サクラの春、ウバユリの春

 木次の土手のソメイヨシノは今日明日で満開になるだろうか。花見に訪れる車が臨時の駐車場にも並んでいるのがみえた。平年よりも数日早い開花のようだが、確かなことはようわからん。

 古来、春の開花のタイミングというのは農事にとって重要なサインであった。指標となる花の木がいくつかはあったものだとはいくつかの民俗学の書に記されてはいるものの、個別具体的なことを耳目にしたことはない。これからもないのか、あるのか、あったらいいなとは願っている。あるいは自らがつくれればそれもうれしい。

 種を植える、苗をおろす、土を起こす、水を田に入れる、それらひとつひとつの行為は、早すぎてもならず、遅すぎてもならず、しかもその適期は短い。天候にも恵まれ、災難にもあわず、よき稔りを迎えるための、”勝負”とでもいえようか。

 そう思ってみれば、春はチューニング、音あわせの時間なのだ。舞台にはさまざまな草木がそれぞれの音を奏でるためにあがってくる。サクラもその中のひとつだが、ツクシ、ホトケノザ、ワラビ、フキノトウ、タケノコ、スミレ、……それぞれが土の中から、木の芽から、舞台にあがってくるのだ。はじけでるように。

 Spring has come!

 昨日は、この目で見ることのなかった演奏者のひとりを豆腐屋さんからの帰路、峠の崖地でみつけた。

 ウバユリである。

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 その根は澱粉質を含み、食糧のひとつとして重要なものであった「らしい」。

 日本国語大辞典にはこうある。

《夏、茎を出し、その頂に緑白色で長さ七〜一〇センチメートルにもなる漏斗形の花が横向きに咲く。地下に卵形の鱗茎(りんけい)があり、良質のでんぷんがとれる。葉は楕円状心臓形で先がとがり、長さ約二〇センチメートル。若葉は食用となる。かばゆり。ねずみゆり。学名はCardiocrinum cordatum》

 

 若葉、すなわち、今土から出ているこの鮮やかな葉だが、アクが強いものの、食べられるというのだから食べてもよいのだが、なにせ量が少ない。見守りつつ、来年増えるようだったらそのぶんをとってみたい。山の谷一面にこの花が咲く景観をみることができたのはいつの時代までであったろうか。古名をがはゆり(がわゆり)と呼ぶと同じ辞典には記されている。樹陰で湿度を要する植物であるから、ギボウシ=ゴロビナ=ウルイともその生存条件は近い。

 ともあれ、これから、ゆっくりみていこう。

坊主と風は10時から出る

 3月27日、三瓶西の原の火入れにボランティアとして参加してきました。受付も含めた総員は約130名ほどでした。報道では延焼したこととか、逃げ遅れた消防車が1台焼け死んだことがとりあげられていましたね。「消防車が焼けちゃった」というのはそりゃニュースにはなる。犬が人をかんでもニュースにもならないが、人が犬をかんだらニュースになるという理屈において、ではありますが。

 なぜそうなったのかということについて、どこぞの新聞は「強風で」と書いてました。が、強風ではありませんで、「強風ということにした」のでありましょう。

 これは、強風などの自然要因であれば「不可抗力」として人的責任を問われないがためであります。

 2010年10月、静岡県御殿場市陸上自衛隊東富士演習場での野焼き中に、男性3人が焼死した事件では、一審で責任者2名が有罪判決を受けていますが、安全対策は万全にとっていたが、「強風による不可抗力だった」というのが、被告の言い分でありました。

 いや、三瓶の一件でもだれかに責任があるということを言いたいのではありませんよ。むしろその逆。草原自然で起こることは複雑であって、個別の要因に絞り込むのは危ういことです。リスト化してチェックしていけばつぶしきれるものではないということです。

 野焼き、山焼きで事故が起こるたびに、対策、対策と叫ばれ、マニュアルが整備されたり、より多くの人員や予算や時間が割かれるようになります。

 私、これ、間違っているのでは?と考えるのです。このたび参加した三瓶の火入れでその思いをさらに深くしました。回を追って述べていきたいと思います。

 今回は、ほんのさわりとして標題のコトバがあるのです。風の動きをどうとらえるか、という話のきっかけにすぎませんで、さほど深いコトバではありません。

 火入れに際して、強風のおそれがあれば、それは当日であっても中止です。当然のこと。突発的な強風があるではないかといわれるかもしれません。それあくまで突発的で長い時間にわたるものではござらん。そもそも火入れをすれば、熱風によって風の向きや強さは複雑に変化します。

 坊主も風も10時から動くというのは、太陽熱による温度の差が生じることによる風の発生を意味しています。風は目に見えませんが、大きな動きは雲で見ることができます。ただ、火入れに際しての風はそれ以上に向きが重要なのであります。

