火入れの手順を考えるのと同時に

 手順を考えてみた。そのメモとして。

①計画・調査

 計画:施業面積、日程、人員配置、委託契約(森林組合)、許可事前協議

 調査:植生、土壌(2〜3ヶ所程度)、稈経、密度等

②火入れ地事前整備

 杭打ち等による施業ヶ所マーキング(火入れ地、防火帯、消火ポンプ配置位置、人員配置等)

 下刈り(熊笹等)

 倒竹、枯竹運び出し

③火入れ部分は伐採・伏せこみ、防火帯部分は伐採・運搬

 伏せこみ状況の記録

④火入れ日確定(10日前)8月上旬

 天候状態・天気予報、人員都合を勘案しながら、決定。晴天が5日ほど続き、風がなく、火入れ当日もしくは翌日に、軽い夕立があるのが理想的。

 強風、降雨の場合は順延。

⑤火入れ当日

 集合・手順・安全確認

 火付け

 消化確認

 テント泊・定期巡回

⑥調査・播種

 土壌調査(土質、断面)、記録

 浅耕(焼け具合、灰の厚さ等による)

 蕎麦(カブ)播種

⑦調査(1週間単位)

⑧収穫・試食

2年目に小豆。

3年目から

タケノコ生産林+乳牛放牧地

以上。

さくらおろち湖での全日本マスターズレガッタと山際淳司

 『スローカーブをもう1球』。山際淳司の短編ノンフィクション集のタイトルである。私は文庫で読んだ。何度も繰り返し読んだ。いま大学生に聞いたら、どうこたえるのだろうか。知らないと言われそうな気がする。

 先週、さくらおろち湖で開催された全日本マスターズレガッタ。この記事を書こうとして「シングルスカル、ダブルスカル、クォドプル」の確認をしたのだが、「あぁ!」と思い出したのだ。

 文庫『スローカーブをもう一球』の所収されている「たったひとりのオリンピック」を。シングルスカルの津田真夫選手を。大学生活を麻雀に明け暮れる中、オリンピックに出れば人生が変わると思いたち、誰からも相手にされずひとりでボートをつくり(メーカーは相手にしてくれなかった)、ひとりで本やビデオをみて研究し(既存のチームはどこも相手にしてくれなかった)、ひとりでチームを立ち上げ(団体をつくらないと競技会に出れない)、国内トップに立ちながら、モントリオールでは方針により選出されず、モスクワではじめて出場が決まりながら、例のボイコットにより、オリンピック出場はかなわなかった。

 

20150516-P1100508

 「たったひとりのオリンピック」はこうはじまる。

 使い古しの、すっかり薄く丸くなってしまった石鹸を見て、ちょっと待ってくれという気分になってみたりすることが、多分、だれにでもあるはずだ。日々、こすられ削られていくうちに、新しくフレッシュであった時の姿はみるみる失われていく。まるで――と、そこで思ってもいい。これじゃまるで自分のようではないか、と。日常的に、あまりに日常的に日々を生きすぎてしまうなかで、ぼくらはおどろくほど丸くなり、うすっぺらくなっている。そのことのおぞましいまでの恐ろしさにふと気づき、地球の自転を止めるようにして自らの人生を逆回転させてみようと思うのはナンセンスなのだろうか。周囲の人たちは昨日までと同じように歩いていく。それに逆らうように立ち止まってみる。それだけで、人は一匹狼だろう。

 一人のアマチュア・スポーツマンがいた。

 みんなで一緒に。

 ワークショップ。

 なんたら会議。

 ……風潮・流れへの違和をいま少し掘り下げてみるために、この続きをもう一度読み返してみようと思う。

竹の焼き畑試行つれづれ

竹の焼き畑について思いつくままに記す。

蕎麦かカブをまこうと考えている。

理由はいくつか。

・焼き畑1年めの作物としてあげられることが多い。なにか理由がある。

・山ふたつ隔てた地域である志津見では、竹の焼き畑の後、蕎麦→粟→小豆→放牧、の順でやっていた(要確認)という聞き書きを白石昭臣氏が残していること。

・竹の成長の抑制効果が確か蕎麦にはあったと記憶(要確認)

