2月16日(日)の奥出雲竹取りの会〜実地研修

 2週間後に実施する研修会の時程をやっと作成。

 地元の講師と打合せをしてきました。

 杉との混交地帯を刈るのがいいかもしれません。最初の写真のところ。

 目的は竹(地下茎)の拡大抑止です。すなわち、棹からの栄養吸収を少なくすること、新たな棹の成長をとめること=すなわちタケノコを掘ることと若い棹もとってしまうこと。

 なかなかの急斜面ですが、撮影している地点は平地であり、出しやすいです。

 炭焼きの窯があります。竹炭焼きをやってはという案がありますが、木炭は経験があっても、竹は未経験だとか(今日の打合せで知った)。材を用意しておくだけでもよいとは思いますが、メニューが多すぎて沈没しても困るので、余裕とやる気のバランスをみて、です。

 刈って、チッパー(手前の小屋にある)でチップ・パウダーにしてしまうところまでを主なメニューとします。

 さて、明日は配布・告知用のチラシをつくりますよ。

竹の焼畑についての断片

竹の焼畑について、まず、出雲そば.comで記述を見つけたので引っ張っておきます。

白石昭臣氏のコメントの中に出現します。

①学者の中には竹の焼畑などできはしないだろうと否定する人もいますが、今でも経験者がおられます。東日本のような大がかりな焼畑ではなく竹薮を焼くとか、雑木や草むらを焼くというブッシュフォロー型のやり方です。

ちょっと、4者の会談の中での脈絡が読めないところがあるのですが、竹の焼畑も含めた島根での焼畑についての言葉だろうなあというのが次。

②昭和25年の記録で、島根県では106町歩の焼畑をやっています。石見地方が中心です。その焼畑で作ったのはそばですね。

この後、荒木英之氏、中田敬三氏とのやり取りがなされる。

荒木 孟宗竹はどっちかというと沿岸部が多いのです。それと竹と木とでは地下茎が違います。竹はほとんど表面だけだから焼いて畑にするのは楽です。木の生えている林だったら根が深くてそういうわけにはいきません。

白石 土用の後に切って盆明けに燃やすとよく乾燥して油がありばちばちと非常によく燃えて、類焼を気遣うくらいです。そこで作ったそばは貢納の義務がありません。

焼く時は数人で焼きます。そしてとれたものは、「もやい」といって皆で分配します。これは記録に残りません。だから記録に残らないそばの文化がずい分あるのではないかと思います。

中田 もやいですか、「ゆい」から来ていますね。

白石 雑木や竹の山に道切りをして火を入れます。多くて四、五人、家族だけという所もあります。私の知っている方で今68才の経験者がおられます。隠岐では焼畑のことを「あらけ」、あるいは「あらあけ」と言います。ここではそばも作っていました。しかし牧畑では麦が中心です。この牧畑は「あらけ」から生まれたものです。牧畑は、ほんの形だけですが隠に残っています。これは貴重だと思います。隠岐だけでなく中国山地のいたる所でやっていた栽培形式です。輪転式で、中心は粟山、麦山です。ローテーションがありまして、土地を分けて栽培するとか、組み合わせてやっています。かっては共有地だったのでしょう。

白石昭臣氏には大河書房から2005年に刊行された「竹の民俗誌 」もあって、一読はしたものの、まとまりに欠けた印象が強い。資料として確保しておきたいのですが、絶版ゆえなにぶん高値です。島根立図書館で読めるので、再読して確かめます。

つらつらと調べる中で、竹の焼畑については、川野和昭氏のいくつかの論攷を確かめるべきと認識しました。竹の焼畑の再現と記録を企画・実行しているのです。それが『竹の焼畑-十島村悪石島のアワヤマ』(2001年/50分/民族文化映像研究所/鹿児島県歴史資料センター黎明館)。このドキュメンタリーの撮影に携わったのが、知人であり、「タケヤネの里」を上映したいと話していた広島在住の青原さとし氏なのですよ。なんと。

