蕎麦を播く

 横田地方の在来種、横田小蕎麦6キロを入手しました。

 通常は1反ぶんだそうです。焼き畑の場合、どうなのか。

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 これから追記して、まとめていきます。

 まずは、種を届けてくださったYさんから聞いた話のメモ。

 大事なことだけでもメモ書き。

・刈るとき……手刈りするとき、根が浅いので、すぐ抜ける。鎌でおさえるようにして、手を動かしてすっと切る感じで。

・乾燥……晴れた日などときどきシートの上にひろげるなどしないとなかなか乾かない。

・刈りどき……次々に実をつけるが、待つより、最初につけた段階で刈ってしまうのがよい

・小蕎麦は背丈が信州などの一般品種よりものびないものである

・他の品種と交替で植えたりしても、交配がすすんでしまう。

 つづく。

前布施の焼き畑

『尾原の民俗』に焼き畑の記述があると聞いたので、確かめておかねばと思いながら、のびのびになっていた。所在はわかっているものの行く暇がなかった。話ついでに他の書もあげておこう。

★「悠久のふる里尾原北原の年輪 : 木次町尾原北原民俗誌」内田稔 編著;1994.12

→県立図書館開架にあり、一度閲覧。複写のため要再訪。木次図書館での所在未確認。

★駒原邦一郎著:私の村のはなし

→県立図書館蔵。仁多の図書館にはないようだ

★『日本の焼畑』佐々木高明/著;1972

→県立図書館蔵。要再読

★「牛と農村の近代史」板垣 貴志/著

→県立図書館貸出可

★「三澤乃神々とおやしろ」陶山親敏

→県立図書館蔵

 さて、『尾原の民俗』だが、島大の地理研究室でささっと見て複写した。

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 備忘すべきことを箇条書きしておく。

◉前布施の焼き畑

・昭和40年代まで行われていた

・共同でやるときは1反。個人でやるときは1、2畝

・8月のお盆までに火入れする

・朝4時から火入れ

・ヒミチは6尺(約2メートル)

・1年目に大根、2年目に小豆、3年目に植林(桧、杉)

・土がいいと3年目も作物を植えた

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 雨が降らず、湖底が干上がった地点から望む、現在の前布施。

奥出雲山村塾〜竹の焼き畑連絡掲示板

2017年度の掲板はウェブに移転しています。

「奥出雲山村塾」のこちらのページを参照ください。

竹の焼き畑2016〜連絡掲示版

以下は2016年度の記事です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

9月上旬へと延期している焼き畑の火入れ日です。
8月27日時点では、9月6日(日)に人が集まれそうだというので、めがけて準備を進めましたが、9月6日は雨によって流れました。もはや、なによりも天候をいちばんに考えねばにっちもさっちもいきませぬ。8月下旬から9月下旬にかけては秋雨の時季でありますよってに。
さて、9月8日時点です。
台風18号が通過したあとが次なる候補。で・き・る・か・な。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◉火入れ作業と見込み

1)前日までに最終整備
・消火ホース、ポンプの点検とシミュレーション……面代&大石&誰か
・風などで散らばった竹や落ち葉などの整備。ゆとりがあれば、草刈り、そして枯竹の追加投入。
2)種の仕分け。どこにどれだけまくか。

ーーー

3)火入れ当日は日の出とともに(6時前には着火)。5時半集合予定。

午後、鎮火したところへ種蒔き(たたいて、灰をかぶせる、まぜる)

◉収穫は11月上旬とみています

1月に収穫祭&発表講演でしょうか。

◉火入れ日候補&準備日

9月12日(土)…準備
9月13日(日)…準備
9月15日(火)…候補1
9月16日(水)…候補2

◆◆◆◆↓↓過去ログその2↓↓◆◆◆◆◆◆◆◆

火入れまでカウントダウンとなりました。あと数回の準備。
火入れは8月23日(日)、24日(月)を第1候補にし、天候等によって延期しながら29日(土)までに、実行できるようにしますよ!
……と書いていましたが、25日(火)を第1候補として調整重ねます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◉今後の作業と見込み

