カブと小麦

 11月2日。裏の畑に、8日ばかり前であったろうか、ひとうねぶんほど蒔いた小麦が、小さな芽を出し始めている。昨秋40粒ほどからふやしたスペルト小麦。どうするどうなるなんて考えず、まずは育ててみたい、その姿を見てみたいと思う一心だったのが1年前だとすると、今年はその行く末に心を砕かねばならない。まずひとつの思案は、どうやって食べるか、ということだ。
 ひいて粉にするよりは粒のまま食せないのだろうか。製粉の労を略したい動機によるのだが、脱穀、籾摺りまでが、それなりに苦難の道となりそうなので、ゴールを少しでも手前にひいておきたいのだ。
 それにしても。
 焼畑ではじめて栽培したのはカブであった。そして今年の秋、蕎麦とカブの焼畑後作に、裏の畑にもまいた小麦を試みている。カブと小麦はおともだちだと知ったのは、1年目の焼畑でできたカブをなんとおいしいカブなんだと食した後であったし、仁多の正月カブに誘われたのはそのさらに後のことだ。

《わが国には野生に近い状態で生育しているツケナやカブが各地にる。……(略)……正月カブ 島根県仁多郡横田町には正月蕪と呼ぶ自生カブがある。葉は開張性で欠刻があり、有毛で根はある程度肥大する。土地の人は年末から正月にかけて採り食用にし、このことから正月カブと呼んでいる》青葉高,2000『日本の野菜』

 栽培蕪の起源には諸説あるが、地中海に自生するアブラナ類であるとすれば、小麦・大麦にまじって、中国大陸を経由し、いつの頃か日本に渡来したものには違いない。仁多の正月カブは、栽培種からの逸出や交配もあったやもしれないが、雑草として渡来し、今のいままで生存をつづけていると考えるのも一興であろう。三沢の地に残るそれと、海を越え、時を超え、シチリア島の麦と蕪とオリーブを思うのは、与太話としてはできのよすぎる物語だろう。

和名抄_菜


 青葉高が先の『日本の野菜』でも指摘しているとおり、『和名抄』には、蕪菁(カブ)、莱菔(ライフク・ダイコン)は園菜の項にある。一方  は蕨と同じく野菜の項にあるのだ。この関係は大変興味深い。正月カブ(年とりかぶ)のこと、この線からもっと掘っていかねば、と、思う。はい。
 なにはともあれ。古代小麦と三沢のカブの菜をオリーブオイルであえてサラダで食べることを来年の夢としよう。※まとまりがないので、のちほど書き換える予定です。すみません。
 以下に関連記事をあげておく。
●「まかぶ」とは!?  三沢のUさんは、地カブのことをまかぶと呼んでいたようだ。私は逆だと勘違いしていた。まかぶという標準的(平均的・全国的)カブがあり、地元にかねてからある特徴の高い自給性の高いカブが地カブだと。どうなんだろ。
●林原の焼畑でつくられていたカブとは 『尾原の民俗』の中には「地カブ」という名で出てくる。このあたり再度図書館で閲覧しよう。『志津見の民俗』は古書で購入することにした。『尾原の民俗』も手元におきたいが、市立図書館にもあるので自重。
●大根は縁起物か? 加筆がまだできていない。ここらについては、伊藤信博のいくつかの論文を参照しつつ。
●みざわの館前の「地カブ」  そう。「地カブ」はいまの世代でも通りがよい。じゃあ「まかぶ」はどうか、「年取りかぶ」はどうかというのが聞くべきポイントなのかも。
●年取りカブの種取り
●都賀村の地カブについて

●しゃえんば  

ススキとセイタカアワダチソウとカメンガラ

 本日快晴。

 種々の備忘を記す。

◉木次から阿井へ向かう途上

・ダムの見える牧場の春焼地で学生らがサツマイモを収穫中。土曜日に続きだったのかどうか。

セイタカアワダチソウとススキの勢力逆転地を通過

 昨年からちょくちょく見ている地点。今年は昨年よりさらに、ススキの勢いが強いように思えた。明後日あたりに撮影しに再訪しよう。セイタカアワダチソウの背丈が低いのが目についた。