さて、川野氏の小論ですが、ウェブに転がっているものですと、<竹の焼畑〜森を食べ森を育てる持続可能な農耕〜>があります。
要点を整理してみます。

1)焼き畑地として、木だけの山よりも竹の山を意識的に選択する「竹の焼き畑」を伝承する地域がある。九州山地を北限、高知県の椿山にわずかな痕跡が確認。

具体的には鹿児島県のトカラ列島、三島村、大隅半島東海岸、さらに熊本県五木村泉村(五家荘)、宮崎県の米良地域、椎葉村……である。

…とあるのですが、白石昭臣氏によれば山陰でも「竹の焼き畑」があったといいます。出雲の蕎麦栽培とも関連している。

これは、確かめる価値があります。県立図書館へ赴く前に、川野氏の小論の整理を続けます。

2)東南アジアにも「竹の焼き畑」はある。

3)日本でもアジアでも「竹の焼き畑」の共通点は、竹の再生力の強さと「半栽培的」な採集畑としての利用である。

竹の再生力の強さというのは、焼いた翌年にはタケノコがとれ、10年たてば元の竹の山に戻り、火入れが可能となるという点。日本の雑木の焼き畑が20〜30年で元の森に戻り、また焼くというサイクルよりも循環が短い。

次の「半栽培的」というのは、ちょっとわかりにくい。

畑としての利用は1年から2年で終えて、あとは山菜や筍を採取する「里山」的利用が続くということだろうか。

3)鹿児島県十島村悪石島では、タケ(琉球寒山竹)の山を伐って焼いて、粳粟を栽培するアワヤマ(粟山)と呼ぶ竹の焼畑を、昭和30年代まで行っていた。

1年目はアワヤマ

1年経てば竹の子畑

3年経てば元の(竹)山

10年すればまたアワヤマ

と語るように、粟は1年だけ作る。

その跡地では翌年からタケノコが取れるようになり、10年経ったら山が再生するので再び伐る。

4)九州山地の「竹の焼き畑」では、木の山の焼畑との比較がさらに際立つ。

・「タカヤボ」、「タカコバ」、「スズコバ」、「タッコーラ」という呼称。

・稗、粟、蕎麦などを栽培。特に稗は「タッコーラビエ」と呼び、一番美味しい稗であると語られる。

・伐る作業が木よりも簡便

・木の山の2倍深く焼けて雑草が出にくい

・竹の灰が天然の肥料となる

・根が張り表土が流れにくい

・出来た作物が美味しい

・地力の復元(森の再生)は10年ぐらいで木の山よりはるかに早い

5)九州山地でも悪石島同様に、アラシ(焼跡地)に出てくるタケノコを食料として利用する。それ以外にも、茶、ドジン(ヤマウド)、タラノメ、ゼンマイ、ワラビ、サド(イタドリ)など豊かな採集場となる。特に、干し竹の子とお茶は重要な換金作物となる。

写真は2〜3枚ほどしかウェブでは見ることかないませんが、刈った竹は斜面に対して水平に並べて置き、火を上から入れています。……もっと詳しく見たいものです。目指せ「焼き畑倶楽部」。

■追記2022/10/01

・出雲そば.comはリンクが切れてしまった。ただ記事の内容そのものは冊子になっているが書名失念。島根県立図書館で蔵していると思う。

・竹の再生力の強さに関して。焼いた翌年にはタケノコがとれるのは、全面皆伐しなければの場合であろう。

本川達夫先生のこと

 本川達夫先生。

 「ゾウの時間、ネズミの時間」の著者として知られる、棘皮(きょくひ)動物の研究者です。

 ナマコ、ウニ、ヒトデ、等々。

 「なぜ棘皮動物の研究者になったのか」…その理由が素晴らしいと妻がいうので、読んでみたらば、胸をドンドンと打たれるような、心の底の蓋がぱかんと開けられてしまったような、そんな想いで一杯になりました。

 原文はこちらです。

 本川達夫について 東京工業大学 本川研究室

 また、ページが無くなって消失してしまったときのために、以下に転載しておきます。

 なぜなら、今年度で大学を退官されるのです。

 最終講義は、3月21日です!!!!

