ナバニコ考#4

日原のなばにこについて

大庭良美,1974『日原聞書』(未来社)の「きのこ山師」に、ナバニコのことが出てくる。ところが、「ナバニコ」という言葉を話者の薬師寺惣吉は用いていない。「ニコ」と言っているのだ。同じくナバ=茸を語頭に冠した「ナバミノ」という言葉は使っている。それは当時、ミノはあってもニコが当地にはなかったからだ。

《私がここへ来た時、ここにはニコというものがないのでオイノコで物をかるいよりました。私のニコを見てこれは何にするものかというと分けてくれえというので二〇銭で売りました。それからだんだんこしらえてくれえというのでこしらえてやりました。》

採話は、昭和37年、話者が87歳のときであるが、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会から、4年後に刊行された『日原民具志』では、ニコについて、この『日原聞書』からの抜粋をはじめ、かなり書き加えられた説明がある。オイノコからナバニコへの転換についても簡単にさかれているが、『日原の民俗資料』での「次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」というテキストは抜かれている。訂正とみてよいのかどうか。そうした地域もあっただろうが、少なくとも茸師であった薬師寺惣吉が語る滝元ではオイノコからナバニコへという転換であった。加えて、こうある。

《滝元では前にはにこはなくてオイノコでかるうていたというが、脇本わたりでもオイノコであった。オイノコは山へゆくにも肩に投げかけてゆけばよいので便利であった》

滝元、脇本の位置についてはのちほど追加するが、ほか大庭加筆のポイントとしてふたつ。

・初めは男が、のちには女も使用するようになった

・私のところでなばにこをつくったのは昭和56年頃である

後者について。大庭がいうわたしのところとは、畑のことであろう。なばにこを畑に「いれた」のが大正の終わりで、「つくった」のが昭和56年頃ということか。『日原の民俗資料』と『日原民具志』に矛盾がなければそうなる。しかし、移入から自家での作成まで50年以上を有するというのはいささか長すぎはしまいか。不明であるなかで、確かなこと、それは畑でなばにこをつくったのは、昭和56年頃であったということ。そして、なばにこの日原への移入と在来にこの転換は、複雑な様相をもって推移したであろうと、いまは捉えておこう。

 

ナバニコ考#3

ナバニコなる語彙は、日原の土地で生まれたものではないか。
背負梯子をニコと呼んでいた日原に、茸師(なばつくり:日原、匹見での語彙)が、新奇である特徴をもったニコを持ち込んだ。そのニコを在来のニコとは区別してナバニコと土地の人は呼んだ。やがて土地のニコそのものがナバニコに近づく変化を遂げつつも、ナバニコへと「置き換わっていった」。

そう仮説づけて、ナバニコと椎茸の栽培化で生じた自然認識と環境管理技法の変遷を自然思想史(あるいは民俗学)のなかで捉えてみたい。西中国地方から九州にかけてのローカルなそれとして。時代のなかでは石見地方のたたら師が九州へと流れていくのと逆の流れ、人の流れが九州から石見へとあることを意識してみたい。

材料は乏しく、わずかな断片からそこまで広げようとすれば、孤立的離散的な諸事実に架空の連関と歴史を賦与するだけだという誹りを受けよう。誹りは一向にかまわない。意思と冷徹な頭をもって行けるところまで行ってみたい。

ナバニコと名付けられた民具が展示されているのは、日原歴史民俗資料館。開館は昭和56年(1981)11月4日。大庭良美が蒐集と開館へ向けて指導したもので、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にまとめられている。そのあとがき、すなわち開館記念の挨拶の記録には次の一言がしるされている。

《今後に残された問題
一、開館はしたがこれで完成したのではない。まだ足らぬものもたくさんあり、これで十分ということはないからひきつづき資料を収集して充実したものにしなければいけない。
二、資料には一つ一つ写真や図をつけ、名称、使用方法、使用場所、使用年代、製作者、材質、寄贈者等くわしいことを記入した台帳を整備しなければいけない。》