・タカキビを栽培しておられら(そこから種をわけてもらった)ところでは、今年は栽培されなかったようだ。もうやめられたのか、今年は休まれたのか、知っておきたいところ、聞きたいところ。

◉阿井にて

・手土産を用意できなかったので、道すがら目についたガマズミのなかで色形のよいものを手折っておもちしたお宅にて。

「これはこのあたりではなんと呼ばれてますか? これはなんだかご存じですか?」

※奥さんはわからないようだった。旦那さんが笑顔でこうお答えになった。

「かめがらと呼んでますよ。わたしらがこどものころは、よくとって食べたものです。いまでも山の中にはありますよ」

「そうですか。それはそれは。食べてかんでいたという話もききますが、どうですか」

「かんだりはしなかったですね、それは。この実はかめがらとは少し違いますね。大きいのでは」

「あぁ、そうですね。違う種類かもしれませんが、味はかめがらです。もう少し小さいものですね、かめがらは」

……。もっとお話を伺いたかったのだが、またの機会にということで。

下は、昨年採取したときの写真。

20161016-P114087002

出雲国産物帳の蕪菁について

 久しぶりに再読。

 現場百回の精神。破損したデジタルデータから生データをとりだし、解読をこころみるようなもの。痕跡からの推察にとって禁物なのは予断と願望なのだから、心を見る目を外におくようにして読むべし。

 まかぶとは何か。出雲国産物帳には記載がない。正月カブも同様。そして、正月カブあるいは年取りカブを知る2人目のばあさんは、まかぶとじかぶを分別していた。

 出雲国産物帳の大根の項には真大根がある。日本国語大辞典の記述をそのままなぞれば、この場合の「ま」とは次のような接頭辞である。

《(4)動植物の名に付けて、その種の中での標準的なものである意を添える。「ま竹」「まいわし」「ま鴨」など》

 地カブと呼ぶ際の地とは地のもの、地方固有のものの意味としてのものだろう。カブもダイコンも諸国産物帳編纂時には、換金性の高いもの、自給外のものとして域外へも出されるものであった。出雲地方においても、出雲国産物帳にある平田蕪は藩主へ献上の記録があるということ(原典未確認)のほか、全国的に多くの記録にある。

たとえば、伊藤信博,2009「メディアとしての江戸文化における果蔬」。

《『享保・元文諸国物産帳』から野菜の生産高の平均を求めると、トップは大根で、12.1%、他の野菜の上位は、蕪は3.8%、里芋類、5.5%、茄子、4.7%、瓜類、5.3%となる》

 ちなみに重量比で出せば、2010年代でも野菜のトップではなかろうか(のちほど確認)。

 また、大根が縁起物として風呂敷の藍染めにも鶴亀などとならんで使われていたことは出雲民芸館でも見ているが、大根・蕪の民俗と歴史についてはもう少し知見を得ておかねばと思った次第。

怒る大人、叱られる子供、やってはいけない事

 友達の家で、囲炉裏をひょいとまたいだら、その瞬間足を払われて鉄拳をもらった。コラとも、何が悪いとも、一言もない、大人は怒っていた。

 いま60代(とおぼしき)男性が幼少の頃の記憶を語った言葉である。

 何をしたら怒られたのか。

 そんなことも、次々と時代の波に洗われて見えなくなっていく。

 大人が何も言わずに怒ってげんこつで子供をなぐる。かれこれ50年も前のことになるのだろう。そんなことが”自然”であったのは。

 なぜやってはいけないのか。大人に言葉はない。問答無用。

 社会が今より少しは豊かさをもっていた時代。

 懐かしさや良きものをそこに想定しているのではない。1960年代、昭和30年代後半から、日本の社会はいよいよ崩壊へ向かって走っていく頃なのだから。

 しかしながら、ここで囲炉裏とはなんであったのかを、子供と大人の関係性とともに探り描くことは、とてもおもしろいことだと、私は思うのだ。

 囲炉裏に限らない。「怒られた記憶」「何をしたら怒られたのか」ーー跡形もなく洗い流される前にスケッチしておきたい。

 宿題がまたひとつ。無理のきかなくなった身体を奮い立たせるにはよい火種だ。

 さて、出かけますか。

 