・仁多でかつて焼き畑のカブとして栽培されていた種を使って「竹」の焼土でやってみるということの意義。

もっとあると思うが、思い出したら追記していこう。

宿題を思い出した。

映像をどうするか。だ。

椿山のVHS編集版(確か30分で中山間地域研究センターにあるのだとか)の所在確認と借りられるかどうか。ダメなら30分ほどの焼き畑記録を民映研からのDVDで。と思う。

あるかなあ。

ただ単に燃やしているというのでなく、基層文化として記録されているものがよいのですよ。だから、youtubeに転がっているのをさらりと流したくはない。

詳細な計画書をつくりつつ、ボランティア募集のチラシなども仕上げねば!です。

 

竹紙づくりを萩で教わるの巻〜その1

3月末に山口県萩市に行ってきました。

NHKもよう観んのですが、放映中の時代ドラマの舞台になっているようですね。吉田松陰が毎日通っていたという橋のたもとから400メートルほど離れた川沿いに、その工房はありました。

萩竹紙工房綵雲の西嶋さんから、半日即席講習を受けて、今年は竹紙づくりをはじめます。

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これ、竹の繊維です。まずここまでたどりつければ、半分うまくいったようなもの。

5月〜6月にタケノコから伸びきった若竹を取ってくるところからです。

アルカリ性重曹かなあ)液につけてほぐすのですが、失敗すると腐敗して蛆がわくのだとか。どうすりゃええのか。西嶋さんは風通しのいい屋外で屋根があるところがいいのだと。

「まずはやってみる」というのでもいいのですが、もうちょい調べてみます。

匹見の広見河内について

 広見河内について。

 なにかをいう前にもう少し調べてみたい。そのための材料をいくつかおいておこう。

 角川地名辞典から引用したものが下記。

 天保のころに17戸ほどがあったということがわかる。 

江戸期〜明治7年の村名石見国美濃【みの】郡のうちはじめ幕府領の益田【ますだ】領匹見【ひきみ】組,元和5年から江戸期を通じて、浜田藩領のうち匹見組に属す村名の由来は山間の所々に広い所があることによるという(八重葎)。

 検地は明暦2年・明和元年で,明暦2年の村高は36石余であり、生産高があまりに少ないため、法懸御免につき免税された。その後村高は「石見国高郷村帳」に33石余、「天保郷帳」では36石余山村で、文政7年には安芸吉和【よしわ】村の組頭が細谷山の杉の木を買入れているまた枌【そぎ】が天保7年に57貫410匁、安政3年に杉大枌17束・杉小枌835束を藩に献上した。

 当地では、禿ノ谷・オウコウ・河崎原で藤井氏によって鈩【たたら】が行われていた。天保8年の飢饉には被害が大で、17戸のうち6〜7軒が逃散し、5反歩の田から三斗俵が5俵しかとれなかったという。

 広見河内神社があり、この神社および村名については次のような伝承がある「安政元年1匹の鹿が広見部落へ迷い込んできたこれを河崎の部落民が捕えて殺し、肉を分けようとした時、鹿は急に起きあがって走り出したので人々は、鹿を埋葬し社を建て河内神社とした。安政2年この話を聞いた藩主が、これまで広見村といっていた村名を広見河内と改称するように命じられた」という(石見匹見町史)。

 地内を通る広見街道は途中で分岐し1つは安芸の佐伯【さえき】郡を経由して芸州の山県【やまがた】郡の二軒小屋へ、1つは五里山の頂上を通って吉和村に向かっていた。明治7年東村と合併して匹見村となる。

広見小学校についてですが、「匹見町へ行こう!」ブログに以下の記述。

広見小学校は集落移転に伴い

昭和45年12月24日に廃校式と集落移転式が行われ

翌年1月から匹見小学校に統合されています。

匹見町へ行こう!)