昭和56年11月4日は、はじまりに過ぎない。そこから何がどのように進展したのか、今知ることはできない。何もないかのようにすら見える。だが、公開されていないだけで何かが残っているはずだ。そこからさらに歩を進めるために、足がかりを探してみよう。ひとつには、ここで記されている台帳が閲覧できればと思う。

そして、もうひとつ、蒐集者のこと。大庭良美が民具蒐集にあたりたどった足跡である。代表的著作には『石見日原聞書』、『家郷七十年』『唐人おくり』があるが、寄稿論文で書籍にまとまっていないものもあるだろう。それらを年代順に整理しよう。大庭の民俗学への傾倒、そのはじまりは幼少の頃の星空への憧れであったか。随筆に記されているかもしれない未読のそれをあたること。野尻抱影とは無名の頃からの文通があった。野尻が星の民俗を蒐集しはじめるきっかけとなった、最初に星座の地方名を書き送ったのは他ならぬ若き大庭良美である。

大庭が東京のアチック・ミューゼアムへ野尻抱影の紹介で訪問したのは昭和12年1月21日。この時、磯貝勇から『民具蒐集調査要目』『山村語彙採集帳』を出してこられ、民具名彙や農村語彙を採集してみたらとすすめられている。

地方名というものに大庭の関心のみならず、それをどう扱うべきかについての深い洞察があったことはこれら状況から推察できる。ただ『日原の民俗資料』にはその面は希薄であろうか。6年後の1992年に刊行された『日原民具志』と比較してみようと思う。

ナバニコと同様の民具名として、安田村(現益田市安田)の「なば山負子」がある。『安田村発展史』p.407からひろっておく。国東治兵衛が椎茸栽培法をもたらしたとする記載中に出てくるのだが、国東治兵衛の椎茸栽培がどこまで成功したかは実際のところ不明である。

《東仙道村ではあし高の背負梯子を、なば山負子と云って居る。椎茸栽培が豊後邊の他國人に指導されたことは、那賀郡杵束村に存する、せんどうばつちの語を見ても、了解できる》

つづく。

 

ナバニコ考#2

木次図書館で確かめた。7月に資料館でみたナバニコは、大庭良美1986に1点ほど掲載されているものとは異なるし、口絵で確認できる2点のナバニコ(らしきもの)とも違う。同書巻末に掲載されている収蔵品目録には「にこ」10点とあるので、どこかに所蔵されているはずである。観覧願いを出して確かめてみたいものだ。

同書の「交通運輸」の章、運搬道具の項に解説と写真がある。p.136-138. 国会図書館デジタルの個人送信でも見ることができる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576167

《普通のにこは在来のもので、荷をのせるコは枝を利用してつくった。なばにこは豊後のなば師が椎茸つくりにきた時持ってきたもので、足が長く、荷をおごねたり、途中で休んだりするのに便利なので、なば師に頼んで作ってもらって使うようになり、次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである》

なば師からはいくらで作ってもらったのだろう。そして、在来のにこと入れ替わっていくのはいつごろのことなのだろう。大庭良美の『石見日原村聞書』も参照するに、日露戦争が終わる頃から大正時代の終わりにかけてではないか。そしてそれは豊後から入ったなば師がひいていく頃でもあったろう。

《在来のにこやなばにこは、草や稲、藁、ひたき、薪といったものから米でも木炭でも何でもかるわれ、なくてはならぬ道具であった。かるい荷の大部分はこれを使った。》

「なくてはならぬ」ものが、「なくてもいい」ものに変わり、消えていくのだが、これほど大事にされてきたものがそう簡単に消え失せるとは思えないし、思わない。こうして博物館の展示を通して、私、令和4年に生きているひとりの人間が、かつてナバニコを背負い、山と山を、山から里へ里から山へ、里からまちへと行き来したもうひとりの人間と出会おうとしているのだし。

「かるい荷の大部分はこれを使った」というナバニコ、在来のニコと置き換わっていったというナバニコ。まずはその時代へ、「わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」と大庭氏のいうその時代へ行ってみよう。『石見日原聞書』が案内してくれる。わたしのところというのは、大庭氏の生まれ育った日原の畑である。天然記念物の大楠で知られる。

