奥出雲での竹の焼畑、その後1

前回、ちょろりと奥出雲のたたらと刀剣館できいてみた話は、「奥出雲で竹の焼畑なんてきいたことがない」だった。そこで、再度、白石昭臣氏のテキストを読んでみた。

『竹の民俗誌』2005.

仁多町三成地区では、八月上旬に北川泉・島根大学名誉教授の指導の下、焼畑でカブを栽培してふるさと起こしのひとつにしている。

ここでいう焼畑の意味するものがなんなのか、にもよるのだ。白石は前掲の第2章・竹と農耕のなかで、「竹の焼畑」の認知度の低さをあげている。
高木林を伐採した後に焼くフォレスト・フォロー型の焼畑とは異なる、当初からの竹山(灌木などの雑木を部分的に含む)を焼くブッシュ・フォロー型の焼畑は、西日本から東海地方にかけて、かなり広範囲に分布している。

……中略……

九州地方では、竹の群生する竹薮の焼畑は古くから存在し、これをヤボと称して、高木林を伐るコバと区別してきた。(昭和11年3月,倉田一郎「焼畑覚書」,椎葉村の調査)
椎葉では、こう呼ぶ。

焼畑……ヤボキリ
コバキリ

西臼杵(椎葉の隣、高千穂)では、こう呼ぶ
ヤボ……焼畑
コバ……山畑
コバサク……焼畑作業のことで、ヤボとコバ両方でつかう。

いやいや、大変だよ、これ。理由はその2にて。中途ですが、今回は以上。

初詣に斐伊神社と木次神社へ〜その1

 あけましておめでとうございます。
 今日は仕事はじめ。初詣からをふりかってみましょう。 大晦日はカフェオリゼの年越しで深夜まで仕事のお手伝い。元旦は朝遅くにめざめまして、お雑煮つくって食べました。午後に、大原郡の郡家跡に停めている車を動かして斐伊神社と来次神社へ初詣。
 斐伊神社(月の光)  斐伊神社wikipedia 
 自宅から徒歩3分のところに郡家があったという由緒ある土地であることに改めて感心します。表示もなにもおかれていないのですが、山と川に想像をめぐらせて千年の歴史へダイブしていけるような、気持ちよい場所です。
 さて、そこから車で1分のところにあるのが、斐伊神社。
 斐伊神社は遠い昔、樋(Hi)社と呼ばれ、大宮の氷川神社はこの樋社から分霊されたというのです。が、その時代は孝照天皇三年。神武天皇からかぞえて三代目の天皇にあたるのですが、歴史の闇にあって、年代すらさだかではありません。後代の作文の可能性もありますが、埼玉には出雲系の氏族の色が認められるだけに、そのルーツがここ斐伊であると言いつのることも、荒唐無稽ではない。

 

 祭神はスサノオ命として現在、祀られていますが、はて、かの時代には、いかがであったか。埼玉の大宮神社では、アラハバキ神がもともとの祭神であったという説もあります。アラハバキスサノオ、2神の系譜と関係をみてみるとこから交差するものをひろってみるとおもしろいのかもしれません。 …つづく。

雪道

 雪道を3本、あげてみる。そんだけ。

 三所の家の屋根の応急処置は2日前にやりました。まあ、あの箇所は大胆にごそっと補修せんとですわ。  トタンをかぶせただけです。とめることはせず、軒の端に棒をたてておさえてあるだけ。風で飛んだらどうしよう。風の強い日は心配ですけど、その都度気になる存在になってしまいました。雪がつもってくれたほうが重しになってかえって安心かもかも。

天が淵の西岸の集落の雪景色

 今朝の雲南市木次町はふたたび雪。

 通勤途中の天が淵付近、国道314号脇に車をとめて、撮りました。

 斐伊川の西岸の集落です。確か地名は「川手」。
 天が淵にまつわる伝承について、神陵や神社や、淵の底がお寺の井戸(だったかな)とつながっているとか、そのような話はすべて東岸に由来地があります。

 そして、この写真に見える西岸にはまったくない。

 そのあたり、もう少し知りたいところです。なぜなのかを。

 