またもうひとつ。廃村をまとめて出版しておられるHEYANEKOさんのページから。

広見小学校は,へき地等級2級 児童数31名(S.34),明治17年開校,昭和45年閉校。 三八豪雪や集中豪雨の影響もあって過疎化が進行した時期は早く,最終年度(昭和45年度)の児童数はわずか2名でした。

広見集落の閉村は昭和45年12月。同年に制定された過疎地域対策緊急措置法(過疎対策法)を受けた匹見町の集落再編事業によるもので,最後まで残った7戸。そのうち2戸は甲佐家と久留須家だったことになります。

http://heyaneko.web.fc2.com/zsw14.html

椎茸の栽培法〜鉈目法について

 備忘として記すものなり。

 それは「タヌギなどの原木に鉈で傷をつけ(鉈目という)、自然界に浮遊しているしいたけ胞子が鉈目に付着するのを待つという極めて原始的な方法です」とある。

 私にとって、鉈目法についての関心は、いま、できる人はいるのか、が真ん中にある。

 映画「千年の一滴」の中では、宮崎県椎葉村の椎葉クニ子さんをあげていた。

 山の谷ごとに異なるような微細気候(マイクロクライメット)の読み方という点で、いま取り組んでいる竹の焼畑の可能性ともつながる。

 web辞書どまりの記述では、傷をつけて待つという、のんびりしたものだが、私が聞いたことがあるのは、胞子が飛んで付着する時期を長期で読みながら準備し、短期でよむその数日の間に、一気に原木を運ぶ(水から出す? 鉈目をいれる? それら全部?)のだというようなこと。

 文献レベルでもう少し知る必要がある。

大分がその発祥の地とされる証左はこちら。
http://hamadayori.com/hass-col/agri/SiitakeSaibai.htm
なくなるといけないので、複写しておく。

 

日本特殊産業椎茸栽培業者発祥地

大分県津久見市上宮本町

JR日豊本線津久見駅から 500mほど南西に 浄土宗の寺・長泉寺がある。

寺の土塀外側の道路脇に,古い苔の生えた大きな石碑と「由来記」と書かれた副碑が建っている。

大分県は 椎茸の大生産地で,乾椎茸では 全国で第一位,30%のシェアを有する。栽培の歴史も古く, 江戸時代初期(17世紀前半)に豊後の国で炭焼きをしていた源兵衛という人物が, 原木の残材に椎茸が生えるのを観察して 初歩的な人工栽培を始めていたという。

これは“鉈目法”と呼ばれる方法で,クヌギなどの原木に鉈で傷をつけて野外に放置し,自然に椎茸菌が 付着して繁殖するのを待つという原始的な方法であった。

江戸時代末期になると,自然に菌が付着するのを待つのでなく,積極的に種菌を植えつける方法が開発され, 椎茸栽培は大分県内に広まり,明治以降は椎茸輸出の増加に伴い 生産量も急増した。

大正時代になると,種菌を原木に打ち込む“埋ほだ法”が開発され, さらに昭和になるとくさび型の木片に椎茸菌を培養した“こま菌”を原木に打ち込む方式がが開発されて, 簡便な接種方法のため広く受け入れられ全国に普及した。

この発祥碑は,江戸時代末期に種菌を人為的に植えつける方法が行われるようになったことを記念・顕彰したもので,昭和30年に建碑された。

また,内陸の豊後大野市には「しいたけ発祥の地」という碑が建っている。

現在国内で栽培されている椎茸のうち上記のような“原木”を用いる方法を採っているのは少なくなり, 多くは“菌床法”と呼ばれる,おが屑に栄養分を混ぜ込んで固めた“菌床”で種菌を培養したもので 栽培されるようになっている。 しかし大分県での椎茸栽培は,現在もほとんどが原木を用いているのが特徴である。