 山野に火を入れる際の基本は、風下から点火するということ。ゆっくり火を動かすことと、しっかり焼くことがその効果です。

 しっかり焼く。これ大変重要で、灰になるまで焼けていれば、それ以上焼けることはありません。くすぶった炭が残っているとそこからまた再発火してしまうので、いかんのです。また、火入れの効果として一定温度で長く焼くことで得られることもいろいろあるのでね。

 野焼きの場合、次に重要なのが、「迎え火を打つ」ということ。風向が一定であればことは簡単で、風下から点火したあと、両脇にも火を入れ、かまぼこ状に展開した火が3分の2〜4分の3ほども進んだところで、風上から点火するというのが理想。

 そして、理想どおりいくことなどほぼありません。

 さて、どうするか。ここで安全第一を優先すると、まったく安全第一にならないという矛盾が生じることとなります。

 どういうことは、次回以降にて。

 (つづく)

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「山をする」牛

◉「山をする」

「放牧することをわが地方では『山をする』といいました」

 佐藤忠吉は『自主独立農民という仕事』(森まゆみ著・バジリコ刊)のなかでそういう。昔というのがいつのころからなのかはわからない。皇国地誌に残る牛馬の頭数や昭和30年代まではいくばくかの古態を残していたであろう民俗の記録などから、少なくとも江戸時代中期からの姿であるならば大変おぼろなものではあるが想定はできる。つい60年ほど前まで、「山をする」という言葉は生きていた。

 また区域を出雲にとどまらず同類の地勢や集落形態、経済圏ともいえる鳥取県岡山県広島県中国山地地帯にひろげれば、奈良時代からつづく牛馬放牧地帯であることは確かである。日本における牛馬を飼養した起源については考古学的知見がわずかにあるばかりであり、定説らしきものも不確かなようである。

 そもそもが、これ、牛馬放牧に対する国民的「無関心」に起因するようだ。稲作の起源、あるいは縄文・弥生の土器などわかりやすい形のみえるものについては、その時代を証するごく一部の断片であるのにもかかわらず、その断片から全体像をむやみに描こうとするがゆえのゆがみがあるように、このごろ思えてならない。

 同じ轍をふむことをおそれつつ、わからなくなった「牛をする」ことについて、想起をめぐらしてみよう。

 牛を山に放つことは、私たちがイメージする放牧とは違うなにかであったことは、言葉そのものからもうかがえる。

 私たちの頭は、牛を飼うことを、目的別にわけて分類して事足りることに、あまりにもなれすぎてしまった。

 牛乳(生乳)生産のための乳牛。肉にするための肉牛。このふたつのいずれかであって、古来日本の和牛は食用ではなく乳をしぼることもなかったがゆえに「役牛」と一括されていることにもよくあらわれている。

 死んだ牛はすべてではないにせよ、肉として食されていた。建前として禁じられていたがために記録に残っていないだけである。また乳を飲むこともあったらしいが、基本は小牛のためのものであった。あたりまえといえばあたりまえだが。

 そして、つい数十年あるいは現在でも牛を飼う家々のその「目的」を私たちは忘れている。いわゆるペットである。とりわけ江戸時代後期から昭和の戦後まもなくのころまでにおいて、ここ奥出雲をはじめ、鳥取、岡山、広島の山間部において牛の放牧頭数は全国屈指のものであった。しかもどの農家も一頭から数頭までの小規模でありながら、共有山野での放牧や平地への貸出(鞍下牛とこの地方では呼んでいた)といったリースもあれば、権利のやりとり、保険・金融機能との融合、市場取引などの重層的利用もからんだ、文字通りの資本財(cattle〜capital)であったのだが。。。

 だが。個々の家々の動機は、使役とともに糞の堆肥利用という合理的目的はあったにしても、女性や子供の「愛玩動物」としての価値と効果を低く見積もりすぎてはいなかったろうか。

 民俗資料ではない、老人倶楽部がまとめた「言い伝え」のような文集のなかにあらわれる、牛を飼っていたときの綴りには、牛といかに情を交わしていたか、その気持がにじみでているのだ。鞍下に出すときには、からだをきれいにふき、藁をあんだ沓をはかせ、前の日からごちそう(おからや大豆をしぼった呉汁)をとらせ、見えなくなるまで手をふって見送る。

 帰ってきたら必ず痩せていてかわいそうだったというその心はやはりこの国ならではのものであったことだろう。

 少なくとも多頭飼育をし、肉を食べる国の牛飼いの話を伝えきくに、情が移らないような飼い方をするのだという。裏をかえせば、日本においては情が移ってもよいとしていたしその利点のほうをたかくみていた可能性は高い。

 寡頭飼育であるがゆえの必然でもあろうが、「山をする」といったときのような、他のあり方とのインタラクションのよさがあったのではなかろうか。具体的にはまだみえない。

 