文献

†. 大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会

ナバニコ考#1

日原民俗資料館で見たナバニコ。
ナバは茸、ニコは荷子だろうか。日本の山ではあまねく見られたであろう民具であり、現代にあっては背負子(背負子)と呼ばれることが多い。子は梯子の子と同根と推定。民具の一般名としては「木負子」になるのだろう。

さて、ナバニコ。大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にある写真と若干違うような気がして、図書館で確かめてみようと思う。ナバニコについている札には「名称:ニコ」とあるのだ。また、ナバニコの分布について、少しおってみたい。

下のニコと比較して、上部がスリムであること、脚が長めであること、背がゆるやかに弧状であることなどが特徴的。背負ってみればわかるだろうが、荷重の重心がより腰や背に近くなるだろう。背当ての丸い藁編み(緩衝具)も含めてのものなのかどうかは不明である。
明治に入る以前から豊後の茸師が持ち込み、日原の人が見て背負ってみたのだと思う。仕事に雇われて使ってみて良さを実感した。そして肝心なのはその次だ。大庭1986によれば、茸師に「頼んでつくってもらった」ものだという。

まず、この展示一点だけなのか、他にいくつもあったのか。後者であればどの程度あったのか。少なくとも「なばにこ」という名で呼ばれ、少ない数が存在したのだと考えるのが自然だ。せめてもう一点現存していれば特徴を定めやすいのだが。

これら民具の収集にもっとも協力的であったのは左鐙地区の老人会であったと聞く*1。かの地は天保11年頃には豊後の茸師・徳蔵が入って営業をはじめている地である。(徳蔵は文久4年に山小屋で喀血死。天保5年〜天保10年まで三平、徳蔵、嘉吉の3名は深葉の官営事業所で椎茸栽培に従事した仲間として、嘉吉が西郷武十に語ったものが典拠であるが、資料は現在入手折衝中。西郷武十『日本特殊産業椎茸栽培沿革史』昭和30年,津久見椎茸顕彰会刊)

3つ目に、匹見の美濃路屋敷(歴史民俗資料館)にあっただろうかということ。あれば撮っているだろうから、たぶんないのだろうが。数年前に一度駆け足で訪れた際には豊後ヨキの写真を撮っている。豊後由来で名称がついたものを集めてみる必要もあろう。

ちょっと横にそれた。
ナバニコであるが、名称表示はなくとも、同じような形態のニコをどこかでみたぞとたどってみれば、芸北 高原の自然館の隣にある山麓庵にあったのだ。下の写真右上のがそれらしい。その下にある「にこ」とは形態が異なることがみてとれるが、どうだろう。

 

*1
博物館で聞いたのかパネル説明にあったのか。大庭1986のあとがきにもあったので以下記す。
《特に《左鐙にあった資料は大きなものだけでもトラックに八台、運ぶのに一日半かかりました》

令和4年秋、種子だけはとれると思っていた大豆が牛に齧られた日に

令和4年9月30日。徒然なるままに記す。

4日前から家の裏の金木犀が香りを放っている。夕方、山へ行った。春に焼いた畑は、トマト、里芋、大豆を残すのみとなった。タカキビが無事に収穫できたことでほっとしていた。気がゆるんでいたともいえる。夏に焼いた急斜面でも期待していなかったカブは大きく育ちつつあって、11月下旬にはとれるのではないかと淡い期待を抱いている。

大豆のこと

そのカブのある斜面から5mもあがれば夏焼の畑に着く。目に飛び込んできたのは、葉のなくなった大豆だった。見事に葉の部分だけが齧られている。きれいなものだ。もともと5〜6株しかなかったのだから、荒らされてはいない。そばには大きな糞があった、2〜3日たっているだろうか。あぁ、種子は無理か、一からやり直しか、まぁよい、黒大豆はもともと難しかった。白大豆にそろえてやりなおそう。いい機会かもしれない。さて、これはどうしようか、一株くらい残そうか、枝豆としてすべて食べてしまおうか。そんなことをつらつら考えた。

