一月四日、そういえば稗を食べていない

日がな一日、読んだり、整理したり、用意したり。
棚のファイルを整理するまでもなく、立直す程度に整えた際、大庭良美『家郷七十年』の複写ファイルが出てきた。ほんの十数ページぶんほどではある。用向きとしては食生活の項を中心に記録を集めていたときのことで、シコクビエの記載を探していた。石見部ではほぼみられないのだと、たしか、そう仮の結論を出していた。ただ、匹見では藩政時代に持ち込んだが、栽培には失敗したことが記録に残っている(町史記載)。日原町史にもみられない。それら渉猟の際、栽培雑穀について詳しいのはこの『家郷七十年』であって、残していたのだ。忘れていたのでこの際、列挙しておく。

雑穀について

・「粟はたくさんつくった。餅粟と只粟とあって只粟は飯に炊く」……精白に苦心した旨が記してあり、「粟ばかりではつるつるして搗いてもはげないから、米へ混ぜて搗いたり藁を切って入れて搗いたりした」とある。こういうところ、うまくいかないなりにやっていることだから、「そうそう、あのつるりとしたやつはなかなかむけないんだ。無理すると歩留まりがおそろしく悪くなる」という同情共感が湧き出る。と同時に、そうか藁なりをまぜるといいのかもしれないと思ったりもする。「糠が多く三通りくらいあって」というところはすぐにはわからない。二通りならわかる。糠というのも正確ではないだろうが。籾と糠と皮のようなものか。確かめておこう。

・「黍もつくった。これは水を入れて搗いたが七割くらいは残った」というこの黍はタカキビのことだと思う。いわゆる黍のことは「小黍」と言っているようだ。「餅にするには挽き割ってついたりするがそのままで餅にするとつぶれないのがあって荒しいが味はわりによい。焼いて食べると香ばしい」。この正月の餅は、餅米8割に対して、タカキビ1割5分、モチアワ5分で、「タカキビ餅」をついたのだが、昨年と比べて挽き割りの量が少なく、かなりつぶれないのがあって、少しばかり食しがたい感じがあった。

・(粟で)主に作ったのは、赤粟と猫の手。猫の手は人足だましといって米の餅とまちがえたという。赤粟は早生でそのあとへそばをまいた。

・「左鐙や須川谷の方では稗を作っていた。稗はがしの飯米といって四〇年にもなる稗を俵へ入れて軒へあげて貯蔵している家があった」「鬼稗と坊主稗というのがあった」…興味深いのは、粉にして食していたことだろうか。粒食ではない。「稗は粉に挽いて篩って、水に入れて小さなからを浮かせる。他の物は粉を水に入れると浮くが稗は粉が沈む。飯にも炊いたが粉にして入れるので、はじめから入れると焦げるから煮え立ってから振る」

そうなのだ。稗を入れたパックが整理のときに出てきて、あぁ、これどうしようかと。挽いて粉にして食べてみようか。『家郷七十年』には、鬼稗はひげが多いからイノシシが食わないとあるが、どうなのだろう。少なくとも佐白の焼畑では、穀物でイノシシにやられたのはタカキビのみ。粟の鳥害のほうがおそろしいのだが。稗がうまく調製できて食せるのであれば、稗の栽培をふやしてみたいものだが。

家の神について

「どこの家でも床の間と神棚に神さまを祀っている。わたしの家では床の間に祀ってあるのは八幡宮と大元さまらしい。すなわち氏神様と鎮守である。神棚に祀ってあるのは大神宮と金毘羅さまと水神さまとお竈さまのようにきいている。大社もあったかもしれない」

大庭氏は明治42年生まれ。この書が刊行されたのは1985年。いま、大庭家の神棚がどうなっているかはわからないが、つい3日ほど前、年始の新年会に訪問したお宅で、何年もそのままになって黒くなった神棚の榊を思い出したのだ。あのとき、いやな気がしなかったのはなぜだろうと、その気持ちをといてみたいと思う気がこの文章にはある。

「大体朔日十五日に榊をあげ、お神酒をあげることになっていたが、近頃は正月とか節分、節句、祭りといった時にあげるほかは、何か思いついた時にあげるくらいで、はなはだ失礼なことをしている」

そう。ワタシとてそうであってというにはあまりに粗略であるのだが、そうか、朔日十五日に水をかえるくらいのことは、ことしはと、そう思った。

お日待ちについても、端的にまとめられていてその本質がわかりやすい。

「年に一回、年のはじめ頃にお日待ちをする。家に祀ってある神さまのお祭りである。それでこの日は宅神祭などといっているが本来お日待ちである」。そう年取りカブの山田さんが「あれはなんと言ったっけ」と言葉を探しておられたが、また違う名称もあったのかもしれない。

お日待ちでは家の中の神を祭り、(家の中とも外ともいえないが、場としては多く外にある)荒神を祀るのであるが、分家した家の家族も呼ばれるもののようだ。「むかしはお日待ちには神主は夕方にきて、夜どおしお祭りをして夜の明けるのを待つのであった。それでお日待ちというのである」という古態の記憶が語られている。

