諸戸北郎「大日本有用樹木効用編」明38.10刊が、国会図書館デジタルライブラリーで公開されている。
阿井の山野に自生している草木で宿題になっている「ゴロビナ」の候補、あぶらぎりの項をみてみた。
別称として「ヤマギリ」があがっている。そしてヤマギリはハリギリの別称でもある。
ハリギリは山菜としてけっこうメジャーだ。食したことはないが、コシアブラに似て美味なりという。そういえば、阿井の山野…には、コシアブラが出てこない。
コシアブラといえば、寺田晃「古代塗料・こしあぶら(金漆)の語源」。寺田ほかによれば、「金漆(ごんぜつ)」と呼ばれる黄金色に輝く古代の塗料はコシアブラの樹液、しかも冬季にのみ採取できるものである。そしてごんぜつは地方によってとれる樹種が異なっていた。コシアブラとは樹木の名称であるより、そこからとれる「あぶら」をさしていたものなのだ、元来、おそらく。
さすれば、ゴロビナに対する見方も変わってくる。
そして、コシアブラもハリギリもウコギ科として類縁関係にある。
さて、問題はコシアブラとアブラギリの類縁性はいかにあるか、という点。アブラつながりというのは強引だろうか。
ハリギリの芽はこんなやつ。
◉2017/04/20追記
昨日、阿井の福原に行ったら「ゴロビナ」はよく聞くよ。どれといわれてもわからないけどと。山菜であることはたしからしい。祖母にきけばわかるだろうというので、紙1枚わたしてきました。農家(百姓)はいまの時期とりわけ多忙です。田植えが終わるまでは取材はおやすみ。じぶんらの畑も庭も山も、去年からの脱穀(ヒエ)も終わってないのだからして。
【記録】タケノコ山の春遊び其の三
4月16日(日)。晴れ。最高気温は26℃。陽射しもきつい1日でした。
13名が参加。いつもそうではありますが、今回は島根大学里山管理研究会が大半(12名)でした。
とれたタケノコはわずかに1本ながら、タケヤブの中で動く経験はあとからきいてくるはずです。
そして、今日はじめて気づいたのですが、昨年の春焼きに参加した大学のメンバーは全員が卒業し、経験者が0ということ(小池先生のぞく)。
記録(DNA)を参照しようとするところまでいなかい、模倣子(RNA)もないという状態に近いのか。そんな集団でもつねにアドバンテージはある。しがらみや旧弊(わずか2年とはいえ)とはまったく無縁であるとなのかもしらん。昨年はこうだったああだったというんでないところで、アプローチしていかねばと思った次第。
作業はほとんどできてないのが、想定外だったので、ちょっと組み立てを再検討です。
焼畑と表土、中低木のことなど雑感
とりとめない種々雑感。
奥出雲ラボへ久しぶりに寄る。明日の活動で使うものと、置きっぱなしであった里山管理研究会の備品を移動するためだ。広い。天井が高い。改めて思う。おいてあった資料ファイルをめくってみた。あぁ、ここに置いてあったかというものあり。図書館に行って複写したものが、すでに複写済みでファイルしてあったのには苦笑を禁じ得ないというよりは、これは老化かと思いやや暗澹。
さて、そのなかに焼畑における作付体系の論文がファイルされていた。主に東北での調査。このあたりのことは野本寛一氏の著作にあったかなかったか。読み返してみなければならないし、県立図書館経由で浜田から取り寄せてもらうのもいいだろう。また横道にそれたが、ようやく本題。
古老からの聞き取りによる焼畑での作付をまとめたものであり、アワ・ソバを終わったらハンノキを植えろという、よく聞くものも含まれているが、以下に気になったもの、忘れがちな頭にも、いまも残っているものを記しておく。