ハンザケの産卵シーズンとなり

 オオサンショウウオ。ハンザキ、ハンザケと呼ばれる両生類は出雲地方山間部ではなじみ深い生物である。3000年前から姿を変えることなく生存している”生きた化石”であり、日本固有種でもある。生きた化石とされるのも、シーボルトが日本からヨーロッパに持ち帰ったことに由来するのだが、鳥や蝶とくらべ人気・認知の度合いは低いのだろう。中国地方が生息分布の中心でもあり、研究・調査・保護活動も盛んである。とはいえ他地域と比較すればのことであって、絶対数は圧倒的に少ない。どの自然環境分野でもそうであろうが。

 年々昆虫採集を趣味とする人間が減ってきていることを耳にするように。

 さて、9月2日に近所(といっても車で30分)でオオサンショウウオの観察会があるという。そんなこともあって、妻が経営するカフェ・オリゼの今日の黒板にこんな文言を書かせてもらった。

 オオサンショウウオに限らない。大量絶滅の時代を迎えているいまの世界のありようを見つめながら、日々を生きるあり方の針路を定めていこう。

 なにを話し、なにを書き、なにを買い、食べ、つくるのか。

 

 島根・鳥取・岡山・広島・山口の中国5県にすむみなさん。

 秋の虫が鳴く夜の向こう、どこかに感じるその山の向こうにある渓流のどこかで、今宵、やがて滅びることになるオオサンショウウオが卵を産んでいます。その生命の行末に思いを馳せてみましょう。地には平和を。

 

七夕と焼畑儀礼と

去る8月6日の火入れの際、学生が七夕飾りを山に持ち込んで、火入れの竹山に加えていた。ほほぅと感心したものだ。いまや竹に願い事をしたためた短冊をゆわえ、祭りののちに川に流すということは”禁止”されていると聞く。祭りの後で、大人たちはこっそりそれを解体して”燃えるゴミ”の日に出すのだという。

古きを知る人には、”燃えるゴミ”に出すという行為そのものが耐え難く、それをもって七夕の祭りをやめてしまうのだともきいた。それはそうだろう。竹であれ木であれ、それをたてること自体、そこに神とはいえないまでも何がしかの聖なる存在の来臨を願うからこそである。祭りが終わり、その霊的存在が去ったとしても、日常生活のなかのゴミとして扱うことはできないのがふつうの人間であろう。死体を抜け殻としてゴミ扱いできるかということから考えてみればよい。神札を燃えるゴミとして出せるかということを考えてみればよい。

焼畑で七夕飾りを燃やすということと、燃えるゴミに出して燃やしてもらうということとの相違について、漠然と想像をめぐらしてみてほしい。

その行く先には、天空がひろがる。

星と月と太陽と、そのめぐり。

水は空から雨として雪として、ときに雷とともに地に注ぎ、畑を森をうるおし、飲む水となり、清める水となり、流れる川となって、ふたたび天へとかえる。

その想像のなかに、七夕もお盆も焼畑もあったということを、蝉しぐれの夕暮れに思った。

白石昭臣『畑作儀礼』昭和63(雄山閣)を読みながら。(以下引用)