物乞いと神人と森人〜雑考:わからないものへ向かう仕方

 私たちはいつの頃からか、日々の暮らしのなかにあった、繊細な思考を失った。それがどんなものであったかさえ、想像はおろか妄想すらできはしない。これは悲嘆ではない。希望をもたないところから見える光であるならば、あるいは真実のかけらなりとも、落としてくれるかもしれない。

 私は何を繊細な思考と呼ぼうとしているのか。どのような思考が繊細さと結びつくのか。浮かんでは消えていくイメージの連鎖に頼っている思考をそう呼ぶだけではないのか……。

 繊細な感受性、ではない、繊細な思考。

 たとえば、次の一文をよんだとき、あぁ、これは感性というよりは思考だ、と、思った。

《そして実践家であった。……(中略)……(乳牛の)搾乳が終わって夜遅く二時や三時になっても、車をとばして村の病人の相談にのる、悩む人の相談にのる。しかも生まれたときの姿のまま、自分を自分以上に大きく見せようともしない、小さくも見せない。……(中略)……大坂君の「牛が落ちつかないのは化学肥料を使う田の畦の草を食べているのが原因ではないですか」という言葉は大変なヒントになりました。硝酸塩中毒になっているというわけです。それほど彼は感性のよい、感受性のつよい男で、一九六五(昭和四十)年、隣りの農家の農薬によって汚染された田の畦の草を牛に与えたところ、瞳孔の異常、視野狭窄が起こることに気がついて私に教えてくれた。》

森まゆみ,2007『自主独立農民という仕事』)

 まとまらない迷想のなかで、藁をつかむような感はあるが、こう言ってみる。

 「わからないもの」を考え、とらえようとするときに、思考は繊細なものとなる。

 ここから、はじめてみようと思い立った。

 先の大坂君は、繊細というより科学的なのでは? そう思う人もいるだろうし、無理もないのだが、それは科学の本質に対する誤解に起因する。科学の思考は繊細なものなのだ。

 記事カテゴリの中で、「ホトホト・カラサデ」に入れている一連のもののなかに、それはたちあらわれる。

 あるいは、「岩伏の谷の森神」でふれようとしているものに、それはある。

 荒神も石神も森神も、果たしてなんであったかについて、知ることは不可能であると、すでに何十年も前に柳田國男が記している。

 私たちの時代には、「わかる」ことが当たり前となった世界である。

 わからないことも、わかる人から教えてもらえれば、わかったことになってしまう時代。「わかる」こと、それは人であれウェブであれ、情報のデータベースとして存在し、その場所から「ダウンロード=複写」してくることでしかない。

 そのような知とは異なる相貌をもっているのが、凋落と落日を嘆かれている日本の民俗学である。

 河出文庫宮本常一『生きていく民俗』。その解説を「無数の風景」と題して寄せている鶴見太郎は、こうときはじめる。

民俗学とはすぐれて経験的な学問である。民俗事象が無数の人間によって積み重ねられた経験の堆積である一方、民俗学に従事する側にもまた、旅先その他における無数の出会いがある。》

 さて、本題はここからなのだが、もはや夜も明け方に向かいはじめた。睡魔にひとまずは降伏するとして、ここで、いくつかの断片をあわてて記し、自らの道しるべとしておく。

・経験的であるということは、国家的なものに抗する知を志向する。

・日本の乞食の源流に聖性あり。

・仏教のサンガ組織が物乞いによる組織運営を選び取ったことの後世的意義

・乞食する僧も職人も、山を拠点にした。そういう山とはなんであったのか

 そして、もうひとつ、宮本常一『生きていく民俗』からの引用をもって、この記事のタイトルとの関連を示しておこう。

p.40「物乞いと商売」〜

《(白山では)山地を焼いて焼畑耕作を行なっても、そこから得られる食糧だけでは半年食いつなぐのが精いっぱいで、食物がなくなると地内子たちは椀を持って牛首まで出かけたのである。牛首の親方たちの家ではヒエの粥をたいて飢えた農民にふるまった。しかし山に仕事のある間はよいが、雪が降って仕事ができなくなると、この人たちはいよいよ窮して、山を下って平野地方に出て物乞に歩きはじめる。……(中略)……雇われて働けばよさそうなものであるが、そうする者は少なく、ただ家々の門口にたって物を乞うたのは、もともとそのまえに白山の御師または強力として働いていたころの名残であったとも考えられる。そのころは白山信仰者の家をお札配りなどして歩いて金や食物を得ていたに違いない。

……(中略)……

 山奥で生活をたてることはまったく容易ではなかった。山中の者が里へ乞食に出る風習は実は白山山麓ばかりではなかった。中国地方の山中からも里の方へ乞食に出る風習があった。

……(中略)……

 (中国地方ではたたら製鉄に要する膨大な炭焼き需要があったことに言及したうえで)