日=太陽として、日の出を待つからお日待ちと呼んだという呼称の由来が果たしてそうであったかどうかはわからない。確かなのは、大庭氏あるいは家郷のものたちがそう信じていたこと、その時空へもう少し歩をつめてみたい。推し量るにふたつある。ひとつ。「家の神」のことはよくわからなくなっている。お日待ちについてもそうであるし、ほかの祭事についてもそうなのだが、そのなかで夜を徹して行うことが守られ続けてきたのがお日待ちである。ひとつ。宅神祭とも言われたとおり、「家の神」をまつるものであるが、そこに集う人らは家族であり分家の一同であること、荒神の祭りに軸がおかれている様から祖先祭祀との結びつきがつよいこと、また正月の頃に行われることから、「年取り」の「年」に含まれる何かがここでは大きかったのではないか。

小学館の国語大辞典では、お日待をこう辞している。

《集落の者が集まって信仰的な集会を開き、一夜を眠らないで籠り明かすこと。「まち」は「まつり(祭)」と同語源であるが、のちに「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意にした。期日は正月の例が多い。転じて、単に仲間の飲食する機会をいうところがあり、休日の意とするところもある。》

『家郷七十年』では、集会にも講にも日待ちという語をあててはいなかったはずだから(のちほど確認。この際購入しようか)、日原という地の履歴もあわせてみればよりことの元に近づけるかもしれない。また、国語大辞典の「待ち」が「祭り」から転化したものであるとの釈は少々短絡であろう。桜井徳太郎が執筆している国史大辞典の「日待ち」の項はこう解している。他の事典と比してももっとも要を得ていると思うので、全文をあげる。

《集落の人々や一族があらかじめ定めた宿(やど)に集まり、前の夜から忌み籠りをしながら日の出を待つ民俗行事。マチは神の降臨を迎える信仰表出の一形態を示す語で、月待・庚申待・子(ね)待など、その用例は多い。神社の例祭をお日待と称する所が少なくないので、マツリの転訛とする説(『桂林漫録』)もあるが、定かでない。その起源は、天照大神の天岩屋の故事に由縁するとしたり、嵯峨天皇のとき天照大神の神託をうけて卜部氏の祖が始めた(『古今神学類編』)などと説くけれど、いずれも確証はない。この種の待行事は、庚申待が『入唐求法巡礼行記』に記載されるところから、中国道教の伝来によって起ったとされる。しかし古風を守る神社や民間の日待講に、精進潔斎して夜を明かし、太陽の来迎を仰いで解散する方式を執っているのをうかがうと、古代の祭式の面影を目のあたりにみる思いがする。日待に宴遊や娯楽、賭けごとが盛んになったのは後世の変化である。》

令和元年、年取りのタカキビ餅とタカキビと

昨年同様の塩梅でタカキビ餅をついた。昨年のほうが美味しかったという印象を持っている。硬い粒が残っているのと風味がいまひとつ。主に3つの要因があると思う。

1. 昨年よりもしっかり熟したものを使っていること
2. その割には水につける期間が短かったこと
3. ひき割りにした量がかなり少なかったこと

それから、昨年は入れていないモチアワを1合〜2合ぶんほどではあるが入れている。しかも半分弱は薄皮をかぶったままのものであって、あるいはこれが風味を損ねたかもしれない。

来年への引き継ぎ事項としては、水につける期間を長めにとることと、ひき割りの量をふやすこと、そして挽き割る際に出た粉も追加して加えること。

昨年、仕込みのときに感じた「この感じ」は忘れてしまっていた。そう、すりこぎでは埒が明かないとみて、家庭用精米機で殻をとっていたのだ、このときは。

年取りのタカキビ餅

タカキビ餅の仕込み〜平成30年12月

暦日雑想

(下書き中にて支離滅裂な点、多々あり、御免)
数日前のこと。年末の餅つきを一緒にする会の、打ち合わせの席でした。
冒頭、世話役の方から、今年は12月28日でいかがでしょうか、土曜日ではあるのですが、との発言。みなさん異論なく、しばし沈黙の後、それぞれに都合の摺合せや、餅米は何升用意するのかやら、わやわやと場は賑わったのですが、28日となったワケが興味深かった。
「29日はついちゃいけない日ということなので(29日の日曜日がみなさん都合がつけやすいのでしょうけれど)

そうだったかもしれないな、と思うと同時に、これ、迷信ではなくどこまで現在進行形の禁忌なのだろうかと思ったわけで、問題意識の備忘を含めて少し記しておくことにしました。
備忘…29日につく場所や家はあるのか。とりわけ加工場はこの日つくのかいなか。

まず、いくつかの脇道から。

聖性をおびた道具としての杵と臼

その席にいたほとんどの家には柿の木があります。つまりは、およそ8割が農家か元農家なのですが、いまでも、年末に家庭単位で餅をついている家はありませんでした。餅つき機はあるが、おばあちゃんがしなくなってからは買っているなどの理由によるものです。少なくとも杵と臼はどこかにしまってあるがはてどこだろうかという案配かすでに廃棄されたかであって、しばらく使われたことはないようです。
杵と臼について機会があればあちこちで改めて聞いてみたいこと。残っているのか捨てたのか。廃棄するとなるとそれなりにやっかいなものだということと、神聖な道具でもあり、そう簡単にゴミにはできないものだろうと思うからです。
飯島吉晴平凡社,世界大百科事典の臼の項でこうまとめています。