白大豆は焼畑で5〜6年はついできたものだ。品種はよくわからなくなっているが、庭でもよく育ったので、無肥料地にうまく適応しつつあったものだ。まともにとれたのは一度もないように思う。牛に食われたのは一度くらいしかないが、タヌキかアナグマには収穫の前日にめちゃくちゃにされたこともあった。あのときは悲しかった。豆を食われたのだから。土にまみれてしまったなかから救い出した豆数個を翌年ついでできたときには嬉しかったような記憶がある。

焼いて2年目から3年目の畑でよくできた。今年は初年から区画の端にまいてみたが、例年にない雨の少ない梅雨で、発芽はごくわずか。1割ほどではなかろうか。2度めの台風では倒れてしまったが、翌日に起こして支えを入れたのがよかったのか、実がだんだんと膨らんでいくのがうれしかった。そんな矢先に牛に齧られたわけだ。タヌキ対策はこれからだったし、策があったわけではない。来年はタカキビ・アマランサスの後に植えるつもりであるから、策を二重三重に練り上げておこう。

タカキビのこと

林原のとある農家で長年栽培されてきたものを7年ほどなんとかついできている。今年は丈が高くなってしまった。平均2m30cmほどだったか。あとで面積と株間をはかり、来年も同程度の面積は確保したい。できればもっと広く。播種時期はちょうどよかった。

アマランサスのこと

間引きが遅れたのと、面積を広げすぎた。播種時期はもう少し後ろでもよい。

里芋のこと

今日掘り上げたか、おそすぎた。焼畑の場合、土寄せができないので、9月頭に掘り上げてよかった。

今日のところはこのへんで。また加筆するかもしらん。

合歓木の花が目立つ今年の夏

まとまった雨が降り山の畑もほっと一息。春焼き後の点描を。

◉アマランサスは順調にみえて少し変。昨年は火入れができず、菜園畑で採った種子を用いたのですが、なんか違うものが交雑してるようです。葉っぱの味も違う。やれやれ。できる限り選別していきますが、難しい。里の畑だとヒユ科の何かが混じってしまうのだと再認識。


◉ミニトマト(ブラックチェリー)の草勢は想像以上。ほとんどいじらず放任して様子をみます。

◉カボチャ(かちわり)も降雨以降盛り返して、遅れを取り戻しています。3年前はうまくいかず、焼畑にはあわないのかと期待はしていませんでしたが、いけそうです。

◉ナス(黒小町)は交配種で、一代限りのお試しですが、雨の降らない時期によく枯れずに残ったというところ。復活の様子見。

◉はぐらうりは今年はじめて。牛が入るところに直播し、まったく芽が出ず、諦めていたのですが、出てました。よかった。ウリ科の草は牛が放置してくれるのではという期待もこめて。どうなりますか。

◉タカキビ(林原在来)は初期の成育がよくなかったのですが、いい感じかと思います。

◉サトイモ(三刀屋在来)もなんとか。焼畑のはとりわけ美味いことは実証済みなので、楽しみに見守っていきたい。

◉ヒエは、まったく発芽しませんでした。なぜ。心当たりはもちろん複数あるのですが。
◉大豆もゼロかと思っていましたが、わずかにのびているものがありました。黒大豆か。白大豆はたぶん全滅。ヒエもですが、雨がないと、焼畑の大豆はちょっと無理ですね。たまたま堅い土のところでもあったためよけいに。

 

 

ドングリの芽が次々と

昨秋から拾ってポットに埋めてきたドングリ。ようやく芽を出し、小さな葉をひろげはじめている。本当に個体差=発芽発根の時期はまちまちで、最初にひとつのポットから芽が出た後、後続がないのにはやきもきしたものだ。栽培野菜の発芽がいかに揃いすぎているか、ということでもあるのだろう。途中からどこでとった何の種子がどのポットなのかわからなくなった。葉がひろがってくればわかるだろうと思うがどうだろう。何を拾ったかくらいを思い出して書いておく。