 米をつくるだけではとうてい生活のたてようのない山中でも、こうして炭焼のもうけがあるということによって、山中にも人が住んだ。しかし炭焼で得られる金もたいしたことはないから、雪が深くて炭焼もろくにできないころには箕や簔をつくり、また篩などもつくって、春さきにになると里の村々へ売りに出たのである。なかなか器用につくってあって、里の人には喜ばれたが、だからといって、毎年買ってばかりはいられない。しかし、売りにくれば義理にでも買わなければならないとされた。また売る方も、相手はきっと買ってくれるものと信じていた。今日の商法からすると不合理なようであるが、山人は里人がその製品を買ってくれなければ生活をたてることができないので、ただ品物を買ってもらうというのでなく、助けてもらうような心持があった。だから買うことを拒否するようなことがあると、放火されたり、物をぬすまれたりする場合すらあった。》

(つづく)

摘み草の記憶〜#001

 野山のものを採取し食す。この行為を促すマインドセット※1は、食文化・食習慣の変容にさらされてなお、その原基のようなものを保持するのではないか。そう推するに足るいくつかの出来事があったので、まとまりなくも綴ってみる。
 かめんがら(cf.2016年のガマズミ)について、子どもの頃にはよく山で取って食べていたと、いま60代の方々から聞くことがあった。ここでいう「子どもの頃」という時代を、現在65歳の人が10歳だった頃とすると、昭和38年(1963年)のことだ。
 昭和38年といえば、東京オリンピックの前年である。農村には牛に代わり、トラクターをはじめとした機械が入り、トラック輸送が食品流通をかえ、日清のチキンラーメンをはじめとした食のインスタント化が進行していた。「鉄腕アトム」の放映がはじまった年でもある。ちなみに当時にあっては原子力は未来の夢のエネルギーと見られており、資本主義を打倒し民衆を解放するものとして共産主義が推するものでもあった。  この時代、家庭で味噌をつくることが「恥ずかしい」「遅れた」ことだと見られる地域もあった。味噌や醤油は「買う」ことが進歩的だと。
 小さな経済循環を解体し大きな経済循環のなかで、社会を再形成することが「是」とされた時代である。「こんにちは赤ちゃん」がヒットしていた。ベビーブームの谷間の世代でもある。

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By Mc681投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

この項、つづく(のちに加筆)。
●2017年12月の年の瀬に、とある40代女性の会話の渦にちょっと驚いたことについて。 「今の子達でも、〇〇の実をとって食べたりするから、びっくりしたのよ。いつ覚えたんだろうと」 「へえ。そうなんだ。私たちが子どものころは、△△はよくとって食べたよね〜」 「あぁ、□□は吸うと美味しかったわ〜」
 そうした行動や嗜好が発動するのは10歳前後であって、長じるに従って失せていく。ただ、いずれは消えてなくなるかもしれない。なにより、消そう消そうとする力は強く作用しているのだから。
 ここで注目したいのは3つのことである。
1.民俗文化の断片が子どもたちの「遊び」の中に残存するということ……柳田國男が「小さき者の声」で言及していたように、それらは大きな変形を起こしながらも残る。柳田はそれを「大人の行為を真似する」ということに因を求めているが、《模倣》ではない何かがそうさせるのだと考えると、ひとつの理がそこに見いだせる。
2.採集草木の利用が社会の中で失せても、子どもの「おやつ」「遊び」の中に残存するということ……よくわからない。あえて予断をはっきりさせることで、自らの認知に注意を促そう。たとえばガマズミの実を子どもが取って食べるのは、おやつとしてであって、大型の果樹の品種導入などによって食用としての利用が駆逐されていった後でも残るのだと。
3.子どもは大人よりはるかに非合理の世界に生きているということ… 子どもは「感覚の世界(養老孟司)」で生きている。子どもの存在そのものの価値を近代社会は否定しつづける。老人の存在も同様。
 こうしたことを念頭におきながら、いま40代の母にあたる人たちに残る「摘み草」の記憶をたどってみようと思う。時代でいえば、今から30年〜40年ほど前、1970年〜80年代である。
島根県雲南市在住・Aさんの言
 島根県川本町で生まれ育ち、小学生の頃に同県頓原へ移住。母は昭和20年生まれ。道の草をとって、こうやって食べるのだと教えられたり、むかごの取り方などを教わった。が、本人は山菜とりなどにあまり興味はない。
〇母のこと
・母は9人兄弟の下から2番目。上の人たちが働きに出るため、10歳頃からご飯をつくる炊事の係をしていた。まわりの人たちから、食べるものについていろんなことを教わった。
・山菜採りが好きだった。春が来るとうれしかったようだ。春になると、車にのせて連れて行ってといわれ、よく出かけた。車を運転していると、ずーっと外を見ていて、「あ、とめて」と言っては、草をとってきていた。
〇教えてもらった草のこと
・道ばたにあったイネ科っぽい、シューっとした葉がある。茎を折るようにしてしゅーっと引き抜くと白い綿みたいなものが出てきて、食べられるということを教えられた。
・味は覚えていない。おいしいとは思わなかったが、まずいとも思わなかった。
〇注:上記の草はおそらくチガヤであろう