《臼はくぼみをもち,食物調製具として穀霊とも深い関係があるため,神霊を宿し生み出す道具として神聖視されてきた。新築の際には臼を最初に家に入れ,火災の時にはまずはじめに持ち出すこととされ,古臼の処分には近隣7軒に分けてたいてもらったり,石臼の破片は屋根に投げ上げて火事除けとした。年末には〈臼寝せ〉といって,臼に餅を入れて箕で覆っておき,正月の仕事始めにその臼の箕を取り除き杵で軽くたたいて〈臼起し〉を行う所もある。小正月には石臼に餅花の木を結わいつけたり,8月の十五夜には臼に箕をのせて供物を供えるなど神の祭壇とされ,また神のお旅所を選定するのに臼を川に流して決めるなど,卜占にも用いられた。農神は餅搗きの臼の音で春秋に去来するといわれ,ふだん空臼を搗くことは忌まれている。臼は年神や田の神の神座のほか,神輿の休息台にもされ,また人生儀礼にも多く登場する。初宮参りの帰りに生児を臼に入れて搗くまねをしたり,また難産の際には産婦に臼を抱かせたり,夫が臼を背負って家の周囲を3回まわったりする風もみられた。穀物が臼で食物に調製されるように,生児が社会的に誕生したり,子どもがこの世に生まれる上でも,臼は象徴的に同じ役割を果たすのである。》

餅つき機につかせることでも餅つきと呼ぶ私たちのなかには、杵と臼でつく餅つきのイメージと記憶がたしかにあります。いつの時代か後世、杵と臼での餅つきも遠いものとなっていくのかもしれませんが、餅つきという言葉そのものはしばらく消えることはありますまい。そして、令和元年の私たちの共通了解としての杵は、横杵です。が、将来残存するとしたら儀礼で多く用いられる縦杵を使ったものではなかろうか。横杵とはなにか。

《竪というのは、丸太の中ほどを手で握れるくらいの太さに削り、ここを持って上下に動かして臼の中のものを搗く。この型のは銅鐸に描かれたり、奈良県唐古(からこ)遺跡、静岡県登呂遺跡からも出土しており、横より古いものである。竪は、のちに横にかわり、使用が少なくなったが、みそ豆搗きや焼米搗き、餅の搗き始めには、最近まで丸棒状の竪が使われた。》(小学館,日本大百科事典:小川直之

  臼と杵から聖性が次第に薄れていく過程で、竪杵から横杵への転換が起こったのではないかと想像します。ここには複数の流れがあるのです。変化というものは、つねに複数の力動から、あるベクトルが生じるときに、流れとして方向性をもつものです。

さて。

大雑把には、それが便利だからとか忙しいからだとかいう理由がこうした変化には添えられるものでしょうが、渦中にある身としては、いやそれは第一の理由ではないだろうと、最近とくに強く思います。あるいは、効率性は単一の要因として変化を生じさせるものではありえない、とも。

結論めいたものを言ってみれば、これは、一人ひとりの内的感覚の変化なのです。味覚嗜好の変化であり、時の感覚の変化。
一人ひとりにその理由を問えば、こうした理由は出てきません。
なぜならそれは「個人」の感覚からくるものだから。
そうしたものは理由理屈をもって語られる言葉には出てこないのです。
しいて出るとしたら、「そのほうがうまいから」という理由です。
はで干し米をつくりつづけて、今年からはやめたという人から聞いたことがあります。「じいさんが、頼むから家で食べるぶんははで干しでと言われてきたが、もう勘弁してくれと、納得してもらった」と、そういうのです。あわせて「(自家用の)野菜もたくさんつくっているが、家を出た息子夫婦たちもよう受け取らん。つくる時間がないそうだ」。
スーパーは惣菜売り場が充実しているほうへ人は流れ、冷凍食品はスーパーよりもドラッグストアで買う時代であり、外食産業はそのほとんどがセントラルキッチンでつくられたものを使っているような時代。
なにが変わったのでしょう。
便利だから?
時間がないから?
いや、それは違うのではなかろうかと思うのです。

さて、下の写真は2017年12月30日に、とある農家へ伺っての餅つき風景。

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ついた餅を大根をおろした汁につけていただきました。なぜ大根なのかとたずねたところ、特に由来があるわけでもないとおっしゃいましたが、昔からこうしてきたものだと。大根に含まれるジアスターゼなどの酵素の働きで消化が促進されることをもって、理にかなった習いだといえましょうが、それだけではないように思いました。
さて、このような機会は地方山間部においてもまれになったとはいえ、残っている家には自然な形で残っているものです。