 行かねば!

 「なぜ棘皮動物の研究者になったのか」本川達夫

 専門は生物学。棘皮(きょくひ)動物(ナマコ、ウニ、ヒトデ、ウミユリ)の硬さの変わる結合組織の研究や、 群体性のホヤを使ったサイズの生物学の研究をしています。

「動物学者です」と言うと、

「動物がお好きなんでしょうね」

としょっちゅう言われるのですが、それほどの動物好きではありません。子供の頃から殺生が嫌いで、昆虫採集など、やらない少年でした。

 ナマコを研究していますと言うと、「初めてナマコを食べた人は偉いですね」と、判で押したように言われます。それほどまでにナマコはグロテスクなのでしょう。小生も、こういうイモムシ形の動物は、好きにはなれませんね。30年近くナマコの研究をやっていますが、いまだにだめです。でも、ナマコのことを知ればしるほど、ナマコを尊敬できるようになってきました。尊敬できれば、嫌いであっても付き合っていけます。

 さてさて、それではなぜ動物学の研究を? そしてナマコを? ということになりますが、それは、そもそも小学校の頃から、ずっと学問をやりたかったからです。

 ではなぜ学問を? ということになりますが、それは正しいことで身を立てたかったからです。自分が儲かるとか偉くなるとかとは関係なく、正しいことをやって生きていければいいなあと、子供ながらに思いました。正しい方向に歩いていれば、やましくなく生きていける。また、正しい方向に歩いているとは、正しいものとともに歩いているという安心感が得られる。ーそんな気がしていました(こんなふうに言葉では表現できなかったでしょうが、小学校の頃から、強くこういう感覚をもっていました)。

 動物学を選んだ理由は、純粋な学問をしたかったからです。社会に役立つ学問は応用の学問です。儲かってしまいます。それは不純な感じがしました。それに、社会に役立つということの裏には、自分にも大いに役立つという思惑が、透けて見えるような気がしました。そういうまやかしは、やりたくなかったですね。正しいことが第一で、好き・役立つ・儲かるなどは二の次。どちらかと言えば、嫌いなもの・役に立たないもの・儲からないものに目を向ける方が、ごまかされないで安全だと思いました(ごまかされるというのは、他人にごまかされるという意味よりむしろ、自分の心にという意味です)。

 理科離れをどうやって止めようかと、いろいろ議論されています。その関連の文部省の委員会に出ていたことがありますが、そこでの発言は、理科の大切さをアピールしよう、理科の面白さをアピールしよう、理科のすごさをアピールしよう、という趣旨の話ばっかりでした。具体的には、子供たちをピカピカの機械にさわらせればいいだろう、学校をインターネットでつないでコンピュータを身近にしたらいいだろう、などと、技術自慢の話が多く、小生のように、「理科は正しい、だから理科をやれば心の安心が得られると宣伝しよう」などという意見を言う人は皆無でした。

 それはそうなのですね。だって、今の科学技術はちっとも正しくありませんもの。科学技術をなりわいとしても、心の安心など、まったく得られません。技術者は、つぎつぎと新しい製品を作って売らねばなりませんし、科学者も、少しでも他人を出し抜こうと競争しており、休まる暇がありません。

 それに、科学技術が向かっている方向自体が、はたして正しいのでしょうか?