※1私たちの脳と心はいまだに、定住農耕よりも、狩猟採集生活への適応をいまだ強く保持している。俗説のようにきこえるが、進化心理学の定見でもある(らしい)。

冬至当夜の日に〜豆腐をつくる・食べる文化の奥にあるもの

「いまでもあそこでは草刈りの後の直会ではひとり豆腐一丁は必ず出すんだそうよ」

「あー、うちもつい最近まではそうだったみたいだよ。さすがに夏の暑い時期に、豆腐一丁はようたべんということでやめになったらしいけど」

 今日の茶飲話より。

 豆腐はハレの日の食であったことを知らない人もふえてきました。私自身、小さな頃から豆腐は日常の食事でありました。ここ島根県雲南地域に越してきてから、ハレの日の食として豆腐があったことを知ったのです、遅ればせながら。そして、とりわけこの地域では豆腐をよく食べるし、木綿豆腐の割合が大変に高い。かつてそれぞれの家でつくっていた豆腐の名残が、そういうことをしなくなってからも色濃く残っているからなのでしょう。

 そういえばこんな話も80歳を超えたおばあちゃんから聞いたのでした。

「味噌も醤油もつくらんし、こんにゃくもつくらん。豆腐くらいは今でもつくるけど」

 全国的にみれば……、どうだろう、味噌をつくる家庭よりははるかに少ないと思いますが。こんにゃくとはいい勝負なくらいでしょうか。一度、可能であれば、悉皆調査をしてみたいものです。漬物や梅干しなどとあわせて。

 

 そして、冒頭にあげた話がでたときに、漂っていた疑問にひとつにちょっとした仮説を出してみたので、今日、はなはだ不備不完全ながら備忘的にあげてみるのです。

《木次ではなぜ豆腐をハレの食とする文化が今に至るまで残存しているのか》

  豆腐づくり必要なものを3つあげてみます。

・大豆
・にがり
・石臼(碾き臼)

 大豆は日本の食にとってなくてはならないものですし、どこでも栽培できるものですが、牛を飼っていたこの地域では、かなりの量を生産していたのではないかと思います。そう。ここで第1仮説です。

牛の放牧地で栽培するものとして、最後まで残っていたのが大豆なのではないか仮説

 わかりますでしょうか?ひとつの長い引用をもって、つづきは、またあらためて加筆します。(なんと、今日は冬至だった! 出雲から伯耆にかけて冬至当夜(トージトヤ)と呼ぶ習俗があります)

 石田寛1960,「放牧と垣内」(人文地理12巻2号)より

仁多郡鳥上地区では垣内すなわち放牧場内に畑(牧畑)があり、夏まや期間中のみに大小豆をつくり、それ以外のときは放牧場となる。

(中略)

 「藩政時代には、この一帯の奥山山地を鉄山と呼び、人家に近い山野を腰林といって、2つを区分して利用していたのである。鉄山は鉄山師の支配する山であり、腰林は農民の私的支配下に置かれた柴草山であった。田付山による採草、薪炭諸資材の採取などが自由になされていたのだる。この口鉄山では鉄師の支配権と農民の支配権とが重畳していた。

(中略)

鉄山は林間放牧地であり、それゆえにそれ(畑)は口鉄山でのみ行われるのである。牧野の中にある畑は1年1作であるわけであるが、作物は大豆または小豆に限られる。作付期間は放牧牛のこない時期に限られている。地盤所有者は自己の畑に耕作しながら、その所有権行使は放牧権を侵害しない限りでのみ許されるにすぎない》

(つづく)

 詳細ははぶきますが、大豆をつくる山(の畑)だけはたくさんあったということです。

 なぜ大豆・小豆に限られるか。

 それは牛が夏の暑い間、まや(小屋)にひきあげられるとき(約2ヶ月)をのぞいて栽培できるという条件にみあうものです。それが大豆であったということです。

 いや、大豆は60日じゃ無理だろうと。そうなのですが、それなるがゆえに仮説なのですが、牛は大豆が実をつければ口をつけないのです、おそらく。

 下の写真は冬至をむかえた我が家の夕食メイン。揚げ出し豆腐でござる。

 

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来年はシホウチク(カンチク)を食べるのだ〜出雲国産物帳にみる竹類