閑話休題
話は、年末の餅つきの日取りのことです。
「29日はついちゃいけない日ということなので」というやつ。

まず基本的なことから。

忌み日について

〜〜してはいけないという日がいくつかあり、民俗学あるいは今は使わない語彙ではあるが総じて「忌み日(いみび、きのひ、ことのひ)」と称されます。簡潔な整理としては、消失してしまった祭礼の残滓的形態。祭礼を構成する多種の要素が抜け落ち、あるいは変容する長いときの流れのなかで、祭礼そのものがなくなった後にまで残ったもの、それが忌み日という捉え方です。
祭礼の前段において、精進潔斎する間をもって忌み日となっており、それは原形(古態)においては、数日にわたるものでした。食べてはならないもの、行ってはならない場所、そうした「してはならないこと」、すなわち禁止事項はむしろ付随することがらであって、たとえば、一番鶏がなく前までに誰にもみられることなく、海につかり身を洗うこと30日、というような「すべきこと」が定まっていました。多く神をまつる日であるのですが、餅つきについていえば、神を迎える準備のひとつとして供物を整えることがあります。餅はそのひとつであったのでしょうが、餅をつく前に、そこに携わる人は身を清めのぞんだのであれば、忌み日はついてはいけないというよりはつく準備をする日(期間)としてあったものでしょう。

特定の暦日が忌み日となること
時間とはなにか。掘り下げればおそろしい問ではあるのにもかかわらず、安易に時計のことだといってみることもできる。だが、時間は時計がかかわるものであって、時間そのものではないだろうとは、これまた安易には思う。
さて、時計は時間ではなく時刻をあらわすもののひとつである。同じことは、暦(こよみ)とカレンダーにもいえる。カレンダーは暦をあらわすひとつのものである。

……長くなったので、つづきはまた。

正月とカブ

正月にカブを供する儀礼といえば、七草粥があるのだが、その起源をたどろうとすると、途端に錯綜した渦に翻弄されることになる。

まあ、いろいろとね、諸説あるんだけどね、と言いたく(まとめたく)なるのをこらえつつ、あらためてとらえてみようと思ったときに、『丹波の話』に出てくる「若菜迎え」が鍵になるのではと直感したことが、この書を取り寄せるきっかけである。

磯貝勇『丹波の話』、昭和31年刊行。

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読んだことはなかったが、その名は何度も見ていた。小学館の国語大辞典、そして方言大辞典の項に「若菜迎え」があるのだが、そこに典拠として、丹波・丹後のいくつかの文献、そして島根県方言辞典とが並びあげられている。「若菜迎え」自体は、丹後、山陰以外の地にもあったのだろうとは思う。が、もしかしたら、このふたつの地域にのみ、伝わってきたものなのかもしれない。
ともあれ、失われた習俗として、若菜迎えの姿をとらえていくための入口が、この『丹波の話』なのである。

さて、この書は6つの章からなるが、若菜迎えが出てくるのは「由良川風土記」においてのみであり、その記述もきわめて少ない。

地域は由良川上流部の何鹿郡(いかるがぐん)、船井郡天田郡といった郡部と綾部市であり、現在ほとんど綾部市内に入っている。

1950(昭和25)年の筆記である「正月の行事など」という一節は、「正月にまつられる神様は、由良川沿いの村里でもトシトクサン、あるいはオトシサンなどと呼ばれている」という一文からはじまる。穀物の霊、農耕神の性格をもつ神であることは一般に知られていることだがとして、その特徴がはっきりあらわれているものとして、まつる”場”について一見とりとめもなくあげている。私のほうで整理しなおした箇条書きを以下に記す。

1. 俵の上にまつる(綾部市和木)

2. 一升枡、斗升、升掛など枡を司る神様で枡にまつるものだといっている(綾部市星原)

3. 歳徳神の軸を床にかけ、その前に種モミの俵をおいて祭る(天田郡川合村)

4. 米俵の上に松をさし、ヘヤの中で祭る。松は三段五段のもので松かさの多いものを選ぶ(船井郡和知地方)

◆追記1

七草粥に供される七つの草とはなにか。現代においては、口承も習俗もほぼなくなりながら、買い求め食するものとしてむしろ根強く残る正月の行事として存在感をむしろましている感すらある。そのせいか依拠するところ、三次的孫引き的テキスト、単純複製されたテキストによって七草の種類が定まっているように思う。つまりは全国共通した種類となっているということ。そのルーツを求めていけば、『河海抄(かかいしょう)室町時代初期に成立した『源氏物語』の注釈書にたどりつく。

(せり) なづな 御行(おぎょう) はくべら 仏座ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七種

まとめとして、以下が簡便ゆえ参照のこと。

ja.wikipedia.org

www.benricho.org

chusan.info

上記「七草の歌・作者はだれ?」にはこうある。

《和歌を中心とする文化も貴族階級のものになってしまって、萬葉集のころの庶民性は失われ、題材も花鳥風月や恋愛に型が決まり、野菜などの食べ物を描写するのは卑しめられたようです。そのせいか、このころに書かれた竹取物語伊勢物語には野菜はひとつも登場しません。

しかしこの時代でも、若菜だけはめでたいものとして歌に詠まれ物語に現われます。若菜はお正月だけではなく、四十歳からの長寿の祝などにも「若菜まゐる」という祝賀行事が行われました。

この行事の記述はいくつもの古典文学に見られます。源氏物語の「若菜」上下巻はその代表でしょう。でもこの大和物語のお話はそんなお祝い事ではありません》

若菜まゐるとは?