●表土が流れたところには焼畑はするな(やってもむだ)…類似のもので一度表土が流れたら、なにをどうやってもうまくいかないからやめておけというものもあったと思う。
⇒焼畑をやると表土が失われるからダメだという老人の話を思い出した。1年前ほど前か。いや、そんなことはないよ、とそのときは思ったのだが、ちょっとこれらの資料をもって再訪してみようと思いたったこともあるし、なにせ焼畑について種々のものを読んだなかで表土流亡について言及されたものは初見であったので、「あれっ」という印象。雲南・奥出雲の山はなだらかなようでいて、きれるところはストンと急傾斜となっているタイプが多い。かんな流しで削った跡ということも多々あるのだろうけれど、マサ主体であるがゆえに崩れやすいのだからそうなるともいえよう。
あわせて考えたいのが、牧場北西地の急斜面の今後について。今日の夕方、残置してある竹の量を目視で確かめようと立ち寄った折、夕方ではあったが、意外に陽があたっていたので、これ、焼いたらカブくらいはできるんじゃないのか、などと思い立ったこともある。そのあと、うまく道ができれば、牛が通ることくらいはできないかなあ、いや、崩れるでしょう、など、さまざま思った。さりとて、そのまま放置するのも。。。さらに上の竹を切って燃やすことをそのときは思ったのだが、いやいや残すべき。表土保全という観点から、マストでしょう、と今の段階では考えている。
●(作付をやめて)戻すときには火をいれて、その後は立ち入らない、草木をいじらない
⇒その後も採取利用するものであることを強調し「休閑ではないのだ」という焼畑利用のあり方を訴える人もいるので、ここまで断言されているのは新鮮であったし、「森に戻す前に」もういちど火を入れるなんていうのは初めて聞いた。これは再度チェックして土地と記録を確かめる価値がある。
うーん、あともう2つ3つ、気になる事項があったはず。明日確かめられればそうすることにしよう。
中低木のことというのもこれにかかわるのだが、灌木ともみなされる低木への意識がどうして薄弱なのかと思っていた。つねひごろ。森というと高くて大きな木を多くの人が想起するだろう。林家とて有用性からいえばそうだろうかと思っていたらそうでもなかったということ。鋸谷茂氏が「お手本は天然の針葉樹」という題で『野山、里山、竹林、楽しむ活かす』農文協編・2011の中で述べておられる。
《上層木があって、中層木があり、下層植生がある。これが本来の健全な森林の姿です。……(略)……上層木が無くなっても中層木が上層木の機能を補ってくれます。中層があるかないかが、森林が健全かどうかの最も大きなポイントになります。》
この後、間伐手遅れ林では、通常の間伐を繰り返していても健全な森とはならない。そしてどうするかが述べられていて、これまた後ほど精読を要することを記しておく。
そうそう。表土と関連して作業道づくりを知ることも肝要である。これも購読すべきものをいくつかあたったので、備忘においておく。
写真図解 作業道づくり– 2007/9/18
大橋 慶三郎/岡橋 清元 (著)
現場図解 道づくりの施工技術– 2014/4/26
岡橋清元 (著)
【記録】タケノコ山の春遊び其の一
4月9日(日)。小雨交じりの中、桜を観るではなく、竹山「あそび」という興趣に足を運び、手を動かした男女は12名でした。女性が半分を占めたというのは春の僥倖でありましょうか。
タケノコは不作(まだ早い)でしたが、いただきもののキクイモ、山から摘んできた茎立菜をとりまぜ、みなさん絶賛だった頓原の合鴨米、自家製味噌による豚汁(来年こそ猪汁を)を、おいしく、ありがたく食しましたぞよ。
次週こそタケノコがほれますように!