 10月のよく晴れたとある日、仕事でよく通る道路脇で筍をみた。観光客の来訪も多く、草刈りもていねいにされているところである。再生竹かなと最初は思ったのだが、いやまてまて、しっかり皮をつけていてあきらかに筍だ。温帯地域で秋に出る筍なんて相当限られていたはず、と、事典の類をひいてみれば、カンチク・四方竹であろうと見当をつけた。

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 それから1ヶ月あまりたち、通るたびに気にして、数回立ち入ってみた。節から気根が出ていること。稈にイボイボがあること。稈が方形であること。秋にタケノコが出ること。ほか高さなどから、シホウチク(カンチク)である。タケノコはたいそう美味であるとの評が多いので、来年の秋には食べてやるのだ。

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  さて、考えるべきことは、このシホウチク、いったいいつからどうしてここにあるのかということだ。日本国内に自生していたようだが、「ようだが」との言い方であらわしているように、用向きも地域についても、その仮説すらないようである。
 密生し、高さも3mほどまでのびるようで、境界の垣として植えたともいうが、その向きであれば、篠竹の類が防御性は高いようにも思える。
 そもそも、モウソウチクマダケ、ハチクなどとくらべれば、出雲地域ではふつうには見かけないもので、私自身、今秋はじめて目にしたものだ。
 女竹、篠竹については、リサーチ中の竹の焼畑の燃材であったことから、その植生と利用の関係を調べているさなかであって、ここにシホウチクの存在が入ってくることで、また新たな展望が得られるかもしれない。

 まず、たちかえってみるべきところの古書、出雲国産物帳名疏の竹類の項には、以下のものがのっていて、カンチクは最末尾にある。

 真竹 淡竹 女子竹 姫笹 箟竹(ノダケ・ヤノタケ) 篠竹 紫竹 熊笹 大明竹 小竹 シナノ竹 皮竹 カンチク

  なにを指すのか不分明なものもあり、辞書・事典をひきながら少しずつ補足を入れてみようと思う

・真竹
・淡竹
・女子竹(おなご‐だけ)
 女竹(メダケ)の異名として江戸時代における俳諧で用例がある。方言として残るのは以下の地域である(日本方言大辞典)。

福井県今立郡/兵庫県加古郡和歌山県島根県岡山県小田郡/高知県幡多郡長崎県東彼杵郡熊本県玉名郡

 ただし、島根県でも西部(石見)では見られないのでは?(要検証) 隠岐国産物帳の竹類は、3つをあげるのみであり、それは「淡竹・苦竹・女竹」である。女子竹ではなく女竹として記載されている。
・姫笹
・箟竹(ノダケ・ヤノタケ)
・篠竹
・紫竹
熊笹
・大明竹→九州地方には自生し、タケノコの王様とも呼ばれるあの大名竹なのか。
・小竹
・シナノ竹
・皮竹→真竹の異名か? これはわからない。川竹であれば、川にある竹、あるいは真竹という線があるのだが。
・カンチク

●追記2017/12/19
「あれからシホウチクのことを気にしてみてたら、西日登にもありましたよ。畑の隅のほうに」と。大変興味深い。選択的に栽培したあとなのか。比較的近年において。とも思う。 

晩秋山野渉猟

 11月14日、旧暦9月26日。朝のうち雨が降ったものの次第に晴れ。午後からは快晴となった。懸案をひとつずつ片付けるべく方々へ。
◉寺田の滝とかめんがら
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 この奥に寺田の滝がある。手前の平地はダム建設の残土であり、かつての面影とはずいぶん異なるものだろう。かつての地形図、あるいは航空写真を重ねてみようと思いついてから半年がたつ。その図をもって、ここを祖母の背中に負われて滝まで登ったという爺さんのところへ、話の続きを聞きにいくのだ。雪が降る前に、と思っていたが、日本気象協会の予報によると、どうやら今週末には初雪らしい。
 この近辺の再生緑地にはがまずみ(地方名:かめんがら)が多く植えてある。かつてここの山には、かめんがらがたくさんあったのだろうか。そういうことも聞いてみなければならない。かめんがらがたくさんあったのであれば、地形図の履歴からはうかがいしれないこの地の植生のありようが推測できるからだ。
 時は駈けていくものだなあと、鮮やかな紅葉に心おどらされながら、先を急いだ。
◉阿井公民館にて駒原邦一郎氏のことを伺う
 
家はすでに当地にはなく、子孫の方もどこへ移られたのかもわからないのだという。未刊行の原稿なり資料なりがあれば、検分したかったのだが、かなわぬことはわかった。
 ただ、この日、遅ればせながら、聞いてみたのは、虫が呼んでくれたからだろうか。『村のはなし』を現在復刻しているのだという。あぁ、よかった。価値をみておられる方がいて、骨を折っておられるのだ。お手伝いできることを申し出て、ほかいくつかの手がかりと、所蔵されている文書がまだ倉庫にあることを確かめ、日を改めて閲覧の約束をして、その場を辞した。
◉ゴロビナはこれではないのか?
 