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2074/1/0050_014_001.pdf

農書『家業考』〜年中勝手心得の事 からの示唆

木次図書館の郷土資料の棚に農文協の農書全集第9巻がある。「神門出雲楯縫郡反新田出情仕様書」や「農作自得集 」をおさめているからだろうか。あるいは広島県高田郡吉田町に豪農が記した「家業考」を、雲南市吉田町のものと勘違いしたということも考えられる。  なにはともあれ、ざっとではあるが、目を通してみるに、ほかの農書に比してもそうとうおもしろい。肥料としての焼土の利用が仕込みも含め年間通じてかなりのボリュームをしめているのも興味深い。焚き木にもならない小さな小枝を使うのだとか、田植の馳走に鯖を手配しているのだとか、ふるまわれるのがどぶろくではなく清酒であることだとか。郷土史編纂の折、偶然にも「発見」された丸屋甚七著とある農書。再読していねいに記しておきたいが、今日のところは4つをとりあげておく。

●正月一日の食事のことなど。

《正月一日。家来ぞふに(こぶ、ごほふ、大こん、ぶり)。中飯米のめしつけもの。夕はん米めし、平(ぶりのあら、大こん、いも、みそ汁、酒かんどく一つ。》

まず、一日が三食であることを記憶しておきたい。この書は明和年間(1764〜71)にしたためられたと推定されている。市中ではない、農村での食制である。ぶりのあらなんてものまであるのだから、おどろくことでもないのかもしれない。

昼食が「米の飯」に漬物。翻刻・解題の小都勇二は、米の飯が多いことに意外感をもたれているようだ。かぞえてみれば、三食とも米飯の日が年間14日、昼夜二食が4日、夜だけでも米の飯という日が14日。もっとも、この豪農家がとりわけ多かったのかもしれないわけで、しかし比較しうる資料もなかなかあるものではないだろう。

ふと、農家はもっと米の飯を食べていたという資料の読みを書いている有薗 正一郎の論考を思い出した。書棚の奥に引っ込んだままなので、また紐解いてみよう。検索をかけたら、「家業考」についての論文があった。 〈「家業考」にみる中国山地西部の水田耕作法の地域的性格〉愛知大学大学論叢72号1983年/愛知大学文学界(p.312〜291)  国会図書館のデジタルアーカイブにおさまっているようなので、折をみて図書館でみてみよう。

夕はんにある平とはおひらのこと。平椀のことだが、知らなかった。妻にきいてみれば、「おひら」のことでしょうと。お盆のときなどに供える膳にのる椀としてよく知られているだろうとのこと。口絵に写真があって、膳に四椀が並ぶ左上からお平、坪、飯碗、吸物椀となっている。

酒かんどく一つとは銚子に一本ということのようだ。
ほかに、牛にてんこ10、よき餅10とある。てんことはてんこもちのこと。小都氏の注釈には「くず米や小米、籾殻まじりの米をこねてつくる粗末な団子もち」とあるが、石見山間部では粟や黍など穀類などが主ではなかったか。これも事典類をひいたところでは、広島・島根など中国地方に多い方言のようだ。「てんこ」の語彙を知りたい。

●とろへいのこと

《正月十四日。よなべさせぬこと。とろへいハそうべつてもち壱つツゝ、尤此谷のこどもちさきいわひ一つツゝ》
とろへいが明和年間にはあったということがここから知れる。大正時代前後に編纂された郡史には、とろへいを乞食として扱っていたのではと思い起こしてみるがよくわからん。要確認のこと。
よなべをさせないのは、15日からみやげをもたせて家に帰させるからということもある。

●年越と年取りは違う!?
これが主題といっていいのだが、よくわからない。原文をあげておきながら宿題とする。

《としごへのばんニハよなべなし。としとりのばんニハなをさらよなべハなし。まやいあらば木こり、木わり、わらしごとハ時の考ニてさしてよし》

作業仮説としては、年越の晩が大晦日、年取りの晩が元日の夜であろうか。大晦日であっても暇があれば仕事をさせてもよいと追記しているので、年越しの夜からが休業という意味合いもあるのかもしらん。  家業考では休日のことを「あそび日」としている。