《樹木に祀る焼畑系の山神信仰とこの稲作民の山を崇める信仰が、三瓶山麓を生活の場とするこの人びとの間で重層複合化して一体化し、山を聖地とし他界の地とする信仰として伝わってきたと思う。他界については後に記すが、焼畑系の樹木に斎くとか、後の時代に生まれたと思われる瓶の降る伝承は垂直型のものであり、山中他界もまたそうであろう。一方、海部系の思考は水平型であり海彼を他界の地とする。この二つの系統が復号化したのは、山の彼方の天空と海彼が空中でつらなり、この間を月と太陽とが運行して、ひとつの放物線の中にサイクルを描くという思考の存在した時代があったと考える》

p.168

◉盆に火入れを行ったところとして白石が『畑作儀礼』昭和63(雄山閣)であげているものとして以下がある。p.202  記述がやや混乱しているが、そのまま転記している。

†. 盆に火入れ

・愛知県北設楽郡富山村(ソバ)

・奈良県宇陀郡室生村(ソバと大根)

・島根県鹿足郡日原町(ソバ、楮)

(盆に入るとすぐ)↓

・神奈川県箒沢(小麦とソバ)

(盆の中ごろ)↓

・島根県若桜(ソバ、大根)

(盆ごろに)↓

・長野県下伊那郡天龍村大河内

・大分県宇佐郡上麻生

(盆がすぎるとすぐに)↓

・新潟県別所(ソバ)

†. 彼岸前25〜28日に25日ガケとか28日ガケとかいって、ソバ、ヒエを播くところ

・群馬県藤岡市小柏などのカノ

†. 盆がすぎると焼くところ

・山梨県椿草里(ソバ)

P1260475b

星の名前と民俗と

 wiki野尻抱影をひくと、天文民俗学者とある。天文民俗学、はて、初めて聞く言葉だ。JKの全文横断検索でかけてもヒットはしない。googleではいくつかのサイトが出てくるので、ある種の造語であろう。
 星の伝承研究室の北尾浩一氏が、2006年に『天文民俗学序説 ―星・人・暮らし―』を著されている。この書ならびに北尾氏が嚆矢となって、小さくとも広まっている言葉、それが天文民俗学であると思われる。
 古く”天文民俗”を調べ集めたのは、野尻抱影ひとりであるかに独見していたのは、失礼なことであった。
 北尾氏は、いまも聞き書きに全国を訪ねておられるようで、島根県では、出雲市大社町宇龍に17年ほど前にこられて、語り部の喪失を悲しんでおられる。
出雲市大社町宇龍の星の語り部

《「よんべ(ゆうべ)、いつまでおったんや」「スマリがあがるまでおったー」
そのような会話をした日々は遠い昔になってしまった。七夕も海に竹を流してはいけなくなってから行なわない家が増えた。》

 いまや七夕の竹は海にも川にも流さない(せない)のだろうか。小さく切り刻んでゴミの日に出すくらいなら(そんな世の中であるのならば)、七夕の祭りなどやめてしまうのがまっとうな感性であろう。
 さて、実はここまでが前置きのつもりであったのだが、時間切れゆえ、つづきは次回へ。
 以下、備忘として項目をあげておき、のちに加筆しよう。
・死んだら天の川へいく(漁師の聞き書きに頻出…要確認)
野尻抱影『星三百六十五夜 夏』に「七夕雨」あり
 →旧暦で七夕をまつる地域にはこの日の雨を吉とするところがある。出歩かないこと。雨が降らないと七夕さんが作物をもっていく。降れば豊作。というような。北尾氏の聞き書きには、七夕の日には漁に出ない、出ればイカが葉や茄子に化ける、というものあり。
野尻抱影『星三百六十五夜 夏』の6月28日「へっつい星」に、この一文あり。

《思い出して、私は、江戸時代の学者畑維竜の随筆『四方の硯』(※日本随筆大成〈第1期 第11巻〉所収)の中にある文を読み返したー
 ー具象を見ることは、農民よりくはしきはなし、大和の国は水のとぼしき処なれば、四月頃より夏中、農民夜もすがらいねずして、星象をばかり見て種おろし、あるひは夜陰の露おきたるに苗のしめりをしり、米穀の実のると、みのらざるとをあらかじめはかりしる事なり。その星に、からすきぼし、ひしぼし、すばるぼし、くどぼしなどやらの名をつけて、其の星は何時に何の位にあらはれ、何時に何方にかくるなどいひて、その目つもりにてはかること露たがわず。云々》

