西志和の焼土の風景

 宮本常一著作集21「庶民の発見」を借りてきて読んでいる。じつは24巻の「食生活雑考」を借りるつもりが間違えたのだ。図書館に地下書庫から出してもらい、中をみずに持ち帰ってしまった。しまったなあと思いながら読み進めると、しかし、これぞ僥倖であった。いくつもの発見があったのだが、「粗朶ってなあに?」でも書いた焼土の風景もそのひとつ。

《三月の夜の野は冷たく静かだったが、煙のすっぱいようなにおいが一面にただようていた。そして田圃のところどころから煙がたちのぼっているのが夜の目に見えた。焼土を行っているのである。夕方、田圃のそこここで大きな火をもやしているのを見かけた。その上に土をかぶせておけば土がやける。ここではそうして土を若がえらせている。そのほの白いけむりと甘ずっぱいようなにおいが私のこころにしみた》

 宮本はこの村の人物をたずねている。「丸山さん」と呼んでいる当時の村長である。「百姓の血の中には野の草のような根づよさがひそんでいる。丸山さんはそうした百姓の血をもった一人である」。その丸山さんがはじめたことなのか、その昔からあった風景なのかはわからない。「おしゃべりが大変好きだ」と自白しながら書き進める宮本はなにを、ここに感じていたのか。

 太田川の支流の奥にひろがる盆地であって、それはひどい湿田地帯だった村を、仲間とともに乾田へと「改良」していった丸山さん。それは暗渠排水の工事だというが、「その苦心はひととおりのものではなかった」という。

 竹はこの地域にはなかったようだ。であれば明治の終わりから昭和のはじめにかけて行われたその工事には粗朶をつかったのではないだろうか。焼土の煙は粗朶を燃やすものであったように思えるが、思えるだけであって、いまだ臆見にすぎない。ただ、この宮本が見た風景を、まぶたの奥にこれからなんどが浮かべながら、他の資料をあたってみようと思う。

《峠の上に立って見るとその白いけむりが平らに海のようにただようて、村の家々はその下にかくされていた。不思議にものしずかな、しかししの白さが星の光を反射してかほのあかるい風景であった》

 そう。昔あったその風景を写真ではないものから想像してみるのは、楽しく、刺激的なことなのだが、この宮本のテキストからは、絵になる前の何かを、それを絵たらしめてる何かへの思いがたちこめているのだ。

 そう。宮本がつくったというあの有名な句を思い起こしてみよう。

「自然は寂しい。しかし、人の手が加わると暖かくなる。その暖かなものを求めて歩いてみよう」

 資料にあたる。いまから数十年前には探し求めればあった「その暖かなもの」はいまはさらに少ない。いや、だからこそ、車をおりて、歩いてみようと思う。

 同じく「歩く人」であった、宇沢弘文が車を使わず走って大学まで通ったその意味とも重ねながら。

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