竹の焼き畑2016-sec.9〜今度こそ夏伐りはじめ

6月18日(土)。梅雨のど真ん中に快晴。今年度いちばんの汗をかいた活動日となったと思います。水分補給はぬかりなかったでしょう。また日陰箇所での作業が多かったこともあります。
まだまだこれから、ですけれどね。
さて、この日の参加は島根大里山理研究会から3名(うち1名は午前のみ)、山村塾から1名の計4名です。
夏焼きへ向けて伐開はじめの1歩。倒竹、枯竹の整理が大半を占めます。草刈りも見えないところに切り株や石など、多くのトラップがありますので、そろそろと様子をみながらの作業でした。
あと2日で1ブロックぶんを仕上げる案配です。地味でつらい下調整はできたので、来週はちょっと賑やかに大人数でとりかかれるかな〜♪

そして、春焼き地での発芽状況。

アワはようやくのびはじめました。間引きが若干必要な程度。

ヒエはもっと早く間引きすべきでしたが、手がつかずで、来週ですね。

アマランサスは大変よろしくないですが、ポツポツと出てきているのが希望の種。
少し残った種を、まったく発芽のない地面に少し蒔いてみようかと思っているところ。

日の出団扇を竹紙で

 今年の竹紙づくりはちょいと青色吐息。今年の漬け込みはなしにしよう。なんといっても場所の確保が難しい。樽の置き場所が。まだ漬けこんだままのものも乾燥させて取り込まねばならぬし、漉き枠をつくることと、竹意外の植物を試すなどをしてみよう、そのぶん。
 そして、団扇に使う紙を竹紙でつくるのをやってみたい。まずは団扇の骨だけは既成のものを使う。。。のであるが、夢は日の出団扇です。

 出雲民芸館で邂逅した金津ちかさんのそれ。無骨な竹の骨なのに優美を感じるのはなぜ。人の手がぐぐーっと入っているその気によるものなのではなかろうか。

今日の雑読断片

 昨日、6月16日のことであるが、書きとどめておくべきことして。
【ダイコン】
魚谷常吉 (著)・平野 雅章 (編)『味覚法楽』 (2003;中公文庫)

ダイコンは日本人の食物として最も広く、かつ多く用いられ、常にその恩恵に預かっているのにもかかわらず、恩に慣れてかあまり珍重がられず、その真価を認められていない傾きがあるのは、不思議といわねばならない。
(中略)
最後に、その料理法の中で特にうまいと思われる二、三について述べると、おろしダイコンをもって第一に推したい。(中略)ただ水で洗い、皮のままおろし金でおろせばよいので、そのとき汁を捨てないだけが条件で、もし水分が多すぎると思う場合にはカツオの粉を加えて加減すれば、食いやすくなり味も優れるのである。なおこれに使うしょうゆは、うま味があるものを用いるのも条件である。ぜいたくにするならば揉みノリなど加えてもよいが、そのうま味を賞するには、おろしたままの汁をしぼらないところへ、しょうゆを適宜加えるだけのものに限るようである。

『風来好日スモールライフ』の久保田昭三さんもダイコンをよく使っておられたのではと記憶する。巻頭の写真の中で畑の小さなダイコンを撮っているのだ。常食は馬鈴薯と大根と屑米と自飼いの鶏の卵であったか。そして、お元気だろうか。一筆したためてみよう。
 ダイコンの民俗については、まだ最低限の整理ができていない。平凡社・世界大百科の項で飯島吉晴はこう記しているので、引っ張っておく。整理したものはひとつ前の記事に加筆する。

大根は,かつて青森県五戸地方で,10人家族でひと冬700本用意したというほど,漬物やかて飯の材料として日常の重要な食糧とされた。一方,大根 は種々の形に細工しやすく,婚礼の宴席に男女の性器を模したものが出され,またその色が神聖感を与えるために,古くから正月の歯固めをはじめ,ハレの日の食品や神供として用いられた。

 追記すると、アエノコトにおいて、ひと組のダイコンを男女に模している再現写真があって、これは興味深い。これは奥能登のこととして後述されてもいる。

また大根は種々の俗信や禁忌を伴っている。種を土用の入りや丑の日に撒くと,葬式用や曲り大根になるといって 嫌う所が多い。また大根畑に七夕飾りの竹や桃の枝をさしておくと虫がつかないという所も多い。東日本では,十日夜(とおかんや)を〈大根の年取り〉といい,この日に餅をつく音やわら鉄砲の音で大根は太るといい,大根の太る音を聞くと死ぬといって大根畑へ行くことや大根を食べるのを禁じている所もある。西日本では10月の亥子に同様の伝承があり,この日に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができる,疫病神がつくといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬともいう。このほか,半夏生(はんげしよう),彼岸,社日,夷講などの季節の折り目や収穫祭にも大根畑にいくのを忌む。これは大根が神祭の重要な食品であり,大根畑は霊界に近い神の出現する神聖な場所と見なされていたことを示している。