1)火入れ地の範囲せばめ……伏せ込み量が足りないところを寄せていく。
2)斜面裾部分の処理>>5人☓2日
3)種の入手(そば、かぶ、だいこん)
4)東南部の竹の伐採>>5人☓1日

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

酷暑です。
ですので、朝7時半頃から10時頃まで作業。と考えています。
昼間は涼しい場所で読書・昼寝などして過ごし、16時頃から作業再開し、日が暮れるまで。
前回の伏せ焼きや整備時の様子はこちらなどをご覧あれ。

https://www.facebook.com/events/720227741422157/permalink/724751064303158/

https://www.facebook.com/events/940019806056981/permalink/943009075758054/

◉日程

1)8月5日(水)〜6日(木)……伏せ焼き→済
2)8月11日(火)……人数集まらず中止
3)8月12日(水)……人数集まらず中止
4)8月●日……未定。16日(土)か。
5)8月18日(火)\
6)8月20日(木)→実施済
8月21日(金)→実施済

7)8月22日(土)……最後の調整→実施済
8)8月23日(日)……予備日→お休み
9)8月24日(月)……火入れ準備予定日→実施済
10)8月25日(火)……火入れ予定日→台風接近のため中止、延期
11)8月26日(水)……播種→同上

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

①時間:天候による…基本7:30〜10:00  16:00〜18:30
②場所:奥出雲町布勢地区内竹林(問合せください)
③ 定員:15名を予定
④ 参加費:無料
⑤ 申込方法:お名前、ご住所、連絡先を明記の上、FAXかメッセージをいただくか、お電話でお申込ください。返信をもって受付完了と致します。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◉持ち物・服装

・水分補給用水筒やペットボトル等
・長袖と日除けの帽子等(肌が隠れる服装)
・斜面でも滑りにくく歩きやすい靴や長靴など
・虫刺され薬、携帯蚊取り線香、虫除け

◉できれば持ってくるとよいもの

・ナタ、ノコギリ(ヤブや倒木処理用)
・ヘルメット(15個ぶんはこちらで用意しています)
・軍手など手袋(こちらでも用意しています)

◎お申込・お問い合わせ

NPO法人さくらおろち 担当:面代(オモジロ)
TEL&FAX 0854-48-0729(平日9時〜5時)

◆◆↓↓過去ログ↓↓◆◆◆◆◆◆◆◆

13回まで終了!!しました。
火入れは8月23日(日)を第1候補にし、天候等によって延期しながら30日(水)までに、実行できるようにしますよ!

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◉今後の作業と見込み

1)防火帯づくり……山斜面の火入れ地に残っている竹や雑木を移動、火入れ地の中へ。>>5人☓3日
2)火道を切る……2〜3メートル部分にある枯れ葉・枝などを掃いてどかす。道具はてづくり箒か幅の狭い熊手。>>5人☓1日
3)斜面裾部分の処理>>5人☓3日
4)東南部の竹の伐採>>5人☓1日
5)エスケープルートの整備>>5人☓0.5日

◉調査と準備

1)燃やす部分のバイオマス量……竹の本数等を切り株、その稈径等から算出
2)土中温度の測定方法と機器など
3)ドローン撮影
4)定点カメラの準備

◉作物

1)蕎麦の種の準備……横田小蕎麦はきびしいかもしれないが、8月下旬に種を撒いて収穫できる品種で。
2)カブ……
3)大根……
4)トマト……
5)ブロッコリー……