阿井の山野に自生している草木でのなかで、懸案になっていたもののひとつ、ゴロビナ。その後、ギボウシ説が有力となっている(私の小さな脳内では)。だが、自生しているものを阿井で見たことはなかった。なんでないのだろう。植生が変わってしまったからだろうか、などと思っていた。数週間前、木次で昔の食べもの話の会を催した際、みなさんゴロビナはわからないということだったが、ギボウシがどんなものかはおわかりのようだった。「ほら、すーっと長い茎が出て花がさくあれよ」と。その言葉が、阿井のそこでよみがえった。あ、これ、か、と。場所もあるべきところにあった。昔ながらの農法をつづけておられるところ。椎茸の原木がおいてある山の裾野だ。

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 そちらのお宅にながらく借りたままだった本を返しにいくところだったのだ。当人は留守であったので、これはまた聞きにいかねばと。駒原さんが手を引いてくれただと、そう信じることにした。ありがたいことだ。

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 その小さな山の横にひろがる小さな田んぼの風景。美しい。
★追記)2017/11/19、電話で取材した
ギボウシは前からあったものかどうかはわからない。珍しいものなので、刈らないようにしている。
・前から採取していたかどうかはわからないが、最近ではとる人がいる。どこにでもあるものではないし、なかった。
・ゴロビナという名があるかどうかは、私はわからない。

焼畑のカブその後 「竹の焼畑2017」のことではない。種をおわけし、火入れをお手伝いしたところのその後である。9月の終わり頃だったろうか、夜中に電話がかかってきて、「カブがよぅできとるよ〜」と。「それはよかったですね〜。見に行きますからよろしく〜」。そうお返事してから何度か機会を逸していた。もう収穫を終えられたのではと思っていた。
 8月の頭に火入れに行って以来だから、4ヶ月ぶりである。ここは清冽な水が山からおりてくる口にあたる地だ。下の写真、一見しても「畑」には見えないだろう。が、これが、焼畑不毛地帯と言われつづけ(たが、大きな間違い、誤解、誤謬)た島根東部の焼畑の姿だと思う。

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 フォレストフォロワーではないブッシュフォロワー型の焼畑なのだ。ここでは長い時代にわたって、おそらく。休閑期間・循環も短い。
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 ただ、ここの場合、ほぼ毎年同じ土地を焼いているようだ。来年は伏せ込みから手伝いつつ、2年休ませて植生を回復させるようにしたらよいだろうと、私はおもう。
◉山中の柿の園
 柿を取りにくるかと誘われとある山中へ。かつて柿団地として開かれたところ。放置されてずいぶんたつらしいが、大木となった柿の木にはたくさんの実がすずなりになっていた。
 周囲はコナラ系の雑木だが、木々は若く20年生くらいではなかろうか。下層にはいわゆるクマザサが生い茂っている。肥料も薬もつかわず、みごとななりっぷり。小ぶりな実が多いのがまたよい。市場の評価が低いのだろうが、知る人は知っているようで、ナチュラルなこうした柿の需要は少なからずあるようだ。

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 ちょっとした納屋があれば、干し柿にして、こうしたものを欲する方へ届けることもできるだろうに。なにより、この柿たちが不憫だ。誘ってくれた初老の農夫は、もう年だから高くまで登られん、若いころはひょいひょい取れたのにと、言いながら、ふぅふぅ息を枯らして、きれいに実をとっておられた。頭をたれるとはこういうときなのだな。いい光景でもあるが、きたれ若人と叫びたい気持ちもある。が、ともあれ、希望膨らむ気持ちよい秋の一日であった。

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タネは生きているのか死んでいるのか

 焼畑に挑みはじめてからというもの、タネというものが、さまざまな相貌で立ち現れては、私に問いを投げかけてくる。秋から冬に向かういまの季節に、人はタネをとり、草木は大地にそれを落とし、あるいは飛ばし、哺乳類が口をつけ、実とともに鳥たちがついばみ、タネはひろがっていく。
 タネには、発芽を抑制する機構や物質を保持している。トマトであれば、私たちがおいしく食す、種のまわりのあのジェル、稲や麦であれば、籾殻が発芽を抑制する物質を含んでいる(ようだ)。機構としては、温度、湿度、光に、一定の条件をもってさらされることで発芽のスイッチが入るというようなものだろうか。
 タネは生きているのか、死んでいるのか。話したい欲動にはかられるが、先がみえているようなきがしてくだらなくも思える。手にいれた空を飛ぶ羽を前にしてメンテナンスの仕方を思案するようなものか。問いそのものではなく、この問いそのものが無効になっていくような仕方がないものだろうか。その地点にたてば、タネは、生と死の2項対立をこえるもの、異なる地平を見せてくれるにちがいない。