20141222天が淵

奥出雲タケヤマ開拓2014ー第2回レポートの序

 実施報告をつくって、竹取り通信第3号を発刊せねば。

 島根日日新聞に記事が載りました。これこれ。

「目指せ荒廃竹林の整備」とあるのは、新聞の方便というべきもので、そんなことはひと言も申し上げてはおりません。大義名分としてわかりやすく批判のでないフレーズとなると「竹林整備」に落ち着くことはよくわかります。

 しかし、運動・活動の主体のひとりとしては、とても違和感があるということだけ申し上げておかないとと思います。そう、違和感があるのです。この活動は微妙な立ち位置にあります。

 そもそも、なぜ荒廃竹林を整備する必要があるのか、整備できるのか、どこまで、誰が、どうやって整備するのか、などなど。そのような問いはおきざりにされたまま、とにかくやりましょうという記事になってしまうのですね。

 この活動は松江市で開催しているセミナーとリンクしているのですが、鳥瞰的、意味論的、思想的、問題発見的、、、まあ、はっきりしないといえばはっきりしない足取りでやってます。いかんだろうね、これじゃ、非難をあびておかしくない。むしろそれ、歓迎。

 

 そもそも、賛否うずまくことというものは、「否」の存在感がクローズアップされることになっています。とくに規模が拡大した社会機構ではそう。マスメディア、大規模店舗、大都市……挙げ方が不自然ではありますが、がたいがでかいもの一般というくらいの把握でもいいでしょう。

 しかし、ですね、否が唱えられないことがいいことであって、それしかできない・しない社会って、もう終わりに向かって進んでる社会だと思うんです。

 

 タケヤマ開拓がめざすのはぼんやりしたものですが、山地酪農と竹との共存をめざしているといえば、ようやくちょっと近いのかもしれません。竹林整備はその一部でしかない。

 ま、そんだけ。

 ああ、ぐだぐだですね。私も頭の中と計画を整理せねば、です。

 今日も徹夜か、体力がほしい!

 

奥出雲での竹の焼畑

横田地域に「竹に驚く日」のチラシ配布。横田のコミセン、そろばんと工芸館、刀剣館、島根デザイン専門学校、キャロットハウス、そんだけまわっただけですが、竹の焼畑について刀剣館できいてみました。さっそく尾方さんに電話で照会。尾方さんから教育委員会(社会教育委員)のタカオさんにもきいてもらったようです。以下箇条書きにて要点のみ。

・奥出雲では竹の焼畑についてはきいたことがない。

・いまでこそモウソウなどがはびこっているが、もともと竹は少なかった。竹細工をするにも探してくるのに苦心したという子どもの頃の記憶もある(尾方氏)。貴重なものだったので、焼畑に供するようなことはしなかったのではないか。もともと木炭製造のための造林のための焼畑はよくあったことで、たたら製鉄に由来する焼畑はここの特徴であるが、竹のそれはこれまで聞いたことがない。

・モウソウチクが奥出雲へ入ってきたのは江戸後期から明治にかけて、である。

といったところ。いくつかのとっかかりがみえてきました。

工芸館では竹の工芸をやっている方をご存じないか、事務局できいてみました。この界隈ではいらしゃらないと。趣味のレベルで竹細工をやっている人はいるだろうが、ということでした。

*2022年12月17日追記

よくまわったものだが、「モウソウチクが奥出雲に入ってきたのは江戸後期から明治にかけて」ということだが、ここをもう少し掘り下げてもみたい。また「たたら製鉄に由来する焼畑」についても。

田舎の風景が美しいのはなぜだろう

3週間ほど前に撮影したものだと思う。この1週間後から寒波到来となり、雪の季節がはじまった。それにしても、この配置のバランスの妙といったらない。ただただ美しい。

山方の晩秋風景

こうして干された大根は漬けられるのだろう。小さな小さな小屋の軒先につるされ、ほのかに夕陽をあびている白い白い大根。

大根干し

ここは木次町平田の山方。なぜこんなところに集落がと驚くような、急な山の坂道をのぼったところに数軒が集まっている。わずかに開けた田と小さな畑があるのみ。冬の労苦を思わずにはいられないが、春の喜び・夏の夜空・秋の稔りもまた、想像するにあまるものがある。
そんな思いがなぜ生じるのかといえば、だんだんと目の前から消えていき、やがてなくなってしまうかのような風景であるからなのだと、思う。
また、そんな感傷に沈むのではなく、もう少し、これを残す、継ぐための、記録と分析の方法を考えてみたい。ランドスケープ。概念として、そこから。