なお,この発祥碑については 若干の疑問点がある。

§ 発祥碑の表面に刻まれている文字は「日本特殊産椎茸栽培業者発祥地」と読み取れ, 「産業」の「業」の文字が抜け落ちているように思われる。

「特殊産」では意味が通じないし,副碑(由来記)には 「日本特殊産業椎茸栽培業発祥之地」と書かれていることから,「特殊産」というのは誤記ではないかと想像される。

 

§ 標題の「日本特殊産業」とは何を意味するのだろうか? 椎茸栽培は林業に分類されているので,その中の“特殊”な業態という意味であろうか。

§ 椎茸栽培の発祥地は “静岡県伊豆半島”説がある。

伊豆は17世紀末~17世紀にかけての話であるのに対して,大分県は 17世紀前半なので, 大分の方が若干早かったが,いずれも不確かな伝承に基づくので断定は難しい。

 

日本特殊産椎茸栽培業者発祥地

(副碑)

    由来記

往昔天保の頃津久見の先覚者彦之内区三平西之内区徳蔵嘉吉平九郎

久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し三平徳蔵は石見へ出向椎茸栽培

業を経営す是中国に於ける専門事業者の始祖なり嘉吉平九郎久吉は

九州奥地に於て創業した是九州地方の専門的事業者の始祖にて郷土

の子弟に是を継続して連綿百二十余年伝統を保つ而て本業の推移は

時恰も幕末期にて営業上幾多の支障あり従て労多く得少く継続困難

の状態なりしが明治初年日支貿易開港以来輸出椎茸旺盛となり価格

の躍進につれ本格的に事業化し此頃より業者の数も著く増加せしは

歴史が明示する九州地方百九十四名中国四国済州島地方七十余名の

専門事業者を算す斯くて日本特殊生産品として輸出市場に名声を高

揚し神戸港及長崎港を経由輸出椎茸は年々巨額に達せり其大部分は

津久見人の出先経営地の生産品である実に開港以来七十余年間何等

名聞も求めず深山に籠り孜々黙々として外貨獲得の一役を果し其余

沢は郷土の経済安定に寄与し一面着々未墾地の開拓を励行し風土に

最も適応した柑橘園の基礎を構築したのも現実が証する此先輩の貴

い伝統を子弟は能く継承し出ては貿易品増産に勤め入りては郷土の

産業を振興した其業績の偉大さは全国的に総合し椎茸栽培専門業者

として抜群的特技の存在にて是業界再興の権威日本特殊産業椎茸栽

培業者発祥之地を穣成す此国家的大産業の振興は津久見市の大なる

誇なり茲に碑を建設し過去と現時を通じ斯業に精進せる郷土人士の

敢闘精神と其業績を讃へ以て永遠不朽の記念とす

  昭和三十年五月二十一日

        一介茸山子  西郷武十 (八三翁)

  そして、大分から中国地方へこの技術が伝わる拠点となったのが、匹見町広見であるという。それについては今度。

志津見で行われていた竹の焼畑

竹の焼畑メモを更新しました。

重複しての引用を以下にひっぱります。
飯南町の志津見では竹の焼畑の証言が白石昭臣『竹の民俗誌』p.26にもある。

 …前略…三瓶山の東麓にわたる神戸川上流域の山村。近年、この地区内にダムができることにより集落の再編がみられるが、かつてはハンゲ(※1)までに田植えをすませると、組ごとに管理する山を焼く。無用山ともいう竹や笹を主とする雑木山を焼くもので、サンカ(山火)ともいっている。一戸あたり1.5町歩(約150a)を焼くという。

40年ほど前(昭和35年ごろ)までみられたもので、まず共同体で竹木を伐り、飛火を防ぐ道を切ってから、火入れをする。よく焼けるという。焼いたあとまだ灰の冷めやらぬうちにソバやカブを播く。2年目にクマゴ(アワ)、三年目にナタネなどを作る。そのあと放置し牛を放牧する。クマゴは1反(約10a)あたり6俵(約430リットル)の収穫をみたという。ソバもよくできていた。かつては麻も栽培していた地区であり、ここでも田の神サンバイは3月から山から田に、ハンゲがすむと麻畑に入り、山に行くという。

昭和35年頃までみられたということは、証言を集めることは今でもできる。

読み落としていてちょっと驚いたのは、焼畑4年目以降に牛を放牧するということ。この牛は肉牛だったのだろうけれど、詳細を知りたい。また、組で管理していた無用山という存在についても。入会地の呼び方として。なぜ「無用」としたのか。

*令和4年12月17日追記
昭和35年頃までみられたのである。これ聞いてみなくては!