 北九州では,稲の収穫祭である霜月の丑の日の前日に大黒祭が行われ,二 股大根を箕(み)にのせ,供物をして祭っている。奥能登のアエノコトでも,二股大根を田の神として丁重に扱う風がある。大黒と大根は語音が近いためか,二股大根を〈大黒の嫁御〉といっている地方は多い。また〈違い大根〉は聖天(歓喜天)の紋とされ,この絵馬を聖天にささげ,大根を絶ち,夫婦和合や福利の祈 願を行う。また,大根が聖天の持物とされることもある。


【河内とは】
奥出雲町三沢の河内と四日市の土地の履歴をたどるにあたっての知識として備えておきたく。
大塚 英志 (編) 『柳田国男山人論集成』(2013,角川ソフィア文庫)所収
「山民の生活」(下)

p73
山々の神を本居宣長は、大山祇神であろうとか大山辺の神であろうかというけれども、そうではない。民俗にはただ山の神とのみいいならわして居る。山に向かって入るところに祀るまでの神である。荒神は原野山野の神である。

「山民の生活」(第二回大会席上にて)
p76

「山口」とか「川上」とかいう村は次の時代にはすでに川下に成ってその奥にまた村が出来る。例えば若狭の南河の谷などはほとんど源頭まで民家がありまして、「奥坂本」という村の奥になお数箇の部落があります。我々の祖先はかくのごとき地形を河内(カワチ)と名づけまた入野(イリノ)とも呼びました。「我が恋はまさかも悲し草まくら多胡の入野の奥もまかなし」という万葉の歌などは、入野が盛んに開かれた時代には人を感ぜしめた歌でありましょう。
 入野では三方の山から水が流れますから、……

p88

全国を通じて最も単純でかつ最も由緒を知りにくいのは「荒神」「サイノ神」「山ノ神」であります。仏教でも神道でも相応に理由を付けて我領分へ引き入れようとはしますが。いまだ十分なる根拠はありませぬ。
「山ノ神」は今日でも猟夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新たに山道を開く際に必ずまず祀る神で、村によってはその持山内に数十の祠がある。思うにこれは山口の神であって、祖先の日本人が自分の占有する土地といまだに占有しぬ土地との境に立てて祀ったものでありましょう。

荒神三宝荒神などといって今は竈の神のように思われておりますが、地方では山神と同じく山野の神で。神道の盛んな出雲国などにも村々にたくさんあります。

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大根は縁起ものか?

 出雲民芸館で藍染め木綿を見ていたら。あれ、これは大根? 蕪じゃないの?

 というものを見つけた。

 他の図柄は鶴、松、海老、など縁起のよいものばかり。しかるに大根って縁起ものなの? 蕪なら年取りカブのこともあるし、とその場では勝手に思っていた。

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 いや、大根も縁起ものらしい。大黒との音の類似によってという記述がある。

 それから大和野菜には、祝い大根なるものも。

http://www.pref.nara.jp/8041.htm

※もうちょい調べて加筆しましょ。

備前國備中國にも熊子はあった

 昨日は島根県立図書館へ。諸国産物帳のなかの熊子探しです。索引をみながら、中もめくりながらしていたら時のたつのは早い早い。『備前國備中國之内領内産物帳』のなかに熊子を見つけて、〆切定刻ジャストに複写申請。備中にあったのは意外でした。ここまで、石見・伯耆因幡・播磨とあたってきて、残るは備後・安芸のみ。広島に行ったときにと思ったら、なんと島根大学図書館にあるではないですか。金曜日にGO。

 秋あわかあ。しかも「ただあわ」との並置です。ただあわ=熊子あわってことでしょうか。ただ米=うるち米という用法ですから、ただあわ=うるちあわでしょう。

 そして、熊子あわという名辞は出雲國では見られないものでした。《熊子=餅ではない/うるち》なのか? 粟の部のいちばん最後にもってきたということは、粟のなかでも特殊な部類にあるとの認識なのだろうか。出雲國の粟、あるいは他の穀類との名称や並べ方の異同をあたってみるべし。

 それから春焼きで播いた粟の状況も予断を許しませんね。日曜日に試しに少し間引いてみたのですが、いや、もっと大量に発芽していればざくざくと大胆にいけるのですが、なにせ少ないので気が引ける。

 逆にヒエなんて出過ぎているから、はさみで切らんとダメかも。そしたら、粟も鋏で切る〜?

