬかったけえ天然ものが、また減ろうでえのう》

 

 それでも、つい近年までは西日本有数の天然アユ漁場としてその名を馳せていた。が、もはやそれも過去のものとなりつつあるようだ。

高津川は漁協だけのものではない。2年連続清流日本一を誇る高津川に今年はアユが少なく防府市、岩国市、広島市から来た太公望の遊魚者たちは「もう益田の高津川には来ない、鑑札料を返してほしい。何が日本一の清流か!」と不満をぶち明け帰って行った》

石西タイムス2014年06月04日

 ここ数年、不漁が続いているのは確かなようだ。※のちほどデータにあたってみたい

 石西タイムス2014年06月04日からひくと。

《自然の産卵場が荒廃し、建設機械を入れて造成しないと産卵できないほど川は傷んでいるのだが、行政は何の対応もしない。しかし、「清流日本一」だと喜んでいるが、上澄みの水だけ検査しているから何とかごまかしているようなものだ。下流域だけではなく、中流域でも少し流れのゆるやかな河床はヘドロが溜まっているから、何かのきっかけで一挙に汚染が進むだろう。

 そのうえ、河口では遡上しようとしている稚魚を網エビ漁で一網打尽に捕獲している。以前は網エビ漁はアユ稚魚の遡上時期には高津川漁協が県漁連に禁止の申しいれをしていたが、今は県漁連と高津川漁協と組合長が同人物(いずれも中島謙二県議)なのだから、何時まで経っても何の解決策も出てこないまま清流高津川の死期が近づく。

 昨年の6月、同組合は理事会を開催し、近い将来アユ稚魚の放流は止め、育魚センターは廃止し、企業合理化を進める。さらに、組合の年度決算は12月に仮決算し外部企業に経営委託するという議案が承認されたと言われている。それなら鮎稚魚放流が一昨年の半分の量になっていたとしても不自然ではない》

 と。

 稚魚放流の削減を、量の問題だけにフォーカスするのはミスリードをまねくだろうが、多くの問題を抱えているのだろう、高津川漁協。日本における漁業資源管理の稚拙さは昨今とみに指弾されているのだが、指弾はいかんと思います。

 川は漁協だけのものではないし、川が見捨てられていくその流れは、一筋縄のものではない。単純化してはならんのです。単純な問題設定、そこからは何も解決していかないから。

 今年5月の山陰中央新報の見出しにこんなものがあった。「昨年より高津川アユ増へ実証実験 益田漁協」。要点は《高津川のアユの資源量回復に向け、高津川漁協(島根県益田市神田町)は6月、成育を抑制して産卵時期を遅らせたアユを11月上旬に放流し、仔魚の生残率を高めて遡上(そじょう)増を図る実験を始める。…(略)……落ち込んでいるアユの川への回帰率を高め、漁獲量の回復につなげる》というもの。

 久しぶりに川のことを思い出して、少々頭が熱くなった。書きかけなのだが、ここらで休憩。のちほど加筆することとする。

 参照資料として以下。

寺門弘悦,村山達朗,金岩 稔2016「島根県高津川におけるアユの天然魚と放流魚の混合率の推定」島根県水産技術センター,東京農業大学生物産業学部アクアバイオ学科

古川彰, 高橋勇夫 編2010 『アユを育てる川仕事 : 漁協、市民、行政がつくりあげる、アユとの共存』(築地書館

 

 

《「ダム屋の遺言」は水力発電を活性化できるか》に思う

 日経コンストラクション・ウェブに掲載の《「ダム屋の遺言」は水力発電を活性化できるか》は、様々な提起をはらんでいて、熟読した。もう少しだけ掘ってみたいので自らの備忘として残すものである。

 記事は、元国土交通省河川局長で、現在日本水フォーラムの代表理事でもある竹村公太郎氏のインタビューである。

 尾原ダムの影響下にある斐伊川流域市民にとっては興味深い内容であろう。

 ポイントのひとつは《2つ目は運用の変更。要するに、多目的ダムの水位を上げるのです》。1960年代の法律にしばられ、気象予報の精度があがった今日では可能であるということ。尾原ダムの水位をめぐっては、もう少し柔軟に運用できればともどかしい思いをしている関係者も多いのでは思う。