《正月三ケ日ハ朝より家来下女ともあそぶ。其外の年中のあそび日ハ朝飯迄しごとして朝飯よりあそばしてよし。》

年越しについては、国史大辞典における田中宣一の文をあげておく。

年越(としこし) 新年を迎えようとする夜の時間、およびその間の行事。一般に年越といえば大晦日の夜を指すが、立春七日正月小正月を控えた夜をも年越ということがある。古い考えでは日没時を一日の境としていたとされるが、この場合、夜は前夜ではなく、もう朝に続く一日のはじまりとみなされていたのである。したがって、新年を控えた年越という夜は、年の最後の時ではなく、新年に含まれる時間であった。一方、神霊の出現は夜とされ、祭は夜に開始されるのが普通である。だから年越にはすでに正月の神が訪れてきているのであり、この神を祭るいろいろな行事が執り行われるのである。大晦日夕方までには正月飾りを完了し、そのあとハレの着物に着替えて、一家揃って年神棚の前でハレの食事をいただく地方があった。このハレの食事をオセチ料理という所もあるが、一般化した年越そばもこの一種かと思われる。また、この夜は囲炉裏で浄かな大火を焚きながら起き明かすべきだと考えられており、もし早く寝ると皺がよるとか白髪になると信じられ、その上「寝る」という言葉さえ忌んで、代りに「稲を積む」といっていた所は多い。これらは来臨した年神に一夜侍坐していることを意味し、夜が明けると神への供饌を下ろして神人共食するのが、雑煮を祝うことのもともとの意味であったとされる。節分・六日年越・十四日年越の場合にも、同じく神の来臨を想定して各種の行事が行われ、明けて七草粥や小豆粥が祝われるのである。》

夜が一日のはじまりというのは世界共通の「原始」認識であることは、学的には定説といっていいだろうが、ひろく常識とはならない。クリスマス・イブについてもそうであるように、前夜祭という意識・観念を払拭するには至らない。
この認識・感覚のズレは、掘り下げてみるとおもしろいものが出てきそうだ。
あぁ、そして思いついたことを最後に。
神人共食がセチの料理であり、年越しの料理であるのに対して、雑煮は異なる。
それはプレゼント。贈与なのである。年玉がそうであるように。 年取りカブは、神が食したものの下賜なのであり、と同時に身分の違うものが同じものを食するというそういう世界を顕現させるものとして、もちとは異なる何かなのだ、と、まずは想定して、進んでみよう。

◆追記注1―はじまりとおわりの感覚
 はじまりがあっておわりがあること。私たちはそれを当たり前のこととして、常識として、生きている。別な言い方をすれば、1日にはじまりがあることを疑うことはないし、はじまりとはなにか、一日とはなにかということを、「考える」「吟味する」ことはない。が、少しだけ、ほんの少しだけでも、疑いをはさむことはじつに容易であることにむしろ驚く。感覚的には、一日にしろ一月にしろ一年にしろ、そこにはじまりもなければおわりがないというのが、「感覚」がひとりひとりに示すことだからだ。そう、はじまりもおわりも、きわめて言語に依存した概念・観念なのだ。
 さらにすすめていえば、単位、区切りというもの自体がそうだ。一個二個という単位は同じものがふたつ以上存在することが条件となるが、二進法があればロゴスが生まれのとは異なるレベルで、数には秘められたロゴスが宿ると信じられてきた。
日本における六曜が数百年にわたって、「迷信だからよせ」「禁止する」などの弾圧をものともせず、生き延びているこの強さとはなんなのかということについて、それは「数」がつねにたちあがりつづける契機として機能しているからだと仮説づけてみよう。ここから、はじまりとおわりの「感覚」がなんなのかが見えてくるはずだ。

その昔、どんなヤキモチ、オヤキが食べられていたのか

 どこかで読んだのだが思い出せない。「へえ〜。仁多にもあったのか。そりゃあっただろうけれど」という記憶のみ。そう、仁多に、かつてオヤキ=ヤキモチがあっても不思議でもなんでもない。全国どこでもそうだろう。しかし仁多では早くから米食の比率が高まり、麦・雑穀の食制が他の山陰地方より早くなくなっているだろうから、「オヤキをよく食べた」と語る人が昨今まで存命だったというのは驚きではある。たとえ、いらしたとしても、それが活字になって残るためには、「そう語ってもよい」という、発語者と受話者、そして活字となってひろまる地域の受容性がなくてはならない。※1)訂正後述  その前提からすると、郷土食ブームが過ぎさった後、昨今の「商品開発」の流れのなかで、浮かんできたもののようにも思える。「オヤキ」はいまや売れ筋なのだ。流れとしては中に入る具の種類がふえ、サイズが小さくなり、といったところ。小麦粉にベーキングパウダーをまぜふっくらとした生地となっていることもある。  
 安曇野チヒロ美術館で食べたオヤキ。小さなふたつだが、大人のお腹を満たすのに十分。「具」は野沢菜とキンピラ。生地は薄め(かな)。