◉収穫、試食発表会までのスケジュールと、準備

★蕎麦の収穫は大変です!!!よ、と

斜面での手刈り、乾燥、脱穀

★参加記録

0)5月30日(土)9:00〜15:00…フィールド調査→済(9名参加)
1)6月7日(日)9:00〜16:00…火入れ地整備→済(7名参加)
2)6月13日(土)9:00〜16:00…火入れ地整備→済(7名参加)
3)6月14日(日)9:00〜16:00…火入れ地整備→済(15名参加)
4)6月20日(土)9:00〜16:00…火入れ地整備→済(6名参加)
5)6月21日(日)9:00〜16:00…火入れ地整備→済(13名参加)

★)6月27日(土)午後:島根大にて「焼き畑講演会」

6)6月28日(日)10:00〜16:00…火入れ地整備(5名参加)
7)7月4日(土)9:00〜16:00…火入れ地整備(12名参加)
8)7月5日(日)9:00〜16:00…火入れ地整備(10名参加)
9)7月11日(土)10:00〜16:00…火入れ地整備(3名参加)
10)7月12日(日)10:00〜16:00…火入れ地整備(2名参加)
11)7月18日(土)9:00〜16:00………スカイプ会議
12)7月19日(日)9:00〜16:00………火入れ地整備・プラン二ング(8名参加)
13)7月20日(月)9:00〜16:00………火入れ地整備・プラン二ング(5名参加)

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

①時間:9:00〜16:00

②場所:奥出雲町布勢地区内竹林(問合せください)

ダムの見える牧場前9:00集合・開始

③ 定員:15名を予定

④ 参加費:600円程度(保険料・昼食材料費)

⑤ 申込方法:お名前、ご住所、連絡先を明記の上、FAXかメッセージをいただくか、お電話でお申込ください。返信をもって受付完了と致します。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◉主なメニュー

・竹林と藪整備(伐る、運ぶ)

・放牧された牛さんたちを眺めながら草原ランチ(メニュー思案中)

*雨風が激しいような天候の場合中止・順延します。少雨ならば実施。

チェーンソーを持参される方はお申し出ください。燃料とオイルは支給いたします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◉持ち物・服装

・水分補給用水筒やペットボトル等

・長袖と日除けの帽子等(肌が隠れる服装)

・斜面でも滑りにくく歩きやすい靴や長靴など

・虫刺され薬、携帯蚊取り線香、虫除け

◉できれば持ってくるとよいもの

・ナタ、ノコギリ(ヤブや倒木処理用)

・ヘルメット(15個ぶんはこちらで用意しています)

・軍手など手袋(こちらでも用意しています)

◎お申込・お問い合わせ

NPO法人さくらおろち 担当:面代(オモジロ)

TEL&FAX 0854-48-0729(平日9時〜5時)

竹の焼き畑2015〜フィールド調査と体験者聞き取り等

これから書いてまとめることです。

◉フィールド調査…5月30日のまとめ

◉Y氏聞き取り…3時間の聞き取りでしたが、焼き畑部分はちょっとだけ。しかしながら有意義でした。

【奥出雲町役場との調整内容】

◉火入れ条例・許可のこと

火入れの許可を出す担当課は総務課ですが、地域振興課を通して「こういうことをやる予定」という下話をしておいてもらいます。NPOさくらおろちが事務局・統括する協働事業であるとして、趣旨・目的、現況図、計画日程(工程)、などを出しています。

◉消防のこと

消防団は役場からの要請ででる。その際の日当は役場から。たとえば花火の打ち上げの場合、放水による防火と、終了後の待機が主な任務。
消防が放水をしないのであれば、必要性が下がる。(待機が必須ということでもない)。
消防署に行く時に、綿密な計画をもってのぞむのがよい。
現場詳細図、人員配置、消化設備など。
→つまりは消防に頼らず実施するということ。万が一火災になれば連絡して出動ということである。 そういえば、経験者への取材では、「山火事になってサイレンを鳴らさないでくれ」と頼んでいて、実際山を焼くこともあったらしい。

◉消防体制

器具は山の火災で使うような背負うタンクがある→どこで借りられるか。借料は?
タンク1トンでは足りない(ひとつは牧場にもある)だろう。10トン以上?
昔ながらの道具であれば、飛び火は杉(竹?)ホウキで叩いて消していたが。