下の写真は翌日4月10日の木次の土手の桜
本の話〜心の闇と光とー下條信輔『サブリミナル・マインド』
第4回となる「本の話」です。
◉主 催:ナレッジ・ロフト「本とスパイス」&カフェ・オリゼ
◉日 時:4月21日(金)
開 場…18:30
トーク…19:00〜20:30(20:30〜22:00 食事とカフェの時間)
◉場 所:カフェオリゼ(木次町里方)
◉参加費:2,500円(スリランカカレー/ドリンクセット含)
◉定 員:12名
◉申 込:「心の闇と光と」参加希望として、カフェオリゼ宛facebookメッセージか下記のメールアドレスまでお名前とご連絡先をお知らせください。返信のメールをもって受付終了とさせていただきます。メールはこちらまで anaomoshiro★gmail.com(★⇒@)
◉内 容
「本とスパイス」提供の、月刊ペースで1冊の本を巡るトークライブ。第4回目となるお話は、下條信輔『サブリミナル・マインド』。
今回は「私の知らない私の心」の話です。
心の中を探って、知らなかった本当の心がわかるようになる……という話ではありません。むしろその正反対、かもしれない。「心とは内面にある秘めたもの」ではなく、「私の心は私自身のものだ」とは到底おもえなくなります。
どういうことでしょう。
「それって無意識のことでしょ」
いえ。違います。無意識も含みますが、潜在的な認知過程を解説したものです。一般にいう無意識は意識と対になったもので、ちょっと悪さもするけれどあくまで意識が上位にあることに変わりはありません。潜在的な認知過程は意識下にあっても働いているものです。
わかりにくいと思います。そう。この本は私たちの、「心」に対する常識的観念を、ガラガラと突き崩すものとして、20年前に話題になりました。稀代の読書家にして博覧強記の評論家(テレビでもおなじみ)にインタビューした際、愚問とはいえ、これまで読んだなかでもっとも衝撃を受けた新書を一冊あげてほしいと問うたところ、この本を真っ先にあげたほど。
読みやすい=わかりやすい書ではありません。もとは東大教養学部の心理学講義を新書としてまとめたもので、発刊は1996年ですが今をときめく認知科学の射程や論点を満遍なくおさえてある教科書的新書です。
心理学の講義が元ですので、数多くの実験や学説が次から次へと登場します。新書のなかでも十分に単純化類型化されていますので、できるかぎり要約はしないで取り上げたいと思います。しかしそうするとあまりに時間が足りない。
そこで、参加者の声もききながら、どこかで切り上げることにします。そして次に副読本(サブテキスト)として、中井久夫『「つながり」の精神病理』をとりあげ、ふたつの本の重なるところから、お話をまとめていこうと考えています。たとえば、、、、。
「今の時代に欠けているのは、打算的理性的関係であり、絆やつながりは解いていくのがよい」と。
人間関係は意識できる認知レベルと意識にのぼらない閾値化のレベル、両者がバランスよく相互作用して健全な形成がはかれるものですが、現代社会は後者のサブリミナルな作用が強すぎるのです、少なからぬ人にとって、おそらく。
うまくお話できれば、意識と無意識が対立分断しているものではなく、お互いが協調し相互に助け合いながら、人の心と絆と社会をつくっているそのダイナミックな姿がエキサイティングに理解できる場となるはずです。心の闇は光を必要とし、光もまた闇を必要とする、相互に通じあっていることが、次なる時代の希望であることを、先端の認知科学をふまえて展開しましょうぞ(目標)。
◉案内人紹介
面代真樹(おもじろまさき) 季刊『本とスパイス』を創刊準備中。今回のテーマは「心」です。下條信輔氏には2008年刊の『サブリミナル・インパクト』もありますが、今回は基本編として”マインド”の方をとりあげます。「心」をテーマとして、こうした認知科学の立場から書かれたものと精神医学の臨床現場位置から書を、今後ともとりあげていきたいですし、トークできる方(案内人)も求めています。なにとぞよろしく。
蕾を楽しむ櫻祭
昨年の今頃は下の写真ほどには咲いていた櫻は、今年は蕾のままである。祭りという天地自然との絆が根底にあるべきものも、いまの世は、人の都合が優先されるがため、櫻の未ださかない櫻祭りが今日と明日、住まいしている木次で開かれている。
あぁ、しかし、春らしい日和だ。
櫻の咲いてない櫻祭は蕾を観て楽しむ。そう、あの蕾の中には山のほうから降りてきた「サ」が、遠い昔から私たちがそう呼んできたものたちが、いまかいまかと大地に飛び散りいでるのを待っている。目には見えねど、たしかにそこにあるものの存在を祝う日。