 栽培法の教科書、ほしい、です。

竹の焼き畑2016-sec.8〜伐る・植える

6月11日(土)。春から数えて8回目の作業日。夏焼きに向けては2回目となります。
島根大から学生3名(1名は飲み過ぎによる体調不良でキャンセル)、教員1名、そして奥出雲山村塾からの私1名で取り組みました。
天気予報が梅雨らしくもころころと変わり、開始時刻や日にちをどうするかで幾度か協議の末の実施でしたが、結果としてはまずまずかと思います。作業そのものはできましたので。ただ種植えと伐開エリアの確認(協議)のみとなり、伐開開始はできず、でした。
気になるのは、学生メンバーの体力(気力含む)ですね。メンバーが固定しているのはよいのですが、新規加入がありませんので、そら参ってくるかもです。がしかし、かもも同情も利すること少なし。やりますよ、山村塾は平日も。このままでは夏の火入れができませんし、なんための汗と筋肉痛と切り傷・刺し傷かと。至上の麦酒も成果あってのこと。
もちろん舵は火入れ面積縮小の方向に動かしています。
しかし、伐開と伏せ込みそのものは、人が多すぎると非効率な面もでてきます。おそらく6人くらいがちょうどいいはずです。ただ今年は春焼き地の間引きや、7月に入っての大豆の種蒔きや、2年目の山の除草もありますので、次週からは10人以上は見込みたいのですけれど。

人の所業よりも自然の摂理優先の発芽状況ですが、3日前よりもさらに進んではいるようです。上の写真はアマランサス。ただ、やはり状況はあまりよろしくない。アマランサスの種は若干まだ手元にあるので、発芽しないところにポツポツと播いてみようと思っています。次週の平日に。曇りであれば杉の伐倒か玉切りもしたいところ。

縁あって島根大学で入手された山形のツルアズキのひとつ(野生種でなく在来種)を播きました。

朝9時半〜夕方5時までの作業でした。(松江班は10時半〜14時半まで)
◉播いた種
春焼き地:落花生、ツルアズキ(ヘミツルアズキ)、大豆(  )、ヒエ(  )
2年目地:鷹の爪、大豆(   )、タカキビ(林原在来)
おつかされま〜。

蛍をめぐるいくつかの記憶について

 つれづれなるままに。以下、本当に駄文である。あるいはメモ書きとして残しつつ、読めるように改稿していきたい。

 つい先ほど、蛍が軒先に1匹やってきて、幾度か光をくれたあと、闇というには明るすぎる、街灯とは反対の庭先に飛んでいった。梅雨入りをメディアが知らせてくれてから幾日ほどたっているのだろうか、妻が梅ジュースを仕込んだのは1週間から10日前のような記憶があるのだが、スーパーの店頭から壜や氷砂糖の山が消えているのをこれもつい2日ほど前に見たような記憶もある。

 蛍、梅雨、梅、雨、、、記憶の連鎖をたどってみたところで、何がどうということはないのだが、蛍の光の明滅には、そうした心の動きを誘ってやまないものがあるということにしておこう。

 それにしても、昨年まではついぞ家の軒先でなど見ることもなかった蛍である。昨晩は裏の畑でも見た。今日見たのは、果たして昨日と同じ個体だろうか。

 そんなことを考えていると、そうそう、ちょうど1年前には、蛍の観察を機序とした環境学習会を企画していたものだった。想定内というか予想通りに却下されたのであるが、理由がおもしろかった。「他の地域でもやっている」というものである。おそらく企画書の内容は一行たりとも垣間見ることなく、一蹴されたのであろう。なぜなら、他の地域ではやっていないからである。近隣あるいは県内に限っても、蛍をふやして見学に訪れる人を殖やすという取り組みはやっていても、蛍がどうやったらふえるかを、親子と地元の老人たちといっしょになって、朝から晩まで連続して最低でものべ5日間にわたってやってみるなどという酔狂なことはやっていないし、そんなことの意味をみいだしたりはしないだろう。

 あぁ、今ここでは、そんなことを思い出したというだけのことだ。

 「蛍のすめるみんなの○×川をきれいに」

 看板に描かれた川も蛍もまったく美しくはなく、○か×か、△はなしよと問われれば迷わず×のカードをあげたくなる……。

モウソウチクの盛衰(仮)

 表題についてのメモ書きが出てきた。おそらく3年前にまとめたものだと思うのだが、本体が見当たらない。拾い出して整理し直すべく、まずここにあげておく。
モウソウチクの盛衰(仮)
1)全国の農家にひろまったのはどうやら昭和初期。それまではごく一部で栽培。
2)戦後、さらにひろまる。
3)1970年代後半から80年代前半にさらにひろまる(タケノコ増産奨励)
  ※70年頃にマダケの世界的一斉開花と枯渇が生じたあとの代替説あり。
4)90年代初頭に中国産筍の輸入拡大で価格暴落と生産の衰退・放棄。
5)90年代後半から放置竹林の荒廃化がすすむ
6)2001年5月21日、NHKクローズアップ現代が「列島に忍び寄る竹の異変」をとりあげる。……間違った理解※も広まるが、一気に人口に膾炙。
 ※荒廃した竹林はきょく(以下欠落)
20150823-P111041202