◉焼いた畑で何かをつくるのはいい

おそらくですが、「焼く」方に力点をおくのでなく「作物」に焦点をあてたほうが、理解を得やすいということです。→蕎麦の在来種検討。「ふなつ」で馬木在来蕎麦、横田小そばを扱っているので取材する。

竹紙と葛紙と……

なぜ竹紙なのか……。長くなるので詳細はいずれ。

あえて、ひとことでいえば、

「人はいつごろから、自然界から繊維を取り出し、人工物として再編することをはじめたのか」

を想像してみたい、みるべきだ、そこに価値と意味がある、ということですね。

竹の繊維を取り出すことをはじめているのですが、繊維を取り出すところまでの工程は、布づくりとほぼ同じです。

たまたま、柳田国男の「木綿以前のこと」の中に見つけたので、ひっぱってきておきます。

文化四年に成った『北遊記』には、今の福島県の平と湯本との中間でも、藤布を織って産業にしている者がいたとある。是は衣服の原料としてではなく、おもに畳の縁へりにするために供給していたものであった。春中の女の仕事で、その製法は藤の皮を剥はぎ、水に浸すこと四五日の後、堅木かたぎの灰を加えて暫しばらく煮て、川に出して晒さらし且つ扱こくことは、麻の通りであるとも述べてある。

青空文庫の「柳田国男 木綿以前の事」より

火入れの手順を考えるのと同時に

 手順を考えてみた。そのメモとして。

①計画・調査

 計画:施業面積、日程、人員配置、委託契約(森林組合)、許可事前協議

 調査:植生、土壌(2〜3ヶ所程度)、稈経、密度等

②火入れ地事前整備

 杭打ち等による施業ヶ所マーキング(火入れ地、防火帯、消火ポンプ配置位置、人員配置等)

 下刈り(熊笹等)

 倒竹、枯竹運び出し

③火入れ部分は伐採・伏せこみ、防火帯部分は伐採・運搬

 伏せこみ状況の記録

④火入れ日確定(10日前)8月上旬

 天候状態・天気予報、人員都合を勘案しながら、決定。晴天が5日ほど続き、風がなく、火入れ当日もしくは翌日に、軽い夕立があるのが理想的。

 強風、降雨の場合は順延。

⑤火入れ当日

 集合・手順・安全確認

 火付け

 消化確認

 テント泊・定期巡回

⑥調査・播種

 土壌調査(土質、断面)、記録

 浅耕(焼け具合、灰の厚さ等による)

 蕎麦(カブ)播種

⑦調査(1週間単位)

⑧収穫・試食

2年目に小豆。

3年目から

タケノコ生産林+乳牛放牧地

以上。

竹の焼き畑試行つれづれ

竹の焼き畑について思いつくままに記す。

蕎麦かカブをまこうと考えている。

理由はいくつか。

・焼き畑1年めの作物としてあげられることが多い。なにか理由がある。

・山ふたつ隔てた地域である志津見では、竹の焼き畑の後、蕎麦→粟→小豆→放牧、の順でやっていた(要確認)という聞き書きを白石昭臣氏が残していること。

・竹の成長の抑制効果が確か蕎麦にはあったと記憶(要確認)

・仁多でかつて焼き畑のカブとして栽培されていた種を使って「竹」の焼土でやってみるということの意義。

もっとあると思うが、思い出したら追記していこう。

宿題を思い出した。

映像をどうするか。だ。

椿山のVHS編集版(確か30分で中山間地域研究センターにあるのだとか)の所在確認と借りられるかどうか。ダメなら30分ほどの焼き畑記録を民映研からのDVDで。と思う。

あるかなあ。

ただ単に燃やしているというのでなく、基層文化として記録されているものがよいのですよ。だから、youtubeに転がっているのをさらりと流したくはない。

詳細な計画書をつくりつつ、ボランティア募集のチラシなども仕上げねば!です。

 