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 小学館デジタル大辞泉プラス」では2017年12月更新として、オヤキを次のように説いている。 《長野県の北信地方発祥の郷土料理。炒めて味噌で味付けしたナスなどの野菜の餡(具材)を小麦粉の皮で包み、蒸し上げたもの。古くは囲炉裏の灰で焼いて仕上げたことから「お焼き」の名がついた。「焼餅」とも。現代では県内全域に見られるが、北部ではお盆に食べ、南部では11月のえびす講で小豆餡のおやきを供えるなど、地域により異なる風習もある。近年では野沢菜、カボチャ餡、キノコ、切り干し大根など餡のバリエーションも増え、カレー味などの変わりおやきも作られる。》
 古い事典の類には、「長野発祥」という記述は管見の及ぶかぎり見られず、おそらく郷土食の商品化の流れのなかで全国的に「おやき」という名称が一般化したものだろう。それというのも、ここでも北信地方発祥とする「おやき」は北信地方ではかつて「おやき」ではなく「やきもち」という名称が一般的であったからだ。
 昭和59年発行の「長野県史・民俗編 第四巻(一)北信地方 日々の生活」では、一般名を「ヤキモチ」とし、別名として以下のものをあげている。
・おやき ・こねつけ ・ちゃのま

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 皮の材料も北信地方のなかで多種、食制も朝に、昼に、夕に、おやつにといろいろ。ともかく、「焼く」食料の代表ともいえる存在だろう。小麦粉が主ではあるが、クズ米の粉と他の粉との組み合わせの類型も多い。ひろいあげてみよう。
・小麦粉 ・米粉(くず米) ・そば ・あわ ・ひえ ・きび ・とち ・もろこし
  瀬川清子,1968『食生活の歴史』(講談社)には、新潟の小林存翁が取材した食生活をひいて当時の主食がなんであったかを問うている箇所がある。そこでは、カテメシ、雑炊より「ひどい」ものとしてヤクモチがあげられている。

《魚沼郡・頸城郡の山村にゆくともっとひどい、粃米に雑穀の粉をまぜた団子の中には餡の代わりに葉っぱの油煎に味噌あじをつけたものを入れた人頭大の焼餅をつくって、藁火・柴火でじかに焼き、手で灰を払って食う、これをアンプ又はヤクモチといったが、それで茶を飲めば朝飯は終わりだから、朝に人に逢えば必ず”茶あがらしたか”という。昼飯に山にもっていくのもそれである》

さて、※1の訂正について。
 仁多にヤキモチ、なかったよねと、農文協の『聞き書 島根の食事』を開いてみれば、奥出雲にしっかり見出しつきで掲載。もし島根にあるのだとしたら、石見山間部だろうという思い込みが見事に外れたわけで、ほんとに愚考・愚見だなと反省する。  石見地方よりむしろ出雲地方にみられるのだ、ヤキモチは。
 まず奥出雲のヤキモチについては、米の項目のうち「米の粉でつくるもの」として4つあげられるもののなかのひとつ。

ヤキモチ  米の粉二合にそば粉八合と熟柿一〇個を加えてぬるま湯でこね、だんごにする。これを浅い鉄なべで焼いて味噌をつけて食べる。十一月から十二月に食べるもちで、年によっては針供養のとき、このpもちに針をさして川に流すこともある。》

 興味深いのは「米の粉でつくるもの」として挙げられている他の3つ、すなわち「八日焼き」「笹巻き」「あこ見だんご」はともに儀礼食であり米粉を主原料としてつくられるものであるのに対して、「焼きもち」だけが、そば粉を主としてつくられる「日常食」として挙げられていること。
 ここには、何か、ありそうだ。
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追記1 太田直行『出雲新風土記』に焼餅の記述がある。

《…弁当にはエンドウ飯に塩さばをそえてお昼ごろ主婦が山へ届けまたオヤツ用に夏豆餡(そらまめあん)の石糠餅(いしぬかもち)も作る。》

 この石糠餅が「焼餅」なのである。  なぜ石糠なのか。つづけてみてみよう。出雲地方における、焼餅=オヤキの古態を、肝要にまとめている。

《石糠餅は、死米や青米の混った屑米を石臼でひき、よくこねたものを拳大にまるめてホウロクにかける。従って「焼餅」ともいうが、腹もちがよいので農繁期には不可欠の間食、いな主食でもある。しかし御馳走ぶりに作る時は季節のもの、即ちサツマイモ、ソラマメなどを餡に入れたり、また粉によもぎや柿をまぜたりする。柿は渋い生マ柿をつきまぜるのだが、焼くと不思議に渋味が去って甘くなる。これをカキゴという》

太田は明治23年の生まれ。緒に「自分の体験から幾分かでも血の通った記録を残す」ものとして、年代を明治中期から大正初期にかけての一部落のものだとしている。すなわち大田の郷里たる能義郡飯梨村。 ==== 大

シコクビエを育てるにあたって

 今年の焼畑でシコクビエを撒いてみるのだと。そう思い立ったのは1年ほど前だったと思う。理由は大小いくつかあるのだが、なぜこれほどまでに顧みられていないのか、それが気になっていたことが存外に大きいのかもしれない。

 この項、のちほど加筆するとして、とある資料をはっておく。

横浜市立大学記者発表資料 H29.9.5〜雑穀シコクビエのゲノムを高精度で解読食料安全保障と健康食品開発への貢献に期待

○出雲地方ではなんと呼ばれていたのか

 「出雲国産物帳名疏」を何度かみているものの、わからない。たとえば、アワ、ヒエ、キビ、ソバなどと比べるまでもなく、いまや、その存在すら知らない人が大半である。作業仮説的に、「出雲国産物名疏」中、ヒエの筆頭にある「赤稗」がシコクビエであったのではないかと、そうしておく。