天が淵の今

 斐伊川の八岐大蛇伝説は右岸(東側)に著しく偏っているようです。左岸は皆無にひとしい。また、「伝説」とはいいますが、ルーツは曖昧でかつその言説をたどってみれば近年、「観光推進」の文脈から発しているものであり、ふわふわと軽いものに思えます。
 ひとつひとつのルーツには興味をそそられるものもあります。パワースポット狂想曲や、ご縁の国などという言葉に惑わされることなく、足をはこんでみられたし。

 群書類従の神祇部におさめられた『雲州樋河上天淵記』に由来する天が淵周辺は、もう少し文字の記録などあってもよさそうです。これは宿題。

 また、天が淵の他に、オロチ伝承を表している地について、参照できるサイトをあげておきます。
    *1 追記改訂済み。初稿時から7年ほどが経過して、随分と充実している。

◆印瀬の壺神・八口神社

…現在壺神を祀る地は八口神社の境内となっているが、この神社と壺神との関係は明確ではない(壺神と神社とでは例大祭の日取りも全く異なるため関連性は薄いと考えられる)。旧6月晦日の夕刻には、壺神祭として8本の幣と8品の供物を献上する習わしが続けられている。

・出雲の伝承/印瀬の壺神・八口神社(島根・雲南市)

 …いま地元では、小中学校の生徒に地元に残る伝承などを教えているそうで、当地も伝承地の一つとして、道路・駐車場の整備などが行われている。*注)写真を前掲「日本伝承大鑑」が掲載しているものと比較してみると整備ぶりが明らか。

…壺に触れた途端、天はかき曇り、山は鳴動して止まず、八本の幣と八品の供物を献じて神に祈ったところ、ようやく鎮まった。それ以来再び壺に触れることが無いように、多くの石で壺を覆い、玉垣で囲み、しめ縄をめぐらした。

 

◆八本杉、斐伊神社

・出雲の伝承/八本杉

低い木柵に囲まれた中に8本の杉の木が聳え、その中央に「神代□(神か)蹟 八本杉」と刻した自然石の碑が立っている(大正6年建立)

 

 天が淵は雲南市の公園にもなっていて、訪問者もあるし、「行きたい」とおっしゃる方も多いのです。10月末に行ったときの写真がこちら。通勤路として毎日そばを通っておりますが、車をとめておりてみるのは久しぶりでした。

 

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 ずいぶんと漂着物が多いです。また流されていくべきものなのか、清掃すべきものなのか。目の前にあるものくらいは拾っておこうと思います。

 

関連記事

天が淵へ至る道 序 – 樟の森の研究室

 

*1 追記改訂…元記事を以下に残す。リンク切れ。

 ・印瀬の壺神、八口神社 ・八本杉、斐伊神社  どういう伝承地があるかについては、雲南市の観光情報サイトが複数あるのですがそのひとつを。

 ・ヤマタノオロチ伝説/うんなん旅ネット  そして、個人で地図におとされている方がこちら ・ヤマタノオロチ伝説伝承地 

屋根の応急処置なんとか

私、夏の8月から時計がとまっています。
あぁ、あの家、どうなっているのでしょうねえ、この雪で。
トタンの屋根が落ちているのです、北側が、ちょうどこの写真でみえるところね。向かって左のほうにやぶれているのが見えますでしょうか。きちんとやるにはトタンを切ってはがして、なんでしょうけれど、そんな技術、時間、お金はありません。上からかぶせてずれないようにして、春を待ちます作戦(作戦でもなんでもない。すんません)。

ポリカーボネイトの板をかってきて、仮どめでもなんでも打ち付けてしまいますわ。
<DIY日曜大工で家をつくる>
http://diy-ie.com/koya-porika.html
このページを入門編として、もちっと詳しいものがほしいのですが、グーグル先生も最近はとにかう商業サイトにおされて、「買え買え」ページの羅列で埒があきません。書籍をめくってみることします。
そして、問題は天候。2〜3日晴れた日が年末にありますように。