竹紙づくりを萩で教わるの巻〜その1

3月末に山口県萩市に行ってきました。

NHKもよう観んのですが、放映中の時代ドラマの舞台になっているようですね。吉田松陰が毎日通っていたという橋のたもとから400メートルほど離れた川沿いに、その工房はありました。

萩竹紙工房綵雲の西嶋さんから、半日即席講習を受けて、今年は竹紙づくりをはじめます。

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これ、竹の繊維です。まずここまでたどりつければ、半分うまくいったようなもの。

5月〜6月にタケノコから伸びきった若竹を取ってくるところからです。

アルカリ性重曹かなあ)液につけてほぐすのですが、失敗すると腐敗して蛆がわくのだとか。どうすりゃええのか。西嶋さんは風通しのいい屋外で屋根があるところがいいのだと。

「まずはやってみる」というのでもいいのですが、もうちょい調べてみます。

匹見の広見河内について

広見河内について。

なにかをいう前にもう少し調べてみたい。そのための材料をいくつかおいておこう。

『角川日本地名大辞典・32 島根県』昭和54(1979),角川書店から引用したものが下記。

天保のころに17戸ほどがあったということがわかる。

江戸期〜明治7年の村名。石見国美濃(みの)郡のうち。はじめ幕府領の益田(ますだ)領匹見(ひきみ)組,元和5年から江戸期を通じて、浜田藩領のうち匹見組に属す。村名の由来は山間の所々に広い所があることによるという(八重葎)。

検地は明暦2年・明和元年で,明暦2年の村高は36石余であり、生産高があまりに少ないため、法懸御免につき免税された。その後村高は「石見国高郷村帳」に33石余、「天保郷帳」では36石余山村で、文政7年には安芸吉和(よしわ)村の組頭が細谷山の杉の木を買入れている。また枌(そぎ)が天保7年に57貫410匁、安政3年に杉大枌17束・杉小枌835束を藩に献上した。

当地では、禿ノ谷・オウコウ・河崎原で藤井氏によって鈩(たたら)が行われていた。天保8年の飢饉には被害が大で、17戸のうち6〜7軒が逃散し、5反歩の田から三斗俵が5俵しかとれなかったという。

広見河内神社があり、この神社および村名については次のような伝承がある「安政元年1匹の鹿が広見部落へ迷い込んできた。これを河崎の部落民が捕えて殺し、肉を分けようとした時、鹿は急に起きあがって走り出したので人々は、鹿を埋葬し社を建て河内神社とした。安政2年この話を聞いた藩主が、これまで広見村といっていた村名を広見河内と改称するように命じられた」という(石見匹見町史)。

地内を通る広見街道は途中で分岐し1つは安芸の佐伯(さえき)郡を経由して芸州の山県(やまがた)郡の二軒小屋へ、1つは五里山の頂上を通って吉和村に向かっていた。明治7年東村と合併して匹見村となる。

*令和7年10月4日に誤字や句読点漏れを訂正した。また以下の「広見河内探索その後」を同日加筆した。

「広見河内探索その後」

まず上記の引用に注を施しておく。

(1)地名について

「村名の由来は山間の所々に広い所があることによる」とは、文化13年の自序をもつ石田春律の『石見八重葎』にある釈。書名には「つぬさはふ」すなわち石見の枕詞が冠されている。桑原良敏は『西中国山地』(1982,渓水社)の「広見山」の項で、まず吉田茂樹『日本語源地名辞典』をひきながら、ヒロミは広(ヒロ)に接尾語ミを付加したもので、「山地の中で部分的に広くなった平地のある所」だということを広見河内の地形がまさにそれであると、述べている。桑原は「広見山」のことをここで述べており、吉田の説明をいったんは受け入れ、広見山とは広見という村の奥にある山という命名由来とするのが穏当であろうとする。しかし続けて、広見山は広く見渡すことのできる山という意味にもとれると述べ、広見山と並ぶ十方山もそうであると、双方ともに頂上部の植生が笹となっていて、四方を見渡すことができるのだと。そうしたことは登った経験をその時の実感を重視するものであろう。他の山名にもそうした感覚が生かされた名になっているものがあるのだと考える。ひとつの見方として心に留め置きたい。広見(村名)よりも広見山(山名)が先にあるという名語史は『石見八重葎』も併記している。「又廣見山有故共云」と。