■コナラ…主に3箇所。いずれもさくらおろち湖のまわり。道の駅おろちの里からダムの見える牧場に向かう途中の道路脇、ダムの見える牧場の林縁地、岩内山の麓。いっそ、マップに落としてみる。

コナラが多いように思えるが、あるところにはあってないところにはない。北に位置する岩伏山の麓ではシラカシがコナラより優先しているように思える。アラカシは点々とあり、アベマキは少ない。ざっとそんなところか。

■ナラガシワ…日登牧場のそばで採取。

■シラカシ…木次の住まいの裏山もシラカシが多い。あちらこちらの神社の境内もシラカシが多く、コナラはそうした古い社叢にはむしろまれではないか。が、ありそうな気もする。小さくやや開けた明るい森のなかで。

■アラカシ…牧場で。

■アベマキ…牧場で。

■シバグリ…塔の村の裏から宇山に抜ける道の側溝で。

■スダジイ…キナヒ山で採取したもの。

 

令和4年、冬の火入れの記録

春の火入れを前に、冬の記憶を整理。
令和3年2月12日快晴
冬の火入れをやり直した。1月23日に開始数時間ほどで中止したところである。この日は快晴。気温は5〜10℃であったと思う。
狙いのひとつは春の火入れ準備。防火帯形成のひとつである。燃やすことで防火帯を形成しておくことは理にかなっている。先日公開講座で例を知ったネパールのとある地方の焼畑では、火入れ前日の夜に「焼いて」防火帯をつくるという。燃えるものが燃えてしまえば、もう燃えることはないのだ。焼畑がすぐれて状況管理時間管理の技術であることを、その意味をよくよく反芻しておこう。
狙いのふたつめは、消炭をつくること。竹の消炭は野でつくりやすく、使いやすい。土壌改良材などと呼ばれることもあるが、それはほんの、ほんとうにほんの一端でしかない、と私は思う。小川真の著作参照のこと。
狙いの3つめ。火をみて感じておくこと。昨年春も夏も火入れは中止としたので、火を見ていないのだ。春の火とは次元を異にするとはいえ、ふるまいに共通する面もある。それを身体に覚えておくためにも。
動き続けて燃焼6時間強

今回、火のコントロールはやや難しかった。着火から延焼開始(臨界点突破)までは30分ほど。このときほぼ無風。条件が悪く天候悪化もあって中断した前回は1時間半以上かかっているから上出来だろう。
着火が10時半くらいだったろうか。延焼開始まではスムーズだったが、雪に埋もれた竹や積み崩し途中の竹を掘り出しては積み増しながら燃やし続けた。火勢が足りないことが予想され、着火点から1mほどいったところに背の高さくらいは積んでいた。なぜ着火点から積んでいないのかといえば、危なくなったら崩す必要があるからだ。そして、ちょうど1mほど進んだところで、危なさを感じ、少々崩した。途端に勢いは削がれた。積み高1m50cmをひとつの目安だろう。

タンクの水が抜けていたものの
そろそろ放水して消炭づくりに入ろうかとタンクのもとへ行ってみれば、なんと水が抜けていた。仕方なく自然鎮火を確かめて撤収となった。翌日の午後、全部灰になってしまったかと諦め半分で行ってみれば、なんのなんのまだ炭でも燃えているところがかなりあった。雪をまぜながら、バケツ2杯分を持ち帰った。
ほか、気づいたこと多々あった気がしてならないが、思い出した折にまた加筆することとして、簡単ではあるがここまで。

雪どけと足あとと火入れ準備と〜令和4年出雲の山墾りsec.2-3

1月16日と17日の2日間、冬の火入れ準備でほぼ終日、山のあちこちを動きまわった。それらあれこれの合間に、ふと感じたことなどを記しおく。

塗装された道路の雪はすっかり溶けていて、峠のところどころに残るのみ。土の道に積もった雪はまだまだ残っているし、草木が覆う山の斜面であればなおさら。こういうときに山を見たり歩いたりすることは、とてもおもしろい。どうしてここだけ深いのだろう。どうして浅くなっているのだろう。そこはサクサク、ここはフワフワ。雪の下が凍っているところ、とけて水が流れているところ。目眩がするほど雪の溶け具合はさまざまなのだ。
降り積もっているときにはその一帯一様であったものが、溶けるときには、実に多様な状態を現出する。なぜそうなっているのかを推しはかりながら、土地の性状を、ミクロのモザイクを少しずつつかんでいくのは、ほんとに楽しい。