奥出雲での竹の焼畑、その後1

前回、ちょろりと奥出雲のたたらと刀剣館できいてみた話は、「奥出雲で竹の焼畑なんてきいたことがない」だった。そこで、再度、白石昭臣氏のテキストを読んでみた。

『竹の民俗誌』2005.

仁多町三成地区では、八月上旬に北川泉・島根大学名誉教授の指導の下、焼畑でカブを栽培してふるさと起こしのひとつにしている。

ここでいう焼畑の意味するものがなんなのか、にもよるのだ。白石は前掲の第2章・竹と農耕のなかで、「竹の焼畑」の認知度の低さをあげている。
高木林を伐採した後に焼くフォレスト・フォロー型の焼畑とは異なる、当初からの竹山(灌木などの雑木を部分的に含む)を焼くブッシュ・フォロー型の焼畑は、西日本から東海地方にかけて、かなり広範囲に分布している。

……中略……

九州地方では、竹の群生する竹薮の焼畑は古くから存在し、これをヤボと称して、高木林を伐るコバと区別してきた。(昭和11年3月,倉田一郎「焼畑覚書」,椎葉村の調査)
椎葉では、こう呼ぶ。

焼畑……ヤボキリ
コバキリ

西臼杵(椎葉の隣、高千穂)では、こう呼ぶ
ヤボ……焼畑
コバ……山畑
コバサク……焼畑作業のことで、ヤボとコバ両方でつかう。

いやいや、大変だよ、これ。理由はその2にて。中途ですが、今回は以上。

初詣に斐伊神社と木次神社へ〜その1

 あけましておめでとうございます。
 今日は仕事はじめ。初詣からをふりかってみましょう。 大晦日はカフェオリゼの年越しで深夜まで仕事のお手伝い。元旦は朝遅くにめざめまして、お雑煮つくって食べました。午後に、大原郡の郡家跡に停めている車を動かして斐伊神社と来次神社へ初詣。
 斐伊神社(月の光)  斐伊神社wikipedia 
 自宅から徒歩3分のところに郡家があったという由緒ある土地であることに改めて感心します。表示もなにもおかれていないのですが、山と川に想像をめぐらせて千年の歴史へダイブしていけるような、気持ちよい場所です。
 さて、そこから車で1分のところにあるのが、斐伊神社。
 斐伊神社は遠い昔、樋(Hi)社と呼ばれ、大宮の氷川神社はこの樋社から分霊されたというのです。が、その時代は孝照天皇三年。神武天皇からかぞえて三代目の天皇にあたるのですが、歴史の闇にあって、年代すらさだかではありません。後代の作文の可能性もありますが、埼玉には出雲系の氏族の色が認められるだけに、そのルーツがここ斐伊であると言いつのることも、荒唐無稽ではない。

 

 祭神はスサノオ命として現在、祀られていますが、はて、かの時代には、いかがであったか。埼玉の大宮神社では、アラハバキ神がもともとの祭神であったという説もあります。アラハバキスサノオ、2神の系譜と関係をみてみるとこから交差するものをひろってみるとおもしろいのかもしれません。 …つづく。

雪道

 雪道を3本、あげてみる。そんだけ。

 三所の家の屋根の応急処置は2日前にやりました。まあ、あの箇所は大胆にごそっと補修せんとですわ。  トタンをかぶせただけです。とめることはせず、軒の端に棒をたてておさえてあるだけ。風で飛んだらどうしよう。風の強い日は心配ですけど、その都度気になる存在になってしまいました。雪がつもってくれたほうが重しになってかえって安心かもかも。