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 そう考えるようになったのは、「死んだ」タネを何度か目にし、手にしたからだ。  トマトの種取りの際のこと。完熟状態にまで放置し、タネのまわりのジュルを何度か水洗いするのだが、その最終過程、すなわちほぼ発芽抑制物質のジュルがとりのぞかれた状態で水にひとばんつけてしまったことがあった。取り出して、十分に吸水し乾燥させておくのを忘れていたのだ。
 やっちゃったな、きれいにとれたからいいかなどとのんきにかまえて、取り出し始めたのだが、発根をはじめているタネがいくつもあった。しかも、タネとして健康優良とみえる大きく形のよいものから。死産というべきなのか。どうなのか。
 タネとりは手間のかかる仕事だ。ゆえに農を業としてやっている人は自家採種などしない。自然農法栽培者は例外としてあるが、「手間がかかってしょうがないが、こればっかりは仕方がない」という嘆きを聞いたこともある。割にあわないとしかいいようがない。「割にあわない」というのは近代の人間社会スケールでみたときの話である。タネをとることで得られるものは、タネそのものだけにとどまらないのではないか。
 ラオスの、あるいはスリランカの混作農業では、百種をこえる作物を、他家受粉するものも含めて同じ地に栽培するという。それはそれは「美しい」光景だという。一度みてみたい。その美しさを。 確かめておきたい。モンシロチョウが一匹も飛んでいない一面のキャベツ畑との彼我の違いを。日本で美しいとされる、畝にいっせいに並ぶ同じ大きさ・色・形の野菜畑との違いを。混作農業の畑からタネをとる仕事は女性の仕事だという。女性しかできないようなある特殊な能力が介在しなければなしえないのだろうと推測する。彼女たちの動きを目を身体を、感覚が老いさらばえてしまう前に、この身で感じとっておきたい。彼女たちとタネとの間に何がかわされているのか。子をみごもり産むことができる存在だけが、その交感をなしえ、知ることができるのだとしても、かることがあるのではないか。
 タネの死産。それは水槽の中だけでなく、土の上でもある。焼畑でまいた蕎麦のタネは発根ののちの日照りで死んでいた。覆土をした家の裏の畑でも今年は何度かみた。なにがいけなかったのかと考えた。いくつかの理由・原因とその相関がわかるようになってきた晩秋、でもみにおぼえたかすかなうずきは、タネを生命あるものとして感じるものである。ま、そういう共感もあるかというほどのものかもしれない。タネという堅さのある「モノ」から、やわらかな根や芽が出る誕生と死が隣あっていることで、そこに生命を感じるのだろうし、ふつうの植物が一部を切ってもそう簡単には死なないこと、再生することとと違う点だろう。
 発芽しないタネだとて「生きている」状態にはある。発現する機会をうかがうためのなにかはいくばくかの有機性があることが条件だからだろう。アワ・ヒエのタネは長期にわたって保存が可能だという。飢饉にそなえて、俵にいれた籾を天井からつるしていたという話やその映像を何度かみたことがある。倉にしまってあった100年前のタネが発芽したということもときにきく(とはいえ発芽率は1%以下だというが)。十数年前のアワのタネをゆずってもらったが、数十粒をためした1年目には発芽0であり、今年はなんとしたことか実験を忘却していた。その貴重な籾を手にしても、生きている感じはしない。期待がないからだろうか。なんの反応もないからなのか。所詮、感情移入によって生じるとこだともいえるが、ここでいう感情とは、一個体のいっときの属性に過ぎないという、あまりに単純化されたものだ。普遍性がないというのならまだましなものだが、ノイズにすぎない、例外、特殊、……なものということに換言すべきものいいだ。が、ほんとうにそうなのか。人の生死、死生観という領域に少しふみこめば、ことはそう簡単なものではない。つづくとすれば、論点を整理してとりかかるべきものだ。タネの思想ともいうべきか。    

2017年11月8日の情景

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焼畑。竹炭はこうして残る。竹の根とあわせて表土の空気層をつくりだしてくれると思う。蕎麦のあとに古代小麦。前日に芽を出したのだと思う。2日前にきたときには見ることができなかった。これで、3区画ぶんすべてで発芽しており、発芽率は7〜9割だと思う。

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つぶらなひとみ。

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三沢のUさん宅へ通じる道の林縁部。林縁で水をもつところにシダ類と笹類が繁茂し、クヌギ、コナラもあるという植生は奥出雲ではよく見かけるように思う。

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土曜豆(白豆)はさやから出して、さらに天日干しするのだな。なにごとであれ休まず小さく毎日やると楽しいものだと、教えてくれる絵。

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かめんがら(ガマズミ)と笹は競合するのかな、だとすれば、かめんがらよりもササ、あるいは竹が優先する時代にここ数十年で入っているのだと考え、人間活動との関係性を想像してみる。