雪が示すものに限らず、土地の性状を知る上で、鳥や獣は先生になってくれる。ただ、どんなに乞うても面と向かってはめったに教えてはくれないので、ふともらしてくれるような一言は貴重だ。雪の上に残された足跡もそう。あるいはつぶやきのようなものか。安易に意味を付託するではなく、それとしてとどめておくのがいい。語ってくれるまで記憶に残しておく。16日に見たこの足跡もそう。タヌキかアナグマ、そして小さなイノシシだと思われる。冬を越せるだろうか。この足跡から30mほどいけば竹藪となる。そこを伝っていけば、まだシラカシの実が落ちている場所にたどり着ける。

 

エンジンポンプで水をあげる。ホース長が15m、ふたつをジョイントして30mで使う予定であったが、すぐにはジョイントできず、うまくいくかどうかもわからない。ならば、15mで前にすすめてしまおうと取り掛かった。リレーすること6回。5時間ほどかかってゴール手前まではいけた。春には、高出力エンジンポンプをリースだね、とは思った。ただ、効率悪いこの小さいやつのいいところは、ひとりでも動かせること。やりようかもしらん。
ポンプは全揚程30mとある。こうしたゆるやかな傾斜なら40m長のホースでもいけるのでは? 今あるものの長さをはかること、接続具の用意からはじめてみることにする。

 

その日のはじまりはさまざまであった〜山墾りsec.1

1月9日の日曜日、晴れ間がうすくのぞいている穏やかな日だった。あちらこちらの集落でトンドが催されていたようで、ポンポンと竹のはぜる音が聞こえていた。里方から佐白へ向かう道中には誰もいなくなった広場でひとり始末を続けている人影も見えた。
自分にとっては、令和4年、年があけて最初の週末であり、山仕事をはじめる日である。

手元にある掛合町史の第9章、掛合町の民俗をひらきみるに、11日を百姓始めあるいは仕事始めの日としている。

・牛舎から庭へ牛の出し初めをする
・田に出て「一鍬千石、二鍬万石、三鍬数知れず」と唱えて田打ちをする
・ゼニサシ、ゼニツナギを最初に作る

執筆者は、これらの例をあげながら「この日の始まりはさまざまであった」と記している。どなたであったか。島根大学の宗教学の先生であったと思う。明治の終わりから戦後間もないころまでの雲南の正月風景、その姿は変わり果てていようと、人それぞれ、さまざまというその有り様は、80年後のいまとてそう変わりはあるまい。

さて、その山仕事。簡単に様子を記しておこう。

昨年の火入れができず、数カ月後の5月に火を入れる予定のこの区画。まだ雪が残っているが、日陰斜面となっている北西部にあたるためだ。軽く雪をのけて、竹の積み増しを続けようと考えたが数日でとける可能性にかけた(はずれるが)。雪でしなりが大きくなった手前の竹を10本ばかり伐採して整理した。1立米のタンクを置く場所とルートを確認し、障害となる切株や灌木などを取り除いた。

晩春に学生らが火入れしたところに置いたままの500リットルタンクをひとつおろした。積雪は15センチ程度。うまくすべってくれたので、想像よりはるかに楽におろすことができた。

先客あり。足跡は小さなイノシシとタヌキだろう。2日くらい前だろうか。

倒して2年ほどたっただろうか、イヌシデの大木にキノコが生じていた。ヒラタケか。うまそうで、とりたい衝動にかられるも、こらえた。

菊芋を掘りたかったが、日が落ちてきたので次回に。2時間半ほどの作業であった。