 

裏庭の片隅でトノサマガエルとばったり

 気温が34℃をさすような猛暑日が続いています。雨が降らないので、庭の木々がそろそろバテ気味な印象。そんななか、外流しがつまり水がたまっていたので、やれやれ掃除しますかとかがんでみたら、小さなトノサマガエルとばったり。
 国内では准絶滅危惧種に指定されていますが、島根県ではまだ普通に見ることができます。とはいえ、私が子どもの頃、30年〜40年前とくらべると、たまに見る程度であって、「ほらそこにいるでしょ」と簡単に教えることは難しいものです。そう。都市からやってくる、生き物好きの子供たちにとって、トノサマガエルを捕まえた思い出が忘れらないくらいに大きなことなのだと聞いたこともあります。島根県内ではなぜトノサマガエルが絶滅危惧に至っていないのかのついて聞いたことはないのですが、自然地形と水田の様態によるところなのかなあと思ってみたりはします。
 しかし、県という単位で自然を見るのは、本当に仕方なしの便宜であって、せめて水系単位でレッドデータは見るべきなのでしょうね。トノサマガエルでいえば、斐川平野では激減しているのではないでしょうか? たまに立ち寄る実家周辺ではまったく見なくなりましたから。
 
 そんなトノサマガエル(Pelophylax nigromaculatus)ですが、ちょっと目を話した間にいなくなりました。せっかく自分だけの小さな家(池・縄張り)を見つけたと思っていたのに、そうそうに水を抜かれて追い出されようとは思ってもみなかったことでしょう。すまん。山をこえて北に100mいけば田圃もあるのですが。水辺に乏しいわが家周辺ですので、産卵の場を得るのには労多きことだろうなあ。がんばれよ。
 さて、下の写真はそのトノサマガエルではなく、アマガエル。トノサマガエルと比べると、手足の吸盤の力が相対的に強く、U字溝のような壁面でもよじ登れることなどから、絶滅危惧からは逃れているようであります、いまのところ。繁殖時期もトノサマガエルより長いのかな。6月までの夜、裏の畑の方ではよく鳴いていました。その頃ほどではないですが、今でも夜の鳴き声はにぎやかです。
 雑食性で、虫を食べてくれるらしいので、ヤモリ同様、繁殖繁栄を願う種族です。
 

 
 一方、蟻が多すぎるのではと。畑にも家にも庭にも。バランスを取り戻す途上の過渡的なものなのかどうなのか。経過観察としたい。
【参考ページ】
◎しまねレッドデータブック
 県民必読。コウノトリでどうたら騒ぐ前にもう少し読もうよ。
◎トノサマガエルの生態や捕まえ方(HONDAキャンプ・生きもの図鑑)
◎ニホンアマガエルの生態や捕まえ方(同上)
 とてもよく編集されています。考えて丁寧につくられていますよ。クリックひとつで読むことができることに、頭が下がります。監修の長崎大学教育学部大庭伸也准教授は、「タガメの採餌を巡る生態学的研究」のタイトルで2016年度日本昆虫学会若手奨励賞を受賞した方。
 

忘れられた高津川のアユ~田中幾太郎『いのちの森 中国山地』#002

《今、高津川の流れには生命の輝きが見られない》

田中幾太郎さんがこう著されてから二十年あまりが経っている。私が高津川の傍に生活したのは、すでに輝きが失せた後からであり、「昔の高津川は〜」という言葉は誰もが語るセリフであった。が仕方のないことである。川としての生命はすでに絶えていたのであって、水が流れる路としての清流を、その名に冠して虚をはるのみであったかと、今ふりかえれば思う。

 しかしながら、高津川が国内に残存する数少ない「川」の姿をとどめている河川であることは確かであると思われる。

 田中さんがいうように《子どもころは春になると田んぼの溝川にまでたくさんの稚アユがのぼって》くるような川。1939年生まれの田中さんが10歳の時分だとして1950年代、昭和30年代には日本の山と川が激変していく時代であった。