 現在の科学技術は、人間の欲望を満たしながら、欲望の火をさらに燃え立たせることに奉仕するものだと、私は考えています。これでは、科学技術は正しいものとは呼べないでしょうし、科学技術で心の安心など得られません。だから、私が、正しい道を歩むために科学を選んだというのは、間違っていたのですね。

 でもやっぱり、私としては、科学に正しさを求めたいのです。だからこそ、科学を批判的に見る努力を、いつもしています。それに、現代社会は、すべての営為が人間の欲望を満たすためのものという気がします。そう居直って見渡してみれば、直接のお役に立たない学問は、やはり、清く正しい営為だと思います。

 もちろん、自分だけ清く正しくしていて、それで税金で養ってもらおうなどとむしの良いことを言うのははばかられることです。だからそれなりのサービスをするように、常日頃こころがけていますし、覚悟としては、たとえ労ばかり多くて儲からないことであれ、つまらないことであっても、やるべきことには汗を流す必要があると思っています。そこで、小生のスローガンは次のとおり。

「清く 正しく 貧しく 美しく、めざせ、学問の宝塚!」

「貧しく」を入れておけば、人生、大きな間違いはないと思っています。

 さて、直接、社会のお役に立たない学問をするならば、理学部か文学部という選択になります。中学の頃には、どちらかの学部に進もうと思いました。

 学問を一生していきたかったもう一つの理由に、「私とはなにか」という疑問をずっと問い続けたい気持ちがありました。ふつう、こういう疑問をもつと文学部に行くのすが、文学部というのは人間の頭や心の中ばかりのぞき込んでいる気がして、躊躇しました。それに「文学部」というと、なんだか自己破滅型の人間じゃなければ行ってはいけないような思いこみがあったものですから。(このあたりは、吉永氏のインタビュー記事も参照

 さて、理学部でも、物理も化学も生物もあります。

 物理のように、分子や原子で「私」を含む万物を理解しようとするのは、すっきりとして気持ちは良いのですが、どうも愛想がない気がしました。

 世の中では、自然のことは分子・原子ですっきりと理解し、人間や世の中のことは心でなんとなくあいまいに理解するという、二極に分化しすぎているように、当時の私には思えたのです。そこで、心と原子の中間の立場、つまり動物の視点から「私」を理解してみようと思い、生物学科(動物学教室)に進学しました。

 こういう発想だと、ふつうはサルの行動を研究する、というふうに進むのがお定まりの道でしょう。でも、なるべくクールに動物を学ぼうという思い、人間とは大いに違うものを研究することにしました。

 大学院では貝の研究、それから、ナマコをはじめとした棘皮(きょくひ)動物、そして今はサンゴやホヤも研究対象にしています。これらはどれも皆、あまり動かず、神経の発達していないものたちです。ヒトとは生き方がまったく違います。こういうものを見ていると、動物としてその対極にあるヒトの特徴がよく見えてくる気がします。

 これらの動物(とくに棘皮動物)は、みな、ほとんど研究者のいない分野です。

 私は、原則として、みんながやっていることや、やりたがることはしないことにしています。

自分や社会が儲からないことは、やらないのが、今の世の中です。嫌いなことは、もちろんやりません。でも、みんなが見捨てていても、みんなが嫌いでも、だれかがやらねばならない大切なことは、いろいろあるはずです。そういうことをやるのが尊い人生だと、私は思ってきました。

 ナマコは誰もやりたがりませんね。儲かりませんし、ナマコでノーベル賞がでるわけもないし。

 以上、なぜ動物学、それもナマコなのかということを、長々と述べてきましたが、小生のこういう性格からすると、一昔前なら比叡山に登っていたと思いますね。今でも出家願望はあります。

また、短いコメントですが、動画をひとつ貼っておくのです。本川 達雄 -効率の追求と学問の衰退

竹の家……Bamboo House

 竹の建築について、いくつか調べてみた。ネットで漁る程度であるので、ほんの備忘であり、近いうちにもうちょい突っ込んでみたい。たとえば、その強度・耐久性と、コスト(主として労力)について。
 まずひとつめは、陶器浩一氏(滋賀県立大)の一連の建築。2012年度の日本建築大賞を受賞した「竹の会所」。(写真は、わわプロジェクトから)