 事典の類にも、記載はわずかである。小学館『日本大百科事典』『国語大辞典』、平凡社『世界大百科事典』からいえることは3つ。

・インドまたはアフリカ原産で、日本へは中国を経由して「かなり古い時代に」渡来した穀類。オヒシバと近縁。

・呼称は、こうぼうびえ、のらびえ、からびえ、かもまたきび。現在一般名となっているシコクビエは四国で多く栽培されていたから(という説もある程度か)。

・山間地域で捕食的に栽培されてきたが、現在ほとんどみられない。

○呼称いろいろひろってみる

 wikiからひいたものでは以下。

岐阜県…チョウセンビエ(朝鮮稗 徳山村郡上八幡)、アカビエ(徳山村)コウボウビエ(弘法稗)、タイコウビエ(太閤稗 荘内村)

富山県…マタビエ、ヨスケビエ(与助稗 利賀村)

・他にヤツマタ、エゾビエ、ダゴビエ、カモアシビエ、カラビエ

 自分が知る限りで以下。

・コウボウビエ…静岡県井川地方

カマシ(カモアシビエの転訛か)…石川県白山山麓(『聞き書 石川の食事』)

・カーラベ(カラビエの訛りか)…飛騨高山(特産種苗 第18号 シコクビエの栽培機械化)

○追記予定のもの資料

・石川の食事〜

・広島の食事〜

・井川の雑穀文化〜

ウバユリのオスとメス

 クニ子さんの言っていたことがはじめてわかった。と同時に、こりゃどうみても採取していたのは「メス」のほうだろうなと思う。ウバユリについて記しているものをいくつかみたが、「実際に採って食べている」人はいなかったのだろう。  ことはウバユリに限らない。

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飢饉の記憶とカブの儀礼と

年取りカブを中心としたカブの民俗について整理してみる。

◆正月カブ(地カブ)が供物として捧げられるとき。

1. 歳神さんを迎えるに際して「吊るす」形態で→「吊るす」形での供物は、獣のそれが原型ではなかったか。神殺しとも言われるもの。

2. 稲こぎのあと、千歯こぎあるいはこぎ箸に捧げるものとして、一升枡にカブを逆さにおき、精白した米で満たして捧げる。→一升枡に入れる供物は歳神さんに供えるものとして下の写真にある形態があるほか、節分の豆を入れて供えるものとしてある。

後者について、奥出雲町横田の大呂か竹崎の郷土史に節分の豆まきを正月に行なうということが記されていたことを思い出す。
※写真については後ほど掲載。静岡県水窪のもので、

◆地カブ(正月カブ)を年中行事の中で食するとき

1. 年取り
・大晦日の夜、年取りの晩、節のとき、これすなわち、終わりと始まりが交錯するとき。
・蕪汁である。
・「カブがあがるから」などというが、もとは唱えごとがあったのではないか。カキなどと同様に。

2. 粥
七草粥として残存しているが、古くは晩秋の行事であったはず。秋の七草が古形である。

◆大根の年取り

平凡社「世界大百科事典」より

《東日本では,十日夜(とおかんや)を〈大根の年取り〉といい,この日に餅をつく音やわら鉄砲の音で大根は太るといい,大根の太る音を聞くと死ぬといって大根畑へ行くことや大根を食べるのを禁じている所もある。西日本では10月の亥子(いのこ)に同様の伝承があり,この日に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができる,疫病神がつくといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬともいう。…》

伊藤若冲・果蔬涅槃図に描かれたカブについて

年取りカブのあるところ

2月23日(土)。1年半ぶりくらいに年取りカブのある谷へ。 谷に着いて車を降りると鶯の声。
Yさんのお宅まで畑をみながら歩く。2年前は雪が降り積もる谷を歩いたっけと不確かな記憶をなぞりつつ。
開口一番「鶯、鳴いてましたよ」といえば、「あぁ、2日前からないちょるね」と。  1時間半ばかりあれこれお話を伺った。

・里芋も去年はダメだったと。こたつの上に出されていたのは、よそから種芋をもらってきて育てたもの。地のものとは味が違うという。形を聞いたらば、昨年から塾でも栽培している三刀屋在来と同じ系統のようだ。大事に育てよ。

・「あんたつづれもしらんかね」といって、出してきてもらった「つぅづぅれ」。裂織の綴。ボロの着物のことだが、仁多郡ではぼろ布を裂き織りにして作ったそでなしの仕事着のこと。中国地方山間部で用いられてきた方言。ちょっとした雨ならぬれないし、あたたかいし、しょいものやらにもいいと。

「わたしゃ背が低いけん、こげにみじかいだども、もっと長いもんだけんね」 文化財データベースなどでみると、その意味がよくわかる。というより、こっち、現役ですから。文化財とか遺産ってものがほんとに陳腐にみえてくるほどに、ビビッときた。 からさでさんのこと、縄(にかわ)のこと、ききそこねたこと多数。干し柿いただいた。ありがたし。