そうこう書いている間に、電話が何本かかかってきて、カフェの手伝いに加わるのである。つつきはまた今晩。
食事と心と学生の子供化と
みすず書房から中井久夫集全十一巻が出る。
斎藤環の毎日新聞書評をみて知った。
夜の12時を過ぎて学生から電話。
私はケースワーカーか。。。教授も苦言していた通り、大人の行為とはいえないが、知性ある、人間らしい行為である。社会学的側面に寄っていえば、包摂的関係をプラスの価値としてプリンティングされている集団であるのだから、その文脈にそってコミュニケートするのがよいだろう。
これがいわゆるマイルドヤンキー=エグザイルワールドとなると、まったく対処が異なる。具体的には書き記せない今回の「騒動」は、当該学生集団が、アンダークラスとミドルクラスの境界にあることを、感じさせた。
そして中井を読みなおす。
斎藤は全集第1巻の書評を「脆弱性」をキーワードとしてこういう。
《「バルセロナ宣言」にみるとおり、ヨーロッパ的倫理観では「脆弱性」こそが自律性の前提とみなされる。すべての人間は脆弱性を抱えており、それゆえ他者と関わり、時に依存し合う必要があるのだ》
脆弱性という概念がさらりと使われていて、補足をと思い、あたってみるが、なかなか。
中井久夫『つながりの精神病理』を読み直しみようと、思い立ったのでここに記し、加筆をしていこうと思う。
昨晩のトークイベント「ごはんの100年」〜瀬川清子『食生活の歴史』にひきつけた引用をひとつ。
人と人とのきずなは、「刷り込み」や「取り入れ」といったサブリミナル(意識下・意識外・無意識)のもとで生まれることには、容易に同意できる。中井はその例として、女子学生の寄宿舎では月経が同期化すること、商社や銀行マンが初対面でもどこの会社かがわかることなどをとりあげた後、そうした「きずな」も年齢に従って消長するほうへ話しをもっていく。
そして、精神科医がよくいう「定説」というよりは「常識」の類にあるものとして、次のように述べ始める。
《精神科医は、三十歳くらいで人間の人格が固まるとよくいうが、食事習慣の固まりと人格の固まりとは深い関係があるだろう。食事は味覚だけでなく視覚や嗅覚、触覚、さらに香辛料の一部には三叉神経を介する痛覚が参与し、重量感、内蔵感覚、食卓の対人感覚、過去の個人的・集団的体験、知識、雰囲気、儀式も大きな意味を持って参加する対人的な事象である。。文化人類学者が異文化と接触してまず行うことは、共同の食事である》
食事と文化の重要性とは、人と人との関係性を、その社会がどう築いているかに係ることなのだと。とりあえずここでは考えておこう。
(つづく)
春がきた♪野山の手入れ@奥出雲Iwachiの谷~sec.3
3月19日(日)/晴れ/9℃~15℃/参加4名+子供3名+見学4名/10時〜16時
内容:北の角にて古竹伐倒と整理(運び出し)・昼食づくり
施業前の写真を撮っていませんでしたので、わかりにくいかと思いますが、枯竹が倒れたり掛かったり散乱したりしていた場所です。2016年の春焼き地の南側、一段高くなった平場となっていますが、1年生の竹がほとんどありません。春焼きの後、急速にカビがついたり、樹勢が衰えたり……少なくとも下から観ていてそう感じられた場所です。これから迎える筍の季節、どこまで出るかを記録してみましょうか。生えていた本数。そして平均直径などもはかっていきましょう。
筍観察林という札をたてる必要があるなあ。
昼のまかないです。焼畑産物をひとつでも思いアマランサスを。
春焼き地に落とした竹ですが、この上にさらに1年前に伐って積んである竹を落としていき、その竹から先に運んでいきます。春焼きが燃えすぎる難があるのならば、1週間前に新たに伐った竹を上に積むとよいのだがなあと思いつつ(いやそれは手間がかかりすぎ)。
子供に教えるのは上手だよ。
———
最近、ひとりふたりでの活動が多かったので、4人もいると、はかどり方が違います。そして、2日目は身体にこたえることもわかりましたが、そろそろ身体の使い方になれないといけませんね。面代の個人の課題のようにみえて、仕事がデスクワーク主体となった大多数の「労働者」の課題でもありましょう。
さて、ここでいう課題とは「意識すべきこと」+「ほのかな希望」という昨今の使い方とは一線を画すものです。書きながら思いつきました。課題という言葉は使いたくないと、これまで意識して使わずにきましたが、これからはむしろ積極的に使っていこうと。
課題という流行り言葉が覆い隠してしまっているものに、気付き、反抗し、転覆し、脱構築していくために。(つづく)