 アユがあきらかにおかしくなったのはそれから十年後のこと。1960年代から”アユの高津川”がおかしくなりはじめ、琵琶湖や鹿児島産の稚鮎を放流しはじめることによるその質の変化はこう記録されている。60年間アユ漁を続けてきた、益田市高津町の川漁専業・塩田嘉助氏(76歳)の話として。

《ちかごろのアユはちごうてきた。夏んなってもゆるいところにたかまったまんまで、瀬にゃあ、あんまりのさん。そのぐらいじゃけえ、こまあのがおいいでや。そいから、昔しゃあ瀬につくなあ、十月に入ってからじゃったが、このごらあ八月の末にゃあ瀬へつくのがおる。味も変わったで。年中川が濁っとって、ええあかが付くひまがなあ。そいじゃけえ大きゅうならんし、食うても昔のような風味がなあ。うるかをとっても、どべくそうて(泥臭くて)味がちがう。高津川のアユの本物なあ、こがあなもんじゃあなあ。ことしゃ冬がぬかったけえ天然ものが、また減ろうでえのう》

 

 それでも、つい近年までは西日本有数の天然アユ漁場としてその名を馳せていた。が、もはやそれも過去のものとなりつつあるようだ。

高津川は漁協だけのものではない。2年連続清流日本一を誇る高津川に今年はアユが少なく防府市、岩国市、広島市から来た太公望の遊魚者たちは「もう益田の高津川には来ない、鑑札料を返してほしい。何が日本一の清流か!」と不満をぶち明け帰って行った》

石西タイムス2014年06月04日

 ここ数年、不漁が続いているのは確かなようだ。※のちほどデータにあたってみたい

 石西タイムス2014年06月04日からひくと。

《自然の産卵場が荒廃し、建設機械を入れて造成しないと産卵できないほど川は傷んでいるのだが、行政は何の対応もしない。しかし、「清流日本一」だと喜んでいるが、上澄みの水だけ検査しているから何とかごまかしているようなものだ。下流域だけではなく、中流域でも少し流れのゆるやかな河床はヘドロが溜まっているから、何かのきっかけで一挙に汚染が進むだろう。

 そのうえ、河口では遡上しようとしている稚魚を網エビ漁で一網打尽に捕獲している。以前は網エビ漁はアユ稚魚の遡上時期には高津川漁協が県漁連に禁止の申しいれをしていたが、今は県漁連と高津川漁協と組合長が同人物(いずれも中島謙二県議)なのだから、何時まで経っても何の解決策も出てこないまま清流高津川の死期が近づく。

 昨年の6月、同組合は理事会を開催し、近い将来アユ稚魚の放流は止め、育魚センターは廃止し、企業合理化を進める。さらに、組合の年度決算は12月に仮決算し外部企業に経営委託するという議案が承認されたと言われている。それなら鮎稚魚放流が一昨年の半分の量になっていたとしても不自然ではない》

 と。

 稚魚放流の削減を、量の問題だけにフォーカスするのはミスリードをまねくだろうが、多くの問題を抱えているのだろう、高津川漁協。日本における漁業資源管理の稚拙さは昨今とみに指弾されているのだが、指弾はいかんと思います。

 川は漁協だけのものではないし、川が見捨てられていくその流れは、一筋縄のものではない。単純化してはならんのです。単純な問題設定、そこからは何も解決していかないから。

 今年5月の山陰中央新報の見出しにこんなものがあった。「昨年より高津川アユ増へ実証実験 益田漁協」。要点は《高津川のアユの資源量回復に向け、高津川漁協(島根県益田市神田町)は6月、成育を抑制して産卵時期を遅らせたアユを11月上旬に放流し、仔魚の生残率を高めて遡上(そじょう)増を図る実験を始める。…(略)……落ち込んでいるアユの川への回帰率を高め、漁獲量の回復につなげる》というもの。