 そして、もうひとつは、《1997年に、河川法第一条に「環境保全」の概念が加えられた時……河川管理者の意識が変わりました。……環境そのものが目的になったわけです。全国津々浦々の職員が、市民と一緒に活動を始めた》。

 尾原ダムはこの動きの先駆であったはずで、「これから」が大事だと思った次第。

 

虹と市と水と(1)

木次のカフェ・オリゼで月に一度もうけている「本の話」。今回は安間清『虹の話』をとりあげる。1978年に著された比較民俗学の論考であり、虹の民俗についての論文ではまず参照される基本的文献でもあり、虹の民俗学の嚆矢ともいえるだけの「何か」をもっている。これまで「読む」ということを会の中であまり話すことはなかったのだが、今回は課題としてみる。

そして、この日記をもって試金の石としたいのだ。

まずは、告知のための案内文を以下にのせて(1)とする。

ーーー

あなたは虹が空にかかるのをみて、どんな気持になりますか?

そわそわする。

わくわくする。

消えないで〜とあせる。

ラッキーな気持になる。

はかなさを感じる。

清々しい気持になる。

……人それぞれ、さまざまだと思います。

さて、時代を千年ばかりさかのぼって、平安時代の日本に行ってみましょう。この時代の人々、とりわけ庶民は、虹が立ったら、そこには市をたてねばらないと強く感じたらしいのです(貴族にはその感情はもはやなかった)。

長元三年(1030)七月六日に、関白家と東宮家に虹が立った。世俗の説にしたがって、売買のことが行われた。(日本紀略

応安五年(1372)八月四日ならびに八月二四日、興福寺金堂の北東の角から虹が吹き上げ南西にかかった。これには満寺が驚嘆した。これにより二五日から三日間、市がたったそうだ。(後深心院関白記)

なぜ中世の日本人は虹が立ったら、そこに市をたてて売買を行わねばと感じたのでしょう。

民俗学歴史学、経済学、人類学、国文学……、何人もの研究者たちが、そこに踏み込み、魅力的な解釈を提示してきました。

案内人・面代が『虹の話』とともにそれらの解釈を踏まえ、集まった皆さんとともに考えてみます。

自然とは。

人間とは。

時間とは。

今を生きる私たちと、千年前、この日本に生きた人たちとは、虹をめぐってまったく異なる感覚を抱いていました。その違いに着目することよりも、つなげるものに着目したい。それは、売買=買い物をするという行動とそれにまつわる感情、そして「水」に対する恐れと願いにある……、はずですが、はてそこまでたどりつけるやいなや。

乞うご期待。

虹と市と水と〜『虹の話』(本の話#0007)

◉主 催:ナレッジ・ロフト「本とスパイス」&カフェ・オリゼ

◉日 時:7月28日(金)

開 場…18:30

トーク…19:00〜20:20(20:30〜22:00 食事とカフェの時間)

◉場 所:カフェオリゼ(木次町里方)

◉参加費:2,500円(スリランカカレー/ドリンクセット含)

◉定 員:12名

◉申 込:「虹と市と水と」参加希望として、カフェオリゼ宛facebookメッセージか下記のメールアドレスまでお名前とご連絡先をお知らせください。返信のメールをもって受付終了とさせていただきます。メールはこちらまで anaomoshiro★gmail.com(★⇒@)

ーーーー

以上。

尊い家とは何か〜今和次郎とB.タウトと

 粗朶ってなあに?の中であげている「ハンヤ」のことを今和次郎が名著『日本の民家』(1922鈴木書店,1989岩波文庫所収)であげていた。
・鈴木書店の初版(国会図書館デジタルコレクション)

・岡書院の改版,1927(国会図書館デジタルコレクション)

デジタルコレクションでは、岡書院から出た改版のほうの158コマ目にある。

59 備後山間の灰屋

《これらは肥料の製造所である。田圃の中や山の根だどにこれらは作られている。農夫たちは仕事の余暇に山の芝を刈り取って来て、この家の中でもやして灰を作るのである》と。