 2013年度は滋賀県でプロジェクトを進めていらっしゃって(菩提寺まちづくり協議会)、今度は第5回建築コンクール大賞を受賞された。滋賀、京都、名竹林にブランド筍の産地復興を目指す地でもあって、見学してみたい。

 意匠の魅力は誘惑し人を行動へと駆り立てる大きな力だとは思うのだけど、実用的で無骨な感のある「首都大学東京+青木茂建築工房」によるBamboo Houseは、サイズや仕様を洗練させて汎用性を高めていけそうだ。
 竹による屋外テント、農業用ビニールハウス、可能性は高い。
 そして、完成度という点ではやはり、こちら。
 竹でつくられた世界最大の建造物がインドネシア・バリ島にある。

 グリーンヴィレッジと名付けられたその「場所」は、シュタイナー教育に基づいた学習コミュニティであり、「自然と人との共生」を柱とし、「会社」「学校」「図書館」「食堂」「寄宿舎」「ゲストハウス」からなるらしいです。
 ONE PROJECTの記事(写真もONE PROJECTより)で知ったのですが、これはやはり一度は行かねばなのでしょうか、バリ島。

 開放的な南方建築とは、とても相性がよいのだなあ。
 

とんどさん

 「とんどさん」という呼び方は出雲地方に多いようだ。

 標準語的には左義長

 年神、歳徳神を送る、火の祭り。

 wikiくらいではようわからん。

 竹を焼く、竹の焼畑とのつながりが、見えてくると面白い。

 自分自身の記憶では、子どもがかかわる祭りである。

 他の祭事が大人の祭りであって、女人・子どもは入らないものであるのに対して。

 冬の祭りであることと、子ども=死者という見立てのもとに、祭礼の意味を考えてみるのも一興かなあ。

冬の竹もきれいだよ

ここのところ、「竹林整備活用事業」について学習会などを実施している関係上、竹をみるとつい近づいて観察してしまう。今日は、奥出雲のとある山にちょっとわけいってみた。

雑木林に竹が侵入しているのだが、ある程度は間伐してあって、きれいだ。特に雪の白に青い竹は映える。

昨今、繁茂する竹を目の敵にしたような口ぶりを、とくに環境教育に携わる方々が多くするものだから、「竹やぶ=悪=駆除すべきもの」という洗脳が進行しているようで、憂慮している。今日もある環境アンケートをまとめていて、そう思った。しかし、10人に0.5人か1人は、空気に惑わされない人がいるものかもしれない。竹が侵入しはじめているとある場所への景観アンケートがある。その地点で案内者が、件のように竹を困った存在として説明したものだから、アンケートは「刈ってしまえ」のオンパレード。その中にあって、「竹は部分的には残してもよい。風にそよぐ感じがよいので、バランスがとれればよい」という一文があって、涼風が吹き抜ける爽やかさを感じた。

「困った」「大変」という立場でなく、竹の声を聴き、どう付き合っていくのかという、そんな立ち方、振る舞い方、ものの言い方を、ひろげていきたいものだ。

天が淵へ至る道 序

 ここは私がつい1週間前まで住んでいたところから徒歩10分ばかりの地点です。斐伊川の上流域にあたり、天が淵と呼ばれる伝承地です。いまでも毎朝この景色を横目に通勤しています。

 

淵のあたりを撮ったのがこちらです。公園として整備されていて、水辺までちかよることもできます。

 

川沿いには国道314号線。この幹線道路建設について、調べてみたいと思っています。このルートを策定するにあたっての諸事を掘り起こしてみたい。この斐伊川中流域を街道が通ったのは明治に入ってからであり、長い間、街道筋からは外れていたようです。写真にみえる右手の集落は川手。和名抄には、川手郷との記載があります。

 さて、この天が淵、八岐大蛇が棲んでいた(いる)ところとして、ネット上にたくさんの記事があがっています。しかるに、ほとんどがコピー&ペーストされたもので、いったいオリジナルはどこにあるのかと、不審に思われる方も少なくないでしょう。