そしてまた『石見八重葎』は広見山を十方山と同じ山としている。すなわち広見の項において高山として十方山をあげ、「魔所にて登る人ヲ不聞。廣見山とも云」と。*1

(2)法懸御免(ほうがかりごめん)

文字通り「(年貢付法=免割の“法”を)懸けることを御免」=本途物成(年貢)の課税対象から外すという扱いを指す。背景には、辺僻・瘠地・極小高などで、定めの法(免割)を適用しないという運用が各藩で存在していたようである。
広見村ついてこれをみるときに、決め手となる文書が確認できないのが問題となる。まず『角川日本地名大辞典・32 島根県』(1965,島根郷土史会)が矢富熊一郎『石見匹見町史』のみを参照してこの項目を書いていることが随所に伺える。私は時折参照しているのだが、矢富の『石見匹見町史』には点々と誤読、錯字等があり、中には深刻な間違いも存在する。広見の法懸御免についての『石見匹見町史』記載の箇所の表に間違いがあることは後に指摘するが、まず、問題の箇所を点検する。すなわち「明暦2年の村高は36石余であり、生産高があまりに少ないため、法懸御免につき免税された」の真偽について、である。

何が本当かわからないとき、一次資料が提示されている場合には、そこから足場を固めることである。『石見匹見町史』本文中にみえる翻刻に次のものがある。

《御組生高三拾六石九斗壱合、広見河内村往古より諸掛り御免、五石(拾五を転記間違いか)七斗六升内石村の内、去ル辰(弘化元年)。より当卯(安政2年)。十二カ年、諸掛り御免、残弐千四百八拾四石三斗八升六合、尚組諸掛り高ニ相成候由被仰越、承知いたし候》*括弧内は編者の注記

とある。安政六年に原井組割元宇津与七郎から、匹見組割元美濃地表左衛門にあてたものだという。

諸掛り御免(しょがかりごめん)という語が出てくる。こちらは年貢以外の付加負担(御用金・運上・夫食・口米・小物成など雑税諸役)を免除する処置。恒常指定と時限免(飢饉・荒廃年などの一定年期)があり、本年貢の免除とは別枠である。

  • ① 広見河内は「往古より」諸掛りは免除だから、恒常免

  • ② さらに、(十五石七斗六升?)相当の他村については弘化元~安政二まで十二年間の時限免。
    ③ その残余(2,484石3斗8升6合)が組としての12年間の諸掛り負担高になる、という割付の内訳通知

  • 数値の小さな齟齬
    「五石」か「拾五石」かは、文脈上は「拾五」の可能性が高(“残2,484石…”という桁との釣合い)。ここは原本を確認しないとわからない。

  • 広見河内の“往古より”諸掛り御免は、雑税・諸役の恒常免除の由緒を意味する。

では、法懸御免はどうかといえば、文書は示されない。「広見河内村の年貢(高)三拾六石九斗壱合は、同村の土地が辺僻で生産高も少ないので、法懸御免に付し、租税は免除されている」と根拠を示さず本文で叙述されているのみ。

ただ、「日本歴史地名大系」(平凡社)の広見河内のくmにその傍証となることが記されている。

「元和五年(1619)の古田領郷帳に村名がみえ、高33石余、年貢高は田方4石余・畑方2石余。正保4年(1647)の古田領郷帳では有高32石余、免一ツニ分」

古田領郷帳とは、浜田藩主が

広見小学校についてですが、「匹見町へ行こう!」ブログに以下の記述。

広見小学校は集落移転に伴い

昭和45年12月24日に廃校式と集落移転式が行われ

翌年1月から匹見小学校に統合されています。

(匹見町へ行こう!)