 ほぼこれだけの記述なので、ハンヤについての新たな知見はなかったのだが、何かが気にかかった。今はハンヤの何が気にかかったのだろう。今は日本の民家に何を見ようとしていたのだろう。そうしたことを思い、読み返してみた。これまで資料的に散見する程度のものであったから。それは、考現学今和次郎ではなく、『日本の民家』を書く作家として読むことである。ほどなく、というより、とてもわかりやすく、今の筆が走るのがどんな家なのかが見えてきた。「山人足の小屋と樵夫の家」では、無邪気ともいえるようなはしゃぎっぷりがほとばしりでている。

《柱は又を頂く丸太を掘立にし、桁や棟木を柱から柱へ架け渡している。自在鉤の工夫は木片のかんたんな細工である。燃えざしの枝が真っ白な灰になり、その端に谷川の水を汲みとってきたルリ色のヤカンが尻をあぶられて留守の小屋の中に残されていたのである。小屋の壁は刈りとった叢の枝で出来ていて、生葉の枯れた匂いが室内に充ち満ちている。そして細かく切り刻まれた日光の片々が、薄暗い室内をぼんやり明るくしている》

 今が描く「日本の民家」は、明治の終わりから大正の時代に取材記録され、1922年(大正11)に刊行されたものだ。当時にあっては、ごくごくふつうの民家がその対象となっている。その中でも、粗末な家に、小屋のような家に、つまりは家の原初の姿を形としてとどめるものに今は惹かれているように思える。
 開拓者の家(小屋)を今は、「尊い家」だといい、《めったにそれらの尊い家を訪問した人はいないと思うからここで一般の民家の構造を紹介する一番最初に、真実な心で私は、それらの家の話をして置くことにする》として述べる。

 《彼らは木の枝や木の幹を切り取ってきて、地につきたてて柱とする。枝の又が出ているとそれが棟木を架けるのに利用される。縄でそれらは結び付けられる。……(略)……。床は土間のままである。一方に入口が付けられ、そこには藁の菰が吊るされる。そこは野原の上の彼らの家の門であり、玄関であり、また部屋の入口でもあるのだ》

 今和次郎のこの叙述に、私はブルーノ・タウトと同じ匂いを覚える。篠田英雄訳『忘れられた日本』から一節をひいておこう。

《農民は、今日と異なりできるだけ金銭の厄介にならなかった。それだからこそ彼等の自然観は、家屋のみならず、総じて自分達の作りだすものに独自の形を与え得たのである。実際、私は農家のいかものをこれまでついぞ見たことがないくらいである。  原始的なごく貧しい小屋は、丸太をほんの形ばかり斧で削って柱や梁とし、この簡単な屋根組の上に竹を敷き並べて藁屋根を葺くのである、小屋を蔽うている藁葺屋根の線は非常に美しく、また柱間に塗った藁スサ入りの荒壁は絵のようである》 

 さて、大まかな見取り線として、松岡正剛による今和次郎柳田国男の分岐点をひきながら、ひとまず2つの書籍をあげておく。松岡は今の『考現学』をあげる際、次の記を入れている。

《そこへ関東大震災である。焼け野原になった東京のそこかしこを見ていると、そこに草の芽のようにできてくる「現代」の芽吹きに関心をもった。今の目はここで考古から考現に切り替わる。そしてあえて「考現学」の狼煙をあげたのがいけなかった。「柳田先生から破門の宣告を頂戴してしまったのである」。
 今を動かしたのは考現学だけでなく、焼け跡に次々に粗末に建っていくバラックだった。これを見ると矢も盾もたまらずに、今は美術学校の後輩を集めて「バラック装飾社」をつくり、ハシゴをかつぎ、ペンキ缶をぶらさげてブリキやトタンや板っきれに「絵」を描きはじめたのだ。銀座のカフェー・キリンがその代表で、そこには原始人まがいの、いわばオートバイ族が壁にペンキスプレーで描くような奇怪な「絵」が出現していった。》

松岡正剛の千夜千冊〜今和次郎『考現学入門』1987,ちくま文庫

 荒地から出現するもの。まがまがしさ。
 日本儒学が見出していった「古学」と、ひとつの到達点としての宣長、そして国学。このあたりを鍵として、読み解いていけたらと思う。
 ひとつめは柳田が避けてきたものとしての民藝である。

 †. 前田英樹『民俗と民藝』2013,講談社選書メチエ

 ふたつめは柳田の山神論、みっつめにジル・クレマンの『動く庭』であろうか。