 通常、スサノオノミコトが龍の怪物を退治する神話は、古事記日本書紀で物語られています。戦前には国語の教科書への掲載から年配の方々にとって馴染み深い神話です。しかし、記紀から推し量れる地は、雲南市にはないのです。

 雲南をオロチ伝説の地として浮かびあがらせる文献は、いくつかあるようですが、「土地の古老が伝えるところによると」という取材記のようなものです。代表的なものとして「雲州樋河上天淵記(うんしゅうひのかわかみあまがふちき)」(「群書類従(ぐんじょるいじゅう)」神祇部巻28所収)があります。

 群書類従とは塙保己一はなわ ほきいち)が古書の散逸を危惧し、寺社・大名・公家に伝わる古書を蒐集編纂した一大資料で、寛政5年(1793年)から文政2年(1819年)にかけて刊行されているものです。そして、なんと!国会図書館でデータが公開され、ダウンロードできるようになっています。すごっ! 皆の衆、どんどん使いましょう。

 この書、ながらく、作者不詳であったのですが、数年前、松江市大垣町の内神社(高野宮。家原家)所蔵の「天淵八叉大蛇記」大永3年(1523年)が発見され、こちらが原典(のひとつ?)ではないかと言われています。こちらの作者ははっきりしていて、京都東福寺の僧で河内国出身の李庵光通です。奥出雲の古老に取材して記したものらしい。 (つづく)

成人の日におもう

 今日は成人の日でした。

 国民の祝日に関する法律では、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」としています。

 で、おとなって何?

 無邪気な子どもの質問ではなく、いや、本当に、そう問いたくなってしまう昨今のご時世なのですが、これ、「大人」の定義、存在価値というものが揺らいでいるということでしょうか。

 いや、「大人」がいなくなったからです。子どもだらけの世の中なのですよ、いまは。

 そんなことを、思う、鏡開き、出初め式、とんどさん、と続いた年初の行事をふりかえりながら思ったのでした。

 写真は、冬の太陽。1月6日、仕事はじめの日に、さくらおろち湖をぐるりとまわったときの撮影。

島根県立図書館で「西条柿に親しもう!」の展示

 今月いっぱい展示中です。立ち寄って、じっくり見ました。丹念な仕事であります。

 「見て!見て!わたしを見て!」という前のめりのPRか、「情報発信」という名のアリバイ仕事が、昨今の趨勢でありますが、そんな濁流の中にあって、瑞々しい輝きすら感じるほど。

 順序、配置、角度。そして押しピンひとつにまで、つくった人の配慮が入っている。柿に興味はなくとも一見したくなる。しまねの西条柿をゼロから知って、初段くらいまでの知識はここで入手できるであろう充実ぶりといえましょう。

 15分くらいしかおれんかったので、今度はまたじっくりと見てみたいものです。

http://www.lib-shimane.jp/shiryou/tenji/tenji_2013/tenji_201401.html

雪の朝に想う

 昨晩から降り積もっていた雪に戦々恐々。10日ほど前には50センチほども積もって、駐車場から車を出すのに1時間以上も雪かきをしたあげく、腰を痛めてしまった。ようやく腰もいえようといういま、再びの悪夢かあああと思いきや、積雪は10センチほどであった。

 10時も半をまわる頃からは陽光もさしてきて、雪の山々が輝いていた。

 日本海側に、世界有数の豪雪をもたらす気候が、いかに豊かな恵みをもたらしているか、その妙なる自然の贈り物の価値に、まだ私たちは自覚的になれずにいる。

 雪のある暮らしに誇りをもっていこうという動きが飯南町で始まっている。

 い〜にゃん雪あり月

 形は他の冬のイベントと似ているが、その心意気は少々異なる。参画・参加・参集する人たちが、そこにいることに、そこに暮らしていることに、誇りを持てるということ、持とうということ、そこが肝要なのだということだ。

 鍵は「自尊心」。ぼくは、ここに「好奇心」という、もうひとつの鍵を見いだしたいと思っている。