またもうひとつ。廃村をまとめて出版しておられるHEYANEKOさんのページから。

広見小学校は,へき地等級2級 児童数31名(S.34),明治17年開校,昭和45年閉校。 三八豪雪や集中豪雨の影響もあって過疎化が進行した時期は早く,最終年度(昭和45年度)の児童数はわずか2名でした。

広見集落の閉村は昭和45年12月。同年に制定された過疎地域対策緊急措置法(過疎対策法)を受けた匹見町の集落再編事業によるもので,最後まで残った7戸。そのうち2戸は甲佐家と久留須家だったことになります。

http://heyaneko.web.fc2.com/zsw14.html

*1『石見八重葎』は、石見地方未刊資料刊行会の翻刻(1999年刊)による。

椎茸の栽培法〜鉈目法について

2025/08/12現在。多少の補筆をする。

以下は2015年2月に書いたもので、引用したところには誤りも多いのだが、そのままとするが、特に気になる1点について。

*1「江戸時代末期になると,自然に菌が付着するのを待つのでなく,積極的に種菌を植えつける方法が開発され, 椎茸栽培は大分県内に広まり」とあるが、まず、積極的に種菌を植えつける方法が試みとして始まったのは昭和初期。ひろまったのは戦後である。椎茸栽培の初期的広まりは大分県内に限らない。宮崎、鹿児島、三重、和歌山、静岡(伊豆)、複数にわたる。大分に発してそこから全国へというように、この津久見の発祥地をたてた人たちに思えたのにも理由があろう。

 

〜〜以下元〜〜〜

備忘として記すものなり。

それは「タヌギなどの原木に鉈で傷をつけ(鉈目という)、自然界に浮遊しているしいたけ胞子が鉈目に付着するのを待つという極めて原始的な方法です」とある。

私にとって、鉈目法についての関心は、いま、できる人はいるのか、が真ん中にある。

映画「千年の一滴」の中では、宮崎県椎葉村の椎葉クニ子さんをあげていた。

山の谷ごとに異なるような微細気候(マイクロクライメット)の読み方という点で、いま取り組んでいる竹の焼畑の可能性ともつながる。

web辞書どまりの記述では、傷をつけて待つという、のんびりしたものだが、私が聞いたことがあるのは、胞子が飛んで付着する時期を長期で読みながら準備し、短期でよむその数日の間に、一気に原木を運ぶ(水から出す? 鉈目をいれる? それら全部?)のだというようなこと。

文献レベルでもう少し知る必要がある。

大分がその発祥の地とされる証左はこちら。
http://hamadayori.com/hass-col/agri/SiitakeSaibai.htm
なくなるといけないので、複写しておく。

日本特殊産業椎茸栽培業者発祥地

大分県津久見市上宮本町

JR日豊本線の津久見駅から 500mほど南西に 浄土宗の寺・長泉寺がある。

寺の土塀外側の道路脇に,古い苔の生えた大きな石碑と「由来記」と書かれた副碑が建っている。

大分県は 椎茸の大生産地で,乾椎茸では 全国で第一位,30%のシェアを有する。栽培の歴史も古く, 江戸時代初期(17世紀前半)に豊後の国で炭焼きをしていた源兵衛という人物が, 原木の残材に椎茸が生えるのを観察して 初歩的な人工栽培を始めていたという。

これは“鉈目法”と呼ばれる方法で,クヌギなどの原木に鉈で傷をつけて野外に放置し,自然に椎茸菌が 付着して繁殖するのを待つという原始的な方法であった。

江戸時代末期になると,自然に菌が付着するのを待つのでなく,積極的に種菌を植えつける方法が開発され, 椎茸栽培は大分県内に広まり,明治以降は椎茸輸出の増加に伴い生産量も急増した。