 久しぶりに川のことを思い出して、少々頭が熱くなった。書きかけなのだが、ここらで休憩。のちほど加筆することとする。

 参照資料として以下。

寺門弘悦,村山達朗,金岩 稔2016「島根県高津川におけるアユの天然魚と放流魚の混合率の推定」島根県水産技術センター,東京農業大学生物産業学部アクアバイオ学科

古川彰, 高橋勇夫 編2010 『アユを育てる川仕事 : 漁協、市民、行政がつくりあげる、アユとの共存』(築地書館

 

 

尊い家とは何か〜今和次郎とB.タウトと

 粗朶ってなあに?の中であげている「ハンヤ」のことを今和次郎が名著『日本の民家』(1922鈴木書店,1989岩波文庫所収)であげていた。
・鈴木書店の初版(国会図書館デジタルコレクション)

・岡書院の改版,1927(国会図書館デジタルコレクション)

デジタルコレクションでは、岡書院から出た改版のほうの158コマ目にある。

59 備後山間の灰屋

《これらは肥料の製造所である。田圃の中や山の根だどにこれらは作られている。農夫たちは仕事の余暇に山の芝を刈り取って来て、この家の中でもやして灰を作るのである》と。

 ほぼこれだけの記述なので、ハンヤについての新たな知見はなかったのだが、何かが気にかかった。今はハンヤの何が気にかかったのだろう。今は日本の民家に何を見ようとしていたのだろう。そうしたことを思い、読み返してみた。これまで資料的に散見する程度のものであったから。それは、考現学今和次郎ではなく、『日本の民家』を書く作家として読むことである。ほどなく、というより、とてもわかりやすく、今の筆が走るのがどんな家なのかが見えてきた。「山人足の小屋と樵夫の家」では、無邪気ともいえるようなはしゃぎっぷりがほとばしりでている。

《柱は又を頂く丸太を掘立にし、桁や棟木を柱から柱へ架け渡している。自在鉤の工夫は木片のかんたんな細工である。燃えざしの枝が真っ白な灰になり、その端に谷川の水を汲みとってきたルリ色のヤカンが尻をあぶられて留守の小屋の中に残されていたのである。小屋の壁は刈りとった叢の枝で出来ていて、生葉の枯れた匂いが室内に充ち満ちている。そして細かく切り刻まれた日光の片々が、薄暗い室内をぼんやり明るくしている》

 今が描く「日本の民家」は、明治の終わりから大正の時代に取材記録され、1922年(大正11)に刊行されたものだ。当時にあっては、ごくごくふつうの民家がその対象となっている。その中でも、粗末な家に、小屋のような家に、つまりは家の原初の姿を形としてとどめるものに今は惹かれているように思える。
 開拓者の家(小屋)を今は、「尊い家」だといい、《めったにそれらの尊い家を訪問した人はいないと思うからここで一般の民家の構造を紹介する一番最初に、真実な心で私は、それらの家の話をして置くことにする》として述べる。

 《彼らは木の枝や木の幹を切り取ってきて、地につきたてて柱とする。枝の又が出ているとそれが棟木を架けるのに利用される。縄でそれらは結び付けられる。……(略)……。床は土間のままである。一方に入口が付けられ、そこには藁の菰が吊るされる。そこは野原の上の彼らの家の門であり、玄関であり、また部屋の入口でもあるのだ》

 今和次郎のこの叙述に、私はブルーノ・タウトと同じ匂いを覚える。篠田英雄訳『忘れられた日本』から一節をひいておこう。

《農民は、今日と異なりできるだけ金銭の厄介にならなかった。それだからこそ彼等の自然観は、家屋のみならず、総じて自分達の作りだすものに独自の形を与え得たのである。実際、私は農家のいかものをこれまでついぞ見たことがないくらいである。  原始的なごく貧しい小屋は、丸太をほんの形ばかり斧で削って柱や梁とし、この簡単な屋根組の上に竹を敷き並べて藁屋根を葺くのである、小屋を蔽うている藁葺屋根の線は非常に美しく、また柱間に塗った藁スサ入りの荒壁は絵のようである》 