大正時代になると,種菌を原木に打ち込む“埋ほだ法”が開発され, さらに昭和になるとくさび型の木片に椎茸菌を培養した“こま菌”を原木に打ち込む方式がが開発されて, 簡便な接種方法のため広く受け入れられ全国に普及した。

この発祥碑は,江戸時代末期に種菌を人為的に植えつける方法が行われるようになったことを記念・顕彰したもので,昭和30年に建碑された。

また,内陸の豊後大野市には「しいたけ発祥の地」という碑が建っている。

現在国内で栽培されている椎茸のうち上記のような“原木”を用いる方法を採っているのは少なくなり, 多くは“菌床法”と呼ばれる,おが屑に栄養分を混ぜ込んで固めた“菌床”で種菌を培養したもので 栽培されるようになっている。 しかし大分県での椎茸栽培は,現在もほとんどが原木を用いているのが特徴である。

なお,この発祥碑については 若干の疑問点がある。

§ 発祥碑の表面に刻まれている文字は「日本特殊産椎茸栽培業者発祥地」と読み取れ, 「産業」の「業」の文字が抜け落ちているように思われる。

「特殊産」では意味が通じないし,副碑(由来記)には 「日本特殊産業椎茸栽培業発祥之地」と書かれていることから,「特殊産」というのは誤記ではないかと想像される。

§ 標題の「日本特殊産業」とは何を意味するのだろうか? 椎茸栽培は林業に分類されているので,その中の“特殊”な業態という意味であろうか。

§ 椎茸栽培の発祥地は “静岡県の伊豆半島”説がある。

伊豆は17世紀末~17世紀にかけての話であるのに対して,大分県は 17世紀前半なので, 大分の方が若干早かったが,いずれも不確かな伝承に基づくので断定は難しい。

日本特殊産椎茸栽培業者発祥地

(副碑)

由来記

往昔天保の頃津久見の先覚者彦之内区三平西之内区徳蔵嘉吉平九郎

久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し三平徳蔵は石見へ出向椎茸栽培

業を経営す是中国に於ける専門事業者の始祖なり嘉吉平九郎久吉は

九州奥地に於て創業した是九州地方の専門的事業者の始祖にて郷土

の子弟に是を継続して連綿百二十余年伝統を保つ而て本業の推移は

時恰も幕末期にて営業上幾多の支障あり従て労多く得少く継続困難

の状態なりしが明治初年日支貿易開港以来輸出椎茸旺盛となり価格

の躍進につれ本格的に事業化し此頃より業者の数も著く増加せしは

歴史が明示する九州地方百九十四名中国四国済州島地方七十余名の

専門事業者を算す斯くて日本特殊生産品として輸出市場に名声を高

揚し神戸港及長崎港を経由輸出椎茸は年々巨額に達せり其大部分は

津久見人の出先経営地の生産品である実に開港以来七十余年間何等

名聞も求めず深山に籠り孜々黙々として外貨獲得の一役を果し其余

沢は郷土の経済安定に寄与し一面着々未墾地の開拓を励行し風土に

最も適応した柑橘園の基礎を構築したのも現実が証する此先輩の貴

い伝統を子弟は能く継承し出ては貿易品増産に勤め入りては郷土の

産業を振興した其業績の偉大さは全国的に総合し椎茸栽培専門業者

として抜群的特技の存在にて是業界再興の権威日本特殊産業椎茸栽

培業者発祥之地を穣成す此国家的大産業の振興は津久見市の大なる

誇なり茲に碑を建設し過去と現時を通じ斯業に精進せる郷土人士の

敢闘精神と其業績を讃へ以て永遠不朽の記念とす

昭和三十年五月二十一日

一介茸山子  西郷武十 (八三翁)

そして、大分から中国地方へこの技術が伝わる拠点となったのが、匹見町広見であるという。それについては今度。