 さて、大まかな見取り線として、松岡正剛による今和次郎柳田国男の分岐点をひきながら、ひとまず2つの書籍をあげておく。松岡は今の『考現学』をあげる際、次の記を入れている。

《そこへ関東大震災である。焼け野原になった東京のそこかしこを見ていると、そこに草の芽のようにできてくる「現代」の芽吹きに関心をもった。今の目はここで考古から考現に切り替わる。そしてあえて「考現学」の狼煙をあげたのがいけなかった。「柳田先生から破門の宣告を頂戴してしまったのである」。
 今を動かしたのは考現学だけでなく、焼け跡に次々に粗末に建っていくバラックだった。これを見ると矢も盾もたまらずに、今は美術学校の後輩を集めて「バラック装飾社」をつくり、ハシゴをかつぎ、ペンキ缶をぶらさげてブリキやトタンや板っきれに「絵」を描きはじめたのだ。銀座のカフェー・キリンがその代表で、そこには原始人まがいの、いわばオートバイ族が壁にペンキスプレーで描くような奇怪な「絵」が出現していった。》

松岡正剛の千夜千冊〜今和次郎『考現学入門』1987,ちくま文庫

 荒地から出現するもの。まがまがしさ。
 日本儒学が見出していった「古学」と、ひとつの到達点としての宣長、そして国学。このあたりを鍵として、読み解いていけたらと思う。
 ひとつめは柳田が避けてきたものとしての民藝である。

 †. 前田英樹『民俗と民藝』2013,講談社選書メチエ

 ふたつめは柳田の山神論、みっつめにジル・クレマンの『動く庭』であろうか。

 

 

わが家の前にオオサンショウウオがいたころ

自治会の草刈りの日。昔の話がいろいろ聞けておもしろいのですが、三面張の用水路となってしまった杉谷川にもオオサンショウウオがいたという話がありました。かれこれ50年も昔のことでしょうか。いまでもその水は美しく、面影をかすかにたたえているような。


斐伊川本流からの遡上、あるいは久野川から遡上したものでしょう。してみると、堤がいまほどに高くなる以前のことなのか。あるいは近接する案内川から移動したものか。町となり工場ができ、鉄道の駅ができる前には田圃が広がっていた地であり、また奈良時代の僧院、しかも山陰でも屈指の規模のものがここにあり、その「庵」の中を川が流れ、オオサンショウウオが歩いている。そんな光景を想像してみるのは楽しいことです。
福田幸広さんが撮るGiant Salamanderを木次にかさねてみます。
River Dragon _Japanese Giant Salamander
こうした場所、森、川、自然と人との関係は、もはや県東部には残っておらんです。福田さんがオオサンショウウオを撮影したお隣は鳥取県と岡山の県境地帯でも危機的状況にあることを昨年耳にしました。しかし、しかし、です。人口減少下の山間地にはもう一度この自然を取り戻すチャンスもあるのです。人がいなくなり「山にかえる」とはいいますが、ほおっておいても戻りません。せめてそう仕向けることを人の側がはたらきかけないと、「山にかえ」りはしないのです。
現況下にあっては、むしろ自然の循環は人が少なくなることで悪化します。
「そのうち草刈りができなくなると、みんな薬まいてしまうけんのお」
とは草刈りのときにも何度か口にする人がいました。そうです。「農地」でなくなれば、農地には使えない強い除草剤だって使えてしまう。それも一度きりであれば、自然が勝っていくのでしょうが、繰り返し継続的に使用された場合、土を入れ替えるか持ち込む以外に再生する手立てがなくなりかねません。
ま、そういう場所に森を取り戻すことに挑戦しようとしているのですが(森と畑と牛と)。お前はアホかとほんとに思います。
さて、今年の日本オオサンショウウオの会総会は鳥取県西伯郡南部町で開